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第3回 「気」

開催日時
平成26年1月24日(金) 14:00~17:00
討議テーマ
「気」について
開催場所
東京ウィメンズプラザ
参加者
塚田、土岐川、下山、大瀧(茂)、松本、望月

討議内容

今回の討議内容も前回同様、土岐川、望月、両名のレポートを併記して報告させていただきました。

土岐川

今回のテーマは「気」ということで考えたい。

気は、目に見えないので掴みにくいイメージがあるが、景気、元気、気合い、病気、……、色々な言葉に含まれてイメージをリアルにしてくれている。気は、気のせいといった、無いものではないと思える。

そもそも気とは何か? それは見えない力が働いていることを感じて言葉にしたということではないだろうか。
若い人が「空気を読まない」ということをコミュニケーションの重要な要素の欠落として指摘すると言うことは、空気を感じる力が強いということかもしれない。

若い人ということで言えば、周囲に合わせることへの気配りが過剰に働いて自分の意志というものを封じ込めているようにも感じられるが、どうだろう。

気は五感で捉えられる対象には含まれない。かといって第六感でもない。直観というのとも違う。

元気というときの元はどこにあるのだろう? 元気な人の中ではなく、もっと総元に繋がっているように思える。逆に、病気というのは総元の気が流れない状況かもしれない。そうなら、気からは生命の源という感じが伝わってくる。

気のイメージが掴みにくいのは、モノとして捉えようとするところに落とし穴があるのではないだろうか。存在を保証するのはモノだけではなく、流れといった変化する状況の存在も存在として認めれば、気をすんなり受け入れることができるように思える。

人が気配りで繋がっているのが社会であるとするなら、みんなが相手の心を読んでいるということではないだろうか。それは、人を構成している細胞に置き換えて考えてみると、多くの細胞が気配りをすることでひとつの生命を成立しているということと読める。

思いやりの気持ちを持ったときには、わがままの気持ちが抑えられる。それは気の流れを感じることで自己主張による分散化を回避する力になっているのではないだろうか。
TV会議というコミュニケーションの方法があるが、ビジネスとして約束事を確認するには有効だが、創造的な場にはなりにくい。何かを共有していないということなのではないだろうか。

気というイメージは掴みにくいといわれながら、時代を経ても古びない。一時の流行の言葉のように薄れていくことがない。命が個に託されるものであるなら、気は個を超えているのかもしれない。気を入れるといった感じで、個を超えてやりとりすることもできる。

変化や流れというイメージで言えば、リズムという言葉がある。一方でリズムを刻む拍子(タクト)という言葉がある。リズムと拍子は似たイメージとしてひとくくりにされる傾向があるが、質的に異なると思える。リズムは切れ目がなく脈打ちながら連続するもので、拍子はそのモジュールパターンを読み取って不連続に刻むものと考えられる。音楽の名演奏の味は、拍子の正確さを追うことでは決して辿り着けない質にあるといってもいい。多様なものが含まれて脈打つ流れを感じながら生み出される音の流れが、気を共有する感覚に繋がっているのではないだろうか。

気は社会に、思いやり、合い、秩序、調和、……を醸し出していると思える。秩序といっても法律のように明確にして人を拘束するルールというあり方とはことなる何かが働いている。

気を大切にしない社会は、やんだ社会になる。

今の世の中は、エゴを表現できるツールが増えてきた。ネットを使えば、誰でもヒーローになれる。ひとが繋がってスクラムを組むことを阻害する社会になっているということでもあるのかもしれない。エゴを主張することで繋がる社会という姿に軋むような無理が生じていることを感じる。

個か、社会かを見つめる視野で揺れる気持ちが社会の雰囲気をつくるのだろうが、活力を失った細胞による生命が元気でいられるわけはない。人間がものを考えるということは何かを特化して見つめることでもある。それはその何か以外を視野から外すことでもある。どこかに偏りながら偏り続けないで脈打つように変化を続けるダイナミズムを保つことが元気ということかもしれない。

江戸時代は進歩を拒んだ時代であったが、その中で高度な文化を育んだ。今もある意味で進歩から見放されている時代といえる。それはいい時代なのだろうか。

不安を孕んだ、いい時代なのかもしれない。

気を掴もうとしたが、やはり掴みにくい。掴まなくてもいいのかもしれないし、掴むことを唯一の理解とする考え方とは異なる、ゆったりした構えで接する対象かもしれない、という気がする、ということで締めてみよう。

(望月)

