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第36回 「運命」

開催日時
令和元年7月26日(金) 14:00~17:00
討議テーマ
「運命」について
開催場所
東京ウィメンズプラザ
参加者
下山、大滝(茂)、岩崎(晴)、伊藤、木邑、望月

討議内容

今回新たに木邑(きむら)さんが参加してくれました。木邑さんは、伊藤さんの知人で、企業内ビジネスマナーの指導者として活躍されています。また俳句が趣味ということで、20年以上も続けられているということです。豊かな経験をベースに、新たな切り口で議論を盛り上げてくれることを期待しています。

 今回は、運命について議論した。議論に先立ち、皆さんに運命に対する考えを伺うと、ほとんどの人が、言葉には表せないけど、運命を暗黙のうちに理解しているようであった。でも、その暗黙のうちに理解しているように思える運命について、さらに掘り下げていくと、なかなかつかみどころのないものであることが分かってきた。

運命という言葉をどんな時に使うのかを考えてみると、運命的出会いであるとか、それも運命とか、死と係わったりして、それがあの人の運命だったのだとか、一人一人の人生の中で、ある場面で突如として起こる出来事を表現しているように思える。ある人との出会いが、その人のその後の人生を変えるような出会いであると、それは運命的出会いだったんだというような表現をする。突然ある病気や事故で亡くなったりすると、それがあの人の運命だったんだというように言ったりもする。

こうしたことを考えると、運命というのは、一人一人の人生において、突然襲いかかってくる死や人との出会い、事故や病気であったりと、その人の人生を大きく変える出来事を表現しているようだ。そして、そうした出来事は、自分の意志ではどうすることもできないことのように思える。

一生懸命勉強して、その結果として、目標にしていた大学に合格したり、入社試験に合格して希望とする会社に入社することができたりした時、人は、そうしたことを運命とは言わない。というのは、それは、本人の意志に基づいた努力によって手に入れたものだからだ。だから、運命という言葉の奥には、自分自身の意志ではいかんともしがたいものという意味が込められている。では、自分自身の意志では決められない出来事というのは、偶然に起きてくることなのだろうか、それともそれが起きる前にすでに決められていること、すなわち必然的なのだろうか。

ある境地に達した弓術家は、矢を放つ前にすでに的に当たっている状況を心の中に抱いていて、その状態で矢を放つと、百発百中だという。すなわち、現実の世界の中で物事が起きる前に、すでに心の世界では現実の世界で起きることが完結しているということだ。これは、深層心理学の中で、時として取り上げられる共時性と言われるもので、心の中に抱いたものが、現実の世界の中で起きてくる現象を表している。

現実の世界では、時間と空間にしばられているから、そこでは必ず因果が生まれてくる。矢が的に当たる前には、必ず矢が弓から放たれるという時系列がある。ところが心の世界においては、この時間と空間というものが存在しなくて、始めと終わりとが一体となっていて、矢は放たれる前にすでに的に当たっているということが起きてくる。

運命というのは、このふたつの世界と深く係わっているように思える。すなわち、私たちが体験する人生は、時間と空間とによって規定されているから、ある時、ある場所である人と出会うというのが、時の流れの中で起きてきて、それがその人の人生を大きく変えると、それは運命的出会いであったと表現することになる。でも、その運命的出会いは、そして、その人の人生は、時空を超えた世界では、先の矢と的との係わりのように、すでに決定されているものなのかもしれない。その決定されているものを古代の人は無意識に感じ取っていて、それを運命と名付けたのではないだろうか。

中国の古代思想の中に易学があるが、陰と陽の卦を組み合わせた六つの卦によって、人の人生を占うものであるが、この易学を見ると、そこには、まさに人の運命的なものが書かれている。精神分析者であったユングは、この易学と先に述べた共時性との係わりについて研究していたが、易学が指し示していることは、まさに先の矢と的のように、これから起きることを指示している。

易や星占いというものの中には、まがい物は確かにあるけれど、こうしたものが、何千年も前に作られていたというのは、古代の人たちは、時空を超えた世界で森羅万象全てが互いにかかわりながら、一つの調和した営みをしていることを直観的に感じていて、人間一人一人には、生まれた時からすでにある人生が与えられているということを確信していたのかもしれない。そして、その与えられたものを一人一人運命として抱きながらも、現実の世界では、そのことを意識することなく生きている。そして、時として突然起きる出来事に接し、それを運命と表現して、運命の中の一こまを意識しているのではないだろうか。

木邑さんは、一人一人に生まれた時から運命的なものが既に決まっていて、現実の世界では、単にその道を歩んでいくだけだというのでは、あまりにもつまらない人生になってしまうと、アルフォンス・デーケンの運命が描かれた商品をだれも買わないという物語を紹介している。確かにそうかもしれない。でも、人間の生まれてきたことになんらかの意味があり、人間が生きることの目的が、根源的にある一つの理想を目指しているのであるとするならば、そして、その理想を目指して何度も生まれ変わることが起きているのだとするならば、悠久な生命の中で運命の目指しているものは、皆に共通な理想的な目的に向かっているように思える。だから、運命というのは、その理想的な目的に向かう途上での今生の営みなのかもしれない。

次回の討議を令和元年9月27日(金)とした。       以 上

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