- 2006-05-12 (金) 0:18
- 2006年レポート
- 開催日時
- 平成18年4月28日(金) 14:00〜17:00
- 討議テーマ
- 芸術
- 開催場所
- 東京ウィメンズプラザ
- 参加者
- 土岐川、桐、下山、吉野、望月
討議内容
今回は「芸術」と題して議論した。芸術とは一体なんだろうか。芸術という言葉で連想するのは、絵画、彫刻、音楽、詩といったものだろうか。それらが意味しているのは、とにかく論理的ではないもの、理性と直接かかわるのではなく、感性、情緒といったものとかかわりあう何かなような気がする。
芸術とかかわりあう言葉に美術というのがある。美術品とは、絵画であるとか、彫刻であるといった、主として視覚とかかわった創造物である。美術品が必ずしも芸術品とは限らないし、芸術品の中にも美術品が含まれてもいる。美術というのは、絵にしても彫刻にしても、それが人間の感覚において美しいと感じられるものであるのに対して、芸術というのは、そうした感覚の他に何かがプラスされているように思える。
美術館というのは、世の中にあふれているが、芸術館というのはあまり耳にはしない。美術館が、芸術品も含めた美術品を集めている場所であるのに対して、芸術館というと、どこかしらそうした造形物を扱うところではなく、人間が演技するものを見せる館としてのイメージが強い。そこには、芸術と美術とのなんらかな差異が現れているのであろう。
芸術の中には、単に美術品が示すような物、形、色彩といった表層的なものだけではなく、それに何か人間の心の世界、自我を超越した心の世界、それを魂と表現するならば、その魂が込められているように思える。だから、人間の演技そのものも芸術になりうる。演劇はもちろんのこと、スポーツやそのほか諸々のパフォーマンスにしても、それらが自然であり、かつ人間業を越えているようなものには、芸術性を感じることができる。そこには、人間のもって生まれた感覚や技術を単に鍛錬しただけで生み出されたものではなく、なにかそれらとは質の異なるものが加味されているように思える。
考古の人類が残した洞窟壁画や彫刻などは、美術品として扱われ、芸術品として扱われることは少ない。そこには、人間の感性が直接表現されてはいるけれど、先に述べた魂のようなものがまだ表現されていないからなのではないだろうか。それと、そうした美術品は、宗教的儀式との係わりで生み出されることが多い。洞窟壁画にしても、その製作の目的が宗教儀式との係わりであることが指摘されている。仏教美術、キリスト教美術といったものが、単に、それらを製作する人たちが、お寺や教会からの依頼を受けて製作したということだけに留まらずに、美術というものが本質的に宗教とかかわったものに由来しているからではないだろうか。そして、その美術的表現の中に、先に述べた魂のような、生命の根源的なものが加味されているものが芸術作品として感じられているのではないだろうか。その魂は、100年前の人間のものとも、1000年前の人間のものとも変わりがないために、魂の込められた芸術作品は、時代を超えて今を生きる人たちの心と共鳴してくるものと考えられる。
デザイナーと芸術家の違いは、デザイナーは、表現しようとするテーマを外界からの要請に求めるのに対して、芸術家は、自身の心の内から湧き出るものを表現しようとするところにあるという。その内から湧き出るものは、人間の心の奥に内在している生命の源と深く係わっているように思う。すなわち、芸術とは、人間の心の内に秘められた生命の源と深くかかわっていて、芸術家といわれる人は、その源との係わりを表現しようとしている人ではないだろうか。それは、宗教の求めるものと深くかかわってくる。だから、芸術家といわれる人が大きく二つのタイプに分かれてくることになる。その一つは、生きる意味を求めて必死に宗教に入り込んでいく信者のように、自分の心の内にある生命の源をはっきりとつかみたいという無意識的な衝動によって芸術作品を作り続ける人と、もう一つは、悟りの境地を抱いた聖者のように、生命の源をはっきりと把握し、その源を心の大地として、その大地の上に様々なものを表現しようとする人である。
それを山頂が生命の源である山を目指す山登りにたとえて表現すると、前者は、がけや岩に苦しめられながら、必死で山頂を目指そうとする登山家であり、後者は山頂に登りきってまわりの景色を感嘆しながらゆったりと眺めている人である。共に登山家であり、芸術家ではあるが、その心、そこに表現されてくるものは、自ずから異なったものとなってくるであろう。前者の作品は、もがきを内に抱き、後者の作品は、落ち着いた世界を内に抱いている。ただ、そこに共通しているものは、共に生命そのものとかかわりあっているということだ。
