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第20回 「コミュニケーション」

開催日時
平成5年1月26日(火) 14:00〜17:00
開催場所
サントリー(株)東京支社
参加者
古館、多田、高岡、山田、広野、西山、徳永、塚田、土岐川、佐藤、望月

討議内容

今回から、新たに四名の皆様がメンバーに加わって下さいました。西山様は、(株)アーバンクラブの取締役で、働き続けている人々の幸せとは何かを模索し、それを仕事面で反映させていらっしゃいます。旅行が趣味で、現在までに50ヵ国余を旅行されているとのことです。徳永様は、NTTヒューマンインタフェース研究所に勤務されており、ニューロコンピュータやニューラルネットに関心を持ってられます。趣味は、凧上げだそうで、かつては相当こっていたそうです。塚田様は、三年前までNTTに勤務されており、徳永様が現在所属されている研究所の所長を勤められ、現在は、松下電器産業(株)の東京通信システム研究所の所長をされていらっしゃいます。趣味は、コントラクトブリッジ、小唄、海外家族旅行だそうです。土岐川(ときがわ)様は、(株)日展に勤務されており、博物館や博覧会の企画や設計等をされています。仕事が面白く、趣味も仕事とのことです。以上、様々な経歴と趣味をお待ちの新メンバーの方々が、新しい観点から人間文化研究会をリードされて行かれることを期待しています。

今回からコミュニケーションをテーマに話し合った。今回は、コミュニケーションのもつ意味の曖昧さを曖昧のままにして、コミュニケーションと関わる事柄について思うに任せて話を進めた。第一番目に話題になったのが電話である。コミュニケーションから電話という連想は、それだけ電話というものがコミュニケーションを暗黙のうちに代表している何かであるのであろう。コミュニケーションの持つ多様性の中で、電話の果たす役割は、人間のコミュニケーションに関わる何かを強調して表現させている手段なのかも知れない。確固とした目的のない電話で話す二人の会話をよく調べてみると、二人は、自分自身が納得しているだけで、それぞれ全く別々の事柄について話しているらしい。これはまだ本会での議論にはなってないが、コミュニケーションをその基本から考えてみるならば、自分自身との会話、すなわち独り言に帰するところがあり、電話の果たす役割の一つには、対話ではなかなか出来ない独り言を、無意識のうちに行うことが出来ることではないだろうか。昼の世界と違う世界が電話の中にあり、昼の世界は、外との係わりの中に存在するコミュニケーションであり、電話の中の世界は、自分自身の内なる世界の中でのコミュニケーションになっているのかも知れない。

通信が情報を運ぶ手段であるということから、通信はよく物流と対比して考えられる。物流の代表として運輸(電車)があるが、電車の基本的な機能は、人を安全に、時間的に正確に、目的地まで届けるということである。しかし、その基本的な機能が満たされてくるにしたがって、電車の中でのんびり、ゆったりと過ごすことの快さを感じることも起きてくる。長距離電車の社内が美しく、余裕のある構造にリニューアルされてきているのはその現れである。通信にしても、基本的な働きとしては、意味のある情報を正確に送り届けることであるが、次第に、感性的な情報を送ることが望まれてくるのであろう。これらの変化を脳の働きと対比して考えてみるならば、機能主体な左脳から、感性的な右脳への移行ともいえよう。

情報メディアとしては、新聞やTVなどが代表的なものであるが、人間そのものが情報メディアになっているように思われる。人間は、様々な情報を、様々な情報メディアを通してキャッチし、それらを横断する新たな情報を生み出している。人間メディアが、新聞やTVと異なるのは、新聞やTVが現象的な情報をある程度忠実な形で伝えているのに対して、人間メディアは、人間の中に意識的であれ、無意識的であれ存在している様々なセンサーによってキャッチされる情報を蓄積し、それらの情報を基本に、新聞やTVなどから得られる情報に新たな解釈を与えて行くことであろう。それらのセンサーに受信される情報には、活字にはならない宇宙的な規模の情報も含まれていて、無意識的に作用していることもあろう。従って、新聞やTVなどによって同じ情報を得たとしても、それを受け取る人間側の蓄積した情報や、感性の度合によって、全く異なった情報が新たに生まれてくることになる。蓄積した情報や、感性の度合は、人によって全く個々別々であり、これらに差のある人同志のコミュニケーションは、先に述べた電話でのコミュニケーションのように、互いにコミュニケーションはしているものの、実際には、独り言であったりもするのであろう。コミュニケーションの一つの働きは、蓄積した情報の違いや、感性の違いによってできあがってしまう異なったメディアを融合するための手段であるとも考えられる。

一人一人が受け取る情報の多さは、昔に比べるならばはるかに多くなっている。これに対して、一人一人が発信する情報量は、昔とそれほど変わっていないのかも知れない。核家族化が進み、一人一人のプライベート空間が確保されるに伴って、話相手が少なくなっている現在では、一一人一人が発信する情報量は、昔よりむしろ減少していると考えた方がよいのかも知れない。この情報授受のアンバランスさは、無意識のうちに、人間に不快感を与え、その反動が、子供達の長電話や、パソコン通信の増大になって現れているのかも知れない。

人間は、動物達と同じように、元々は、自分で何もかもできる機能を持っていたのであるが、人類の進化と共に、それらの機能が細分化され、専門化され、そしてそれらを便利という感覚の元に受け入れて来た。これらの機能の細分化と専門化は、コミュニケーションと係わる精神世界の中にも起こって来つつあるように思える。昔なら、話をすること(情報発信)と、話を聴くこと(情報受信)とは対話する仲間同志の中でバランスよく保たれていたのであろう。