- 2009-12-11 (金) 21:41
- 2009年レポート
- 開催日時
- 平成21年11月20日(金) 14:00~17:00
- 討議テーマ
- 部分と全体
- 開催場所
- 東京ウィメンズプラザ
- 参加者
- 土岐川、下山、松本、大瀧、大瀧(ち)、望月
討議内容
今回は、「部分と全体」と題して議論した。部分と全体というのは、どこから議論を始めていいのか、なかなかとらえどころのない問題だが、私たちは日常、この二つの認識によって、物事をとらえている。たとえば、何かのデザインを考えるような場合、始めはそのデザインの全体像が頭に浮かぶ。そのデザインを描き出すときには、部分から始めざるをえない。でも、最終的には、始めにイメージされたデザインが描かれていく。その描く営みの中で、確かに部分を意識して描き出して行くが、その背後には全体像が常に控えている。すなわち、私たちが何かを表現しようとするとき、表現されていくものは部分ではあるけれど、その背後には常に全体が横たわっているということだ。確かに部分は意識とかかわるから、言葉や文字、あるいは図形といった形で表現されていくが、その背後には、無意識的な直観によってとらえられている全体像がある。
この全体像に支えられた部分の存在は、私たちが何かを分かったという時にも体験することである。何かが分かった気がする時、その分かった気がしたことを言葉で説明しようとすると、なかなか思ったように表現できないし、分かっていなかったことに気づくことがある。何かがわかるというのは、私たちは、その分かったことの全体像を直観によってとらえている。その直感によってとらえたものを、今度言葉で説明しようとすると、そこでは、先のデザインを表現していくのと同じように言葉という部分に分解していく必要がある。その時に、分かったような気がしていたものを、言葉でなかなか表現ができず、実は分かっていなかったことに気づくことになる。
全体をとらえるのは直感であり、その全体を部分に分解していくのは理性的なものであろう。直観は、人間だけではなく、動物や鳥、さらには昆虫といったものまで持っている。すべての生物は、その直感によって環境をとらえ、行動していく。だから、直観はその時点で、全てをとらえていることになる。それは、ある意味、全てを理解したことにつながるのではないだろうか。だから、私たちが、何かの説明を受けたときに、分かったような気になるのは、実は、しっかりと直観の世界では分かっているということだ。その分かった気になっていることを、言葉で説明しようとすると、なかなかうまく説明することができなくなってしまい、分かっていなかったのだと気づかされる。直感では分かっていながら、理性的な世界では分かっていなかったということであろう。
こう考えてくると、自然の世界には、全体しかなく、その全体とのかかわりを生物は直感でとらえていることが分かる。そして、部分が存在してくるのは人間だけに与えられた理性的世界だけであるということだ。
科学は、自然の営みを人間の理性が部分に分解してとらえようとするものであるから、そういう意味では、科学は自然そのものをとらえたものではないことになる。確かに、この宇宙は、太陽、地球、月といった部分的なものが存在してはいるけれど、それらの係わりは、ニュートン力学がとらえている引力の式によって記述されているのではなく、太陽系も、銀河系も全てを含んで全体で一つという世界を自然は作り出している。同じように、DNAにしても、科学はそれらを遺伝記号として分解しているけれど、自然は、そうした記号など思ってもいないのであろう。そこにあるのは、全体で一つとするものだけなのであろう。
人間の全体を部分に分解するという能力は、科学を生み出し、それを基本に科学技術を生み出してきた。いまや科学技術は、私たちの日常生活の中のありとあらゆるところに入り込み、私たち人間に利便性をもたらしてきている。運輸や通信といったものは、まさに最先端科学技術の集積されたものといっても過言ではないだろう。そうした科学技術が、お祭りのスタイルを変えつつあるらしい。盆踊りの太鼓や歌声がうるさいと近所からのクレームに対処するため、踊る人たちが、イヤホーンを耳にあてて、それで音楽を聴きながら踊るらしい。無音の広場で踊りだけが踊られている。何とも奇妙な盆踊りであるが、そこにも、人間の全体の中から部分を切り出してくる性向が見てとれる。
盆踊りは、踊る阿呆に見る阿呆ではないが、踊る人、それを見る人、盆踊りの歌を耳にしながら夜店で物を買う人、そうした様々な人たちで盆踊りという場が作られているのだが、その場という全体の中から、踊る人という部分だけを切り出してきた発想が、上での例であろう。
全体を部分に分解するというのは、人間の本性とかかわっているのかもしれないが、そうした部分だけに段々と心がとらわれていくに従って、人間は、本質的なものを見失って行ってしまうのではないだろうか。
一人ひとりが抱く心、それも、一人一人が肉体が別々なように、心も別々なものだと考えている。しかし、肉体そのものが、他人の肉体に影響を与えるようなことはないのに、人の心は、他者の心に影響を与える。それは場という全体の雰囲気を生み出しているのであろうが、そうした場が生まれるというのは、一人ひとりの心が、実は全体で一つという心を共有しているからなのではないだろうか。そんなことを考えると、肉体は消え去っても、共有されている心は、無くなることのないものだということが、何となくわかってくる。そして、その心は見えない世界にあるが、その見えない世界では、常に全体で一つという部分の存在しない世界なのかもしれない。
次回の討議を平成22年1月22日(金)とした。 以 上
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