芸術とは、宗教心と共鳴する生命回帰の営みではなかろうか。だから、芸術が、絵画、彫刻、音楽、詩、俳句といったものだけに限られたものではなく、科学であろうと、哲学であろうと、農業であろうと、それらを行う者が、自身の内に秘められた生命の源とかかわりあいながら表現しようとしたものには芸術性がおびてくるし、そうした人たちは芸術家と言えるのではないだろうか。
次回の討議を平成18年7月28日(金)とした。 以 上
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コメント:1
- 土岐川 06-05-12 (金) 2:12
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芸術について考えるとき、制作物に意識が向かうことは仕方がないことなのでしょうが、制作物よりも、活動や意識に目を向けることで、芸術が特別なものではなく、きわめて身近に、いうならば身体の一部として考えられる不思議な気持ちになった。そんな思いから、研究会の後で、2つのキーワードが浮かんだので、コメントします。
その1:メタファと経験
「何これ!」例えば、現代芸術などを見ていると、予期しないとまどいの出合いがある。つまりちょっとしたショックである。そしてその先の展開は、それをどう理解するかということになる。「私、これ、知ってる。見たことあるよ。」自分の限られた経験の中から類似した感覚でとらえられるメタファとしての何かを探し出すのである。とりあえず、この気味悪いイメージの侵入者を自分の理解の範疇に導く行為をもって、なんとか平静を取り戻すのである。類似の対象が見つからない場合もある。その場合は、それはなかったこととして決着することで、やはり平静を取り戻すのである。出合いの感覚が何かの外からの感覚入力と脳の反応であることに比べて、理解のベースとして働く経験は、全身体的なものとしてとらえられる。外的なアクションとしての経験者の身体行為が、自分の感覚入力としてフィードバックする回路を伴っているということである。だから、それは、経験者だけが獲得するものである。初めての経験は経験者の内部に新たな理解の受け皿となる領域を形成する。また、日々繰り返される経験についても、まったく同じ経験というのはありえない。感覚から受けるほんの少しの差異も、脳がその差異を受け取るならば、頭でそれまで規定していた概念領域の周辺からネットワークが根のように染み出してイメージ形成の巾を広げる。経験を繰り返すことが理解に深みを増していく所以である。頭で推定することが不可能であったことであっても、私たちは全身体的な経験とメタファを使って、知識や理解の幅を広げていくのである。その2:単純化と理解
人間とは、あらゆることに興味を示すにもかかわらず、凡てをありのままに受け入れるということを最も不得手とする生き物なのではないだろうか。人間は、理解できることだけを理解する。理解できないものは、ないこととして抹殺するのである。人間の社会は、こうした単純なしくみで成り立っているのではないだろうか?人間が社会的生物である以上、人間どうしのコミュニケーションは必要不可欠である。そのコミュニケーションが、いかに効果的に働くかということに興味が向けられるとき、人間に受け入れやすく、いかに咀嚼しやすく調理をほどこすかという課題が浮上するのである。それが、単純化である。人間には単純なものを美しいと感じる性質がある。それは理解の糸口となって、第一関門を突破するのである。理解できるものしか理解しないというフレームからは、この第一関門を突破しない限り、意識世界のつながりは形成されないという結論が導かれる。こうした人間の意識と単純化の関係を、自然界の万物の複雑な相関関係のあり方と対応して考えるとき、そこに文字通り“不 ・自然”なものを感じざるを得ない。人間が人間どうしの関係だけで凡てを成立させているならば、それはありうるのであるが、人間の興味が人間以外のあらゆるものに向けられるように、人間が生きるという行為が、人間以外のあらゆるものとの関係を抜きにありえないことであるならば、人間に求められている課題は、普段意識する理解のフレームの外にまでイメージを広げる能力の開発なのではないだろうか。