今回は、「気」と題して議論した。気という言葉は、色々な形で用いられている。気持ち、元気、病気、気分、本気、気配、殺気、陽気、気配りなどなど、気の付く言葉は多い。でも、気とは一体何かと考えると、とらえどころのないもののように思えてくる。ただ、気という言葉がある以上、昔の人は、その存在を感じもし、分かっていたということだ。

気は五感でとらえられるものではないし、直感とも違うし、六感でとらえられるものでもない。でも、その存在を感じているということは、人間には、気を感じ取る六感以外の感覚があるということでもある。確かに気配りとか、気を遣うという言葉で表現された気を私たちは日常頻繁に感じ取っている。

若者たちの間で使われているKY(空気読めない)という言葉にしても、そこには、場の雰囲気があって、その雰囲気をつかめていない人に対して使われている。そうした場での気のもつ意味合いは、相手の心や場の雰囲気といったものを指している言葉であろう。ただ、不思議なことに、私たちは、直接相手の心を見てはいないのに、場の中に漂っている相手の心や、場を構成している人たちの共通した心を感じ取ることができている。どうしてそうしたことができるのだろうか。多分、そうしたことができる根源に、気の存在があるからなのかもしれない。

気というのは、全ての人や物の内を共通に貫いている土俵のようなもので、その土俵の上で展開しているものを人は感じ取っているのではないだろうか。五感でとらえることのできる土俵、それは時空によって規定された四次元の世界。そこでは、個々が独立した存在として、四次元の世界の中で動き回る。そして、それは目や耳でとらえることができる。これに対して、それとは全く別次元で、五感ではとらえることのできない、でも確実に私たちの心の世界に存在する時空を超越した土俵、それが気と係わる世界なのではないだろうか。

気がふれる、気違いといった言葉は、普通の人と違った行動をとったり、普通の人が考える常識的なものから外れたことを言ったりすることに使われている。そうしたことを考えると、気というのは、常識ともかかわってくる。

常識というのもとらえどころのないものだが、それは誰に教わるともなく、社会を構成する一人ひとりの心の内を共通に貫く価値観や考え方であるが、気というのは、その常識ともかかわってくる。また、先に気を遣うとか、気を配るという言葉のもつ意味が、相手の心を思いやることと係わっているということを指摘しておいたが、気の醸し出すものの中に、相手の心を思いやる心、愛や慈悲と係わるものが秘められているようにも感じられる。また、KYという言葉が示しているように、気には、場の雰囲気を指し示す何かがあるが、その雰囲気というのは、全体で一つの世界を作り出している。その全体で一つの世界を乱してしまう人に対してKYという言葉は使われているが、ということは、気とは、秩序を保つもの、調和した世界を作り上げているものということができよう。

一人ひとりの体を作り上げている根源には、この気のようなものが流れていて、それが正常である時には、身体全体が秩序ある調和した世界として活動するために、身体は健康で、元気が出てくるが、その秩序が乱されてくると病気になってしまうということだろう。

これ以外に、気を入れるとか、本気になるとか表現される気があるが、何かをしていて気を入れたり、本気になったりすると、それまであまりうまくいかなかったことがうまくいったり、スポーツの世界では、実力以上の力が発揮できたりしてくる。気を入れたり、本気になったりすることで、意識が集中し、身体全体が一つのまとまった動きを発揮できるということだろう。そこには、やはり体全体を一つのものに統合する秩序や調和と係わった力があるということで、それが気と感じられているものなのかもしれない。

こうしたことを考えてくると、気とは、宇宙から、人間、さらには人間社会をも貫いている眼には見えない力であるように思えてくる。その力をうまく活用することで、身体や社会を秩序ある健全なものに保ち、活力を生み出すことができるということであろう。

そうした観点から、現在の人間社会を考えてみると、気が弱くなっている社会ではないだろうか。30年、40年前の時代、日本は高度成長の時代であった。その頃の仕事は、何十人、何百人という単位で大きな事業が展開されていた。一つのプロジェクトを成功させるために、皆が一致協力し、同じ方向を向いて働いていた。そこでは、光がレンズによって絞られて大きなエネルギーを生み出すのと同じように、気が集積され、大きなエネルギーとなって、社会を変革してきた。ところが現代社会では、段々と大きなプロジェクト的な仕事が生まれにくくなってきていて、そうしたことが、社会全体の気を弱めているようにも思える。道徳心の欠如、いじめやうつ病患者の増加、様々な犯罪など、社会全体が病んできているように思われるが、それは、社会の気が弱まり、秩序や調和というものが乱されてきているからなのかもしれない。

次回の討議を平成26年3月28日(金)とした。       以 上

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