- 2014-04-26 (土) 16:35
- 2014年レポート
- 開催日時
- 平成26年3月28日(金) 14:00~17:00
- 討議テーマ
- 「罪意識」について
- 開催場所
- 東京ウィメンズプラザ
- 参加者
- 土岐川、大瀧(茂)、水野、伊藤(雅)、望月
討議内容
今回の討議内容も前回同様、土岐川、望月、両名のレポートを併記して報告させていただきました。
土岐川
今回のテーマは「罪意識」ということから考えを広げる。「罪」ではなく「罪意識」ということである。罪が社会や外的環境の基準から定められるものであるとするならば、罪意識は個人の内的な意識から生じる罪の感覚ということで考えたい。その意識はどこから来るのか。それは何が規定するのか、といった方向で考えることができれば、というのが会議のはじめに指針として示された。
ケータイ電話の3社が、会社を家族ごと乗り換えると10万円のキャッシュバックがあるということから、次々と乗り換えを重ねて何倍ものお金を受け取る行為があった。ルールを上手に利用することで収入になる、と考えれば罪意識に触れることはない。
社会的なルールさえ守っていれば罪の問われることはない。それでも(ルールに違反していなくても)罪を感じることがある。
罪意識が本音のところで顔を出すものとするならば、建て前は罪意識を封じ込める手法なのかもしれない。
頭の中だけで考えている思考の範囲では罪意識は出てきにくいように思える。行動が伴ったときに罪意識はリアルなイメージで相撲の行司のように意識として立ち現れる。
具体的な行動は、頭の中で考えるのとは違って実在させるということに通じる。ご都合で立場を変えたりしにくいので、時に誰にもいい顔はできない状況に陥る場合がある。その時、いくらやむを得ないという説明をつけたとしても、気持ちの中に罪意識のような感情が芽生えることがある。
そんな罪意識を恐れてみんなが行動を控えるということになると、罪意識に変わってもっとどんよりした得体の知れない何かが社会全体を呑み込まれてしまうような気もする。
何でも割り切ってしまうとスッキリすると思うのは頭が考える理屈の話で、感覚的には落ち着かなくなることもある。分けることは意識が行い、合わせることは無意識が行うのかもしれない。分けることと合わせることを同時に行うのが人間なのかもしれない。
集団のまとまった行動が必要とされる軍隊や会社組織などでは、集団を構成する個人の意識がバラバラであることは不具合が生じる。軍隊では上官の命令が絶対で有り、徹底的に個人的な感情を封印する訓練がなされる。そこでは罪意識も封印の対象となる。
罪意識というものは、普遍的な何かに繋がって働くものなのか、あるいはその人の置かれた状況で許される範囲内の善し悪しの基準に対応して働くものなのか。
罪意識は理論的に考えて導き出せるものではなく心の中に有無を言わせずに生じるものなので、罪意識を本人が自由にコントロールすることは困難である。それどころかその重圧はときに耐えがたいものになったりする。だから人は自ずと行動において罪意識から逃れる方向の選択をしているのかもしれない。悪党の親玉が自分に手を汚さないで具体的な悪行を手下にやらせるというのも、罪意識から逃れるということかもしれない。社会の様相というのは、怠慢やズルが日常に横行する中で、罪意識を封印したりすり替えたりして、ある程度ごまかすことによって何とか生きているということかもしれない。罪意識は行動をネガティブな方向から支配する力を持っているのかもしれないが、個人の行動が罪意識に関わりながらもつじつま合わせの範囲に留まり続けるということならば、社会全体が向上していく方向に向かうイメージは描きにくい。それならば、罪意識なんていうものはなぜあるのだろうか? 個人や社会がステップアップすることに罪意識を関連づけたイメージを描こうとすると困難を感じてしまう。罪意識には過剰な期待ということなのかもしれない。今回は、罪意識ということで考えようとしたが、リアリティのあるイメージを形成しにくかった。もう少し深掘りする切り口が見つからないものだろうか、というのが実感であった。それというのも日常生活で罪意識とは縁遠いノーテンキな生活をしていることを白状して言い訳としたい。
(望月)
