- 2010-10-07 (木) 21:24
- 2010年レポート
- 開催日時
- 平成22年9月24(金) 14:00~17:00
- 討議テーマ
- 知恵
- 開催場所
- 東京ウィメンズプラザ
- 参加者
- 大瀧、望月
討議内容
今回は、「知恵」と題して議論した。知恵について、どこから議論を始めようかと考えあぐんでいた時、大瀧さんから料理の話が出された。大瀧さんは、菓子を作ったり、ケーキを作ったりするのが趣味だそうで、たいていはレシピを見ながら作っていくが、まあまあのものは作れるらしい。まあまあというのは、当たりも外れもなく、おいしいといえばおいしい程度のものらしい。ところが、その菓子やケーキを実際に指導者が作ったものと比べてみると、そこには明らかに味の違いがあるという。その指導者に直接教わりながら、試行錯誤を続けていくと、レシピだけで作った時よりもはるかにおいしいものが出来てくるという。ただ、それでも、レシピに書かれている材料と分量とは変わってはいない。すなわち、材料や分量が同じであっても、プロセスの中での手加減に、味をより良いものにする秘訣が隠されているということだ。そして、材料や分量は、レシピとして言葉で表現できるが、プロセスの中での手加減は、なかなか言葉では表現できない。ここに、知恵と知識との違いを垣間見る思いがする。すなわち、レシピに書かれている材料や分量は、知識として与えられているもので、そこに表現できないプロセスの中での手加減が知恵と係わっているらしいということだ。
お湯の温度や周りの湿度、お湯の泡立ち、材料の刻み方などなど、材料は同じであっても、その材料と係わる周りの環境は絶えず変化しているし、同じ条件であることはまずない。そうした材料と係わる、そしてプロセスと係わる諸々のものを全体で一つの調和したものとしてとらえ、次のアクションを決定しているのが知恵なのではないだろうか。それは、レシピには乗らない試行錯誤と深いかかわりがある。
こうしたことは、料理だけではなく、スポーツでも、碁や将棋などのゲームにしても、同じように言えよう。例えばゴルフの練習において、本に書かれた通りにフォームを作っても、なかなか思うように打つことはできないけれど、そのフォームを基本にして練習を重ねていくうちに、思い通りの球を打つことができるようになってくる。本に書かれている通りのフォームには変わりはないのだが、ぎこちなく動いていた手や足というものが、だんだん上達するに従って、体全体で調和のとれたフォームへと修正され、思った通りの球を打つことができるようになってくる。始めは本に書かれた通り、機械的に体を動かしていたものが、練習を重ねるうちに、体全体がバランスの良い動きになってくる。こうしたバランスを生み出しているものこそ知恵の力のような気がする。
すなわち、知恵とは、与えられた環境の中で、調和した世界を作り上げようとする能力だということだ。味が良いというのは、それだけいくつもの材料が調和して一つの世界を生み出していることであるし、球技をうまくこなせるというのも、体が全体で一つの調和した世界を作り上げているからである。だから、知恵をより活性化させるためには、味を感知する能力、体全体のリズムを感知する能力など、感性が研ぎ澄まされている必要があるということだ。そして、この知恵というのは、必ずしも人間だけに与えられているものではなく、生物全てが持っている生きる力の源になっているように思える。
目の前の獲物を獲得するためのさまざまな行為は、知恵に基づいている。それを本能と呼ぶこともあるであろうし、その生物に与えられた力だということもあろう。いずれにしても、生物が生命を維持しようとするその営みは、全て知恵に基づいているということだ。この生命を維持するための知恵は、人間においても当然あるもので、仕事を得ること、お金を得ること、食物を得ることなどに知恵が大きく関与してきている。ただ、人間の場合には、その知恵に打算的な考えが結びついて、悪用されることも度々起きている。人をだましてお金をとったりすることを悪知恵が働くという表現をするように、道徳的、倫理的にはいけないことではあるが、生きていくための手段として悪知恵が働いていることになる。
知恵とよく似たものとして創造性があるが、知恵と創造性とはどんな関係にあるのだろうか。その境界をはっきりさせるのは難しいが、先に述べたように、生物が獲物を獲得するのは知恵によるが、その獲得手段はその生物種が誕生してからほとんど変わっていないであろう。ところが人間の場合には、道具の発明や狩猟方法の開発、農業革命や産業革命といったことによって、食物の獲得手段を漸次変えてきている。そこに、知恵と創造性との違いを垣間見ることができる。すなわち、知恵とは、生物全体に与えられた生命維持のための本能とも言える力であり、与えられた環境の中で臨機応変に対処する能力といえる。これに対して、創造性というのは、新たなもの ― それはものであっても情報であってもいいのだが ― を生み出すことで、環境自体を変えていく力であるといえよう。
人間に飼いならされてしまった生物が、野生に戻された時自活できないまま死んでいってしまうといわれるが、それは、人間に飼いならされるという環境の中で、感性を鈍らせ、知恵の芽を伸ばすことを怠ってしまったことからきているのであろう。人間自体にも同じことが言える。恵まれた環境の中に育ってしまうと、感性を鈍らせ、知恵の成長が阻害され、自活できない人間になってしまうということだ。
知恵は基本的には、生き抜く力であるから、生き生きと生きていくためには知恵を育てていく必要がある。知恵を育てるためには、様々な面において感性を鋭くしておくことが必要で、時々刻々と変化する自然と係わりながら遊びに興じるというのは、感性を鋭くし、知恵力を高める上で極めて大切であるということに、改めて気付かされた思いがする。
次回の討議を平成22年11月26日(金)とした。 以 上
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