- 2007-02-18 (日) 20:28
- 2007年レポート
- 開催日時
- 平成19年2月2日(金) 14:00〜17:00
- 討議テーマ
- 働く
- 開催場所
- 東京ウィメンズプラザ
- 参加者
- 土岐川、下山、松本、小沢、佐藤、望月
討議内容
今回、小沢さんが新たに参加してくれました。小沢さんは、現在「心のカウンセリング基金」を主宰する二十代のお嬢様です。若い感性で、新鮮な息吹を吹き込んでくれることを期待しています。
今回は「働く」と題して議論した。働くという言葉で一番始めに連想されるのは、収入を得ること、お金を得ることであろう。人間が生きていくためには、働いてお金を得ることが何よりも大切であることには間違いなかろう。だから、働くことの根底には、お金を得るためという目的があることは確かである。しかし、働くことが必ずしもお金を得ることのためではないことは、専業主婦の家事について考えればすぐ気がつくことである。
専業主婦の家事の仕事は、それ自体直接お金とは結びついてはいないけれど、働いていることは確かである。家事そのものが、直接お金を得ることには係わってはいないけれど、我々は、主婦の家事を、仕事と考えるし、働いていると感じる。ところが、もしこれが、ひとり身の生活者が、先祖が残してくれた財産で生活を維持しながら、ただ家事をして日々を過ごしている場合には、我々は、この人が働いているとは感じないであろう。同じ家事をしているのに、専業主婦の場合には、働いていると感じるのに、ひとり身の生活者には、それを感じないのはなぜであろうか。
そこには、家族という集団と、社会という集団との係わりがあるように思える。専業主婦の場合には、家族全体で見た場合には、主人がいて、その主人が社会で働き、収入を得てくる。主婦は、その主人の働きを支え、家族が生活していくために必要な日常の仕事をこなしている。そこには、家族を単位とした社会との係わりと、収入とがある。すなわち、家族を単位としてみた時、そこには、社会とかかわり、社会との係わりをより円滑にするために、家族の中で働いている主婦の役割がある。
これに対して、先のひとり身の生活者の場合には、社会との係わりが断たれている。もちろん、この人も、社会と係わりながら生きている。物を買い、様々な情報を得、社会と係わっている。しかし、この人の営みが、何か生産的なものを社会に還元してはいない。物を購入するという消費ももちろん社会との係わりではあるけれど、それは働くということとは別次元のような気がする。働くということは、社会に対して、自分の労力を尽くすことであり、その労力に対しての対価としてお金が与えられている。
こうして考えてくると、働くというのは、社会に対して自分の労力を提供するということと同時に、その労力に対して社会から対価が与えられるという、二つのことから成り立っていることが分かってくる。
したがって、社会に対して自分の労力を提供しているだけで、金銭的なものが入ってこない場合は、それは働くという言葉のもつ意味ではなくなり、むしろ、それは奉仕であるとか、ボランティアという言葉によって表現される営みになってくる。これに対して、社会に対して自分の労力を提供することなく、お金だけが社会から入ってくるような場合は、それも働くということにはならないであろう。金融機関にお金を預けておいて、利子が入ってくるような場合や、年金だけで生活しているような場合などがそれに当たるであろう。
働くということが、社会に対して労力を提供することであり、その対価として社会から金銭的なものが与えられるということに一応定義づけすることができたが、それでは、芸術家に代表されるような、その人の営みが、営みと同時的ではなく、時間的にずれて社会とかかわってくるような場合、それは働くといえるであろうか。ゴッホに代表されるように、芸術家の中には、その人の日々の営みとしての作品が、その人が創作している時から、時間的にかなり経ってから評価されることが起きてくる場合がある。その場合、その芸術家は、社会に認められていなかった時には、働いていたとはいえないのであろうか。
もし、その芸術家が、その人の生きている間に、その作品が全く売れることがなかったなら、人々は、その人が働いて一生を送ったとは言わないであろう。働いたというよりも、道楽で一生を過ごしたと思うかもしれない。しかし、その芸術家自身が、自分の作品が、必ずいつかは世の中に認められる日がくると信じて、その創作活動をし続けていたとしたら、芸術家自身から見たら、それは、働いていたと言えるのではないだろうか。こうして考えてくると、働くという言葉の持つ意味の中に、主観と係わる働くと、客観と係わる働くがありそうだ。上の例で行くと、芸術家の営みを見る人たちが考える働くは客観的な働くであり、芸術家自身の抱く働くは主観的な働くということになってくる。
議論の中で、働くという言葉の響きの中には、苦労するという意味合いがあり、苦労していないと働いてはいないような気持ちになってくるという意見があった。確かに、我々は、苦労していなくてお金が入ってきたりすると、それは働いてはいないのではないか、遊んでいるのではないかといった気持ちが湧き起こってくる。しかし、気持ちは、本人の心次第ではないかと思われてくる。というのは、同じ仕事であっても、ある人にとっては苦労と思えることが、ある人にとっては楽しいことに思えるという場合があるからである。こんなに楽しいことをしていて、お金が入ってくると思える時には、そのこころは感謝の念を抱かせる。これに対して、こんなに苦しいことをしていて、これだけしかお金が入ってこないと思うと、そこには、愚痴や恨みの念がこみ上げてくる。世の中が、働くということと苦労とを重ね合わせるのは、どこかで、働くことが、自己の意思によらないことをせざるを得ないという流れがあるからなのではないだろうか。
しかし、時代が変わり、社会が変わるにしたがって、仕事の中に自己実現的なものを求める人たちも多くなってきている。そこには、自分の意志で楽しく仕事をしていこうとする新たな生き方があるように思える。そういう意味で、働くというのが、基本には、労力を社会に提供し、社会からその対価としてお金を得るという営みを維持しながら、その労力が、ただ、社会のためという一方通行的な労力から、社会のためと同時に自分自身の心の成長のためという双方向的なものへと変化してきているように思える。
ただ、こうした働くということの意味合いは、日本のような自由主義国においては成り立つが、これが、私有財産を認めることのない社会主義の国、あるいは理想郷としての共有財産の社会に生活している人たちの間では、働くというのは、金銭的な対価を目的としてはいない。ただ社会のために自分自身の労力を提供するということになってくるのかもしれない。しかし、その場合にも、自分自身の労力が、間接的ではあるけれども、一人ひとりの生活を維持していくための糧と係わってくるのであるから、先に述べた奉仕とか、ボランティアといったものとは異なってこよう。
こうしたことを考えると、自由主義国であろうとなかろうと、働くというのは、社会とかかわり、一人ひとりの生命を維持していくために不可欠な営みであるということになる。そして、その生命維持の目的が、衣食住を維持していくという動物的な欲求から、自己実現と係わった心の糧を求めるより人間的な欲求と係わってきているということになろうか。
次回の討議を平成19年3月29日(木)とした。 以 上
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