今回は、「罪意識」と題して議論した。何かをなしてしまったとき、あるいは何かするべきことをしなかった時など、私たちは時として罪の意識に陥ることがある。その罪の意識は一体何に起因するのだろうか。
水野さんは家に迷い込んできた野良犬を屠殺処分されることを知りながら保健所に電話してしまったことに罪意識を感じてしまったという。同じように、殺さなくても済んだ虫や昆虫を殺してしまったことに罪意識を感じる人もいる。また、嘘をついてしまったり、人を傷つけてしまったことに、罪意識ともいえるような後悔の念を抱く人もいる。こうした罪意識は一体どこから来るのであろうか。
一つは生命との係わりからきているようだ。生きとし生けるものの命を自らの手で奪い去ってしまうことには、本能的に罪の意識が生まれてくる。もちろんそこには、個々人によって程度の差があるし、そうした罪意識は文化や歴史によっても異なってくる。鯨を食料にしている日本人にとっては、捕鯨することは罪だとは思わないが、食糧にしていない人たちから見れば、それは動物愛護に反することになってくる。
二つ目は、嘘をついたり、相手の心を傷つけてしまったりというように、他者との係わりがある。嘘をつくことで相手を陥れることもあるだろうし、相手には何の被害もないけれど、自分の立場をよくするために嘘をつくというのもある。こうした嘘をつくことに対しても、個々人によって罪意識を抱く人、抱かない人様々である。おれおれ詐欺で人をだまして、平気で生きていられる人。ちょっとした嘘をついたことで、一生涯罪意識を抱き続けて生きている人、様々である。この嘘をつくことからくる罪意識は、生命とは直接かかわりはしないけれど、なぜ生まれてくるのだろうか。
そこには自分だけがよければいいというエゴの心が関わってきているように思える。相手をだましてお金を盗む、嘘を言って自分の立場をよくする、こうした行為は、いずれもエゴからきているものだ。それは、相手の命を奪うものではないけれど、相手の存在を否定したり、低めたりするもので、命を奪うことともどこかしら共通している何かがありそうだ。
子供が親の言うことを聞かないからということでしかりつけた時など、もしそれが親のエゴからくるしかりつけであった時など、後で子供がかわいそうになって罪の意識を抱くこともあるだろう。こうしたことを考えると、エゴとの係わりが罪意識と深く係わっているように思える。先ほどの動物の命との係わりにおいても、動物の命を奪うことが、万人の食糧のためであったり、多くの人の生活を守るということであるならば、そこにはエゴはない。だから動物を殺しても、そこには罪の意識は生まれてはこないだろう。
罪意識がエゴと係わって生まれてくるということは、人間には、そのエゴを否定する何かが本能的に与えられているように思える。そして、そのエゴの否定というか、エゴを前面に出すことから身を引かせようとする力は、一人ひとりの人間の心の奥に秘められた本当の自分、すなわち自己に気付かせるためのものであるように思える。仏教でいう悟りの境地は、その本当の自分に気付くことであるといわれているが、この世に人間を誕生せしめた生命には、人間をして本当の自分に気付かせようとする力が働いていて、本当の自分に気付くことから反対の方向に行こうとする行為を罪の意識として感じさせているのではないだろうか。そして、同じ行為をしても、罪意識を抱く人、抱かない人まちまちなのは、それぞれの人の心が、より自己に近いのか、遠いのか、それぞれの人の心の有り様を物語っていることになろう。
こうしたことを考えると、近年のインターネットや通信技術の発達による便利な社会は、ともすると、個々人のエゴを伸ばす環境にもなってくる。ネットの中に自己アピールの写真や文章を載せたり、他人を誹謗中傷する文章を載せたりと、まさにエゴに満ちた世界を生み出している。自分の好きなゲームや情報に夢中になって、スマホを見ながらの歩行は、相手のことなど一向に考えていないエゴに凝り固まった世界だろう。そして、そうしたことにたいして罪の意識が薄れてきている現代社会は、それだけ人間が本当の自分から遠ざかってきている社会になってきてしまったように思える。
次回の討議を平成26年5月30日(金)とした。 以 上
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