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第140回 「罪意識」

開催日時
平成23年7月29日(金) 14:00~17:00
討議テーマ
罪意識について
開催場所
東京ウィメンズプラザ
参加者
下山、松本、大瀧、平賀、望月

討議内容

今回は、「罪意識」と題して議論した。罪意識はいったいどのような時に生まれてくるのだろうか。出席者からは、嘘をついたとき、他人の心を傷つけたとき、相手を思いやれなかったとき、ルールを破ったときなど、いくつか罪意識が起こる場合が挙げられた。では、いったいそうしたときに、なぜ罪意識は起こるのだろうか。罪意識は、本質的に人間が持って生まれたものなのか、それとも後天的に学習によって習得されてくるものなのか。

 もし無人島に一人で住むとき、はたして人間は罪意識なるものを身に着けるのだろうか。嘘をつく必要もないし、他人の心を傷つけることもない。そこにはルールもないからそれを破るということもない。こうして考えてみると、罪意識というのは、どうやら社会的なものであるらしい。

ただ、どうだろうか。無人島で一人で暮らしていても、身の回りには、ウサギやリスといった生物とのかかわりは生まれてくるだろう。そうした生物とのかかわりの中から、生物に対する愛情が生まれ、何等かな状況で、そうした生物を傷つけてしまったり、死に至らしめてしまった時には、罪意識というものが生まれてくるのではないだろうか。東日本大震災の時、愛犬を津波で失った人が、愛犬を助けられなかったことに悲しんでいたが、その悲しみの背後には、無人島で暮らす人が生物に対して抱くかもしれない罪意識があるように思える。

こうしたことを考えてくると、罪意識の根源には、社会性というものだけではなく、愛護の心と共鳴するものが控えているように思える。すなわち、人を愛し、生物を愛し、宇宙を愛する、そうした愛の心が基盤にあって、その愛の心が歪められたとき、それが罪意識となって表面化してくるのではないだろうか。嘘をつくというのも、それは自分だけがよければいいという心から生まれてくるものだが、それは、相手や社会をエゴで歪ませていることになる。要するに我欲を満たすために嘘をつくというのは、愛の心からはかけ離れたものになるということだ。逆に、相手を正しい方向に導くために嘘をつくというのであれば、それは、相手を思いやる愛の世界になってくるために、そこには罪意識は生まれてはこないであろう。お酒のみの体を気遣って、もうお酒はないよと嘘を言ったとしても、それは、罪意識を生みはしないであろう。

罪意識と社会とのかかわりはどうだろうか。戦争中、戦いの中で敵国の人を殺すことには罪意識は、それほど強く生まれてはこないかもしれない。戦いに出かけることが善で、戦いに行かないのが悪として、戦争に反対した人は牢獄に閉じ込められていた。ところが社会が戦争を反対する状況の中では、戦いに行くことは悪であり、戦いに反対することは善となる。ただ、どうだろうか、たとえ戦争中であったとしても、個人の心の中には、人を殺すことへの罪意識はあるのではないだろうか。ベトナム戦争からの帰還兵の中には、精神的に病む人も多くいたと聞く。その中には、人を殺してしまったことへの懺悔の思いで心悩む人もいたのではないだろうか。善悪の判断は、社会の価値観の変化によって変わっていくものだが、罪意識というものは、善悪の判断よりも、さらに心の深いところにあって、時や社会を超えて変わることなくあり続けているもののように思える。

嘘をついたり、相手を傷つけたりという、相手とのかかわりで生まれてくる罪意識のほかに、失業していて、毎日毎日家で何もしていないときなど、罪意識を感じることがあるという。本当は、勉強しなければいけないのに、ゲームに夢中になって、なかなかゲームをやめられないときなども罪意識を抱くことがある。こうした罪意識は、相手とのかかわりからではなく、自分自身とのかかわりで生まれてくる罪意識である。この罪意識はいったい何を意味しているのだろうか。

そこには、人間としてなさなければいけない責務のようなものが背後に存在していて、その責務にこたえられないとき、罪意識が芽生えてくるように思える。本来働いて、家族を養っていかなければいけないのに、それができないでいることへの罪意識。勉強して、知恵を成長させていくことが人間としてなさなければいけないことなのに、快楽の世界に引きずりこまれてしまう。そこからは、快楽のとりこになり、自身を成長させようとする責務を果たしていないことへの罪意識が生まれてくる。

こうしたことを考えてくると、罪意識が存在するということは、生命というか、宇宙というか、その中に、人間をある方向に向かわしめようとする力が働いているということを意味しているように思える。

人間以外の生物には、罪意識はないだろう。というのは、彼らの行動は、本能によってなされ、そこには我欲によるものがないからである。ところが人間だけは、自我の芽生えとともに、我欲が生まれてくる。富を求め、地位や名声を求め、快楽を求める。それらは我欲と結びつき、時として、嘘をついたり、相手を傷つけたり、快楽にふけってしまったりする。そうした行き過ぎた我欲を戒めるために、罪意識が生まれてくるのであろう。そして、この宇宙は、そうした罪意識をばねにして、人間を新たな精神世界に向かわしめているのではないだろうか。親鸞の語る「悪人なおもて往生す、善人をや」とう言葉の背後には、こうした罪意識と人間の精神的進化とのかかわりが秘められているのかもしれない。

次回の討議を平成23年9月9日(金)とした。       以 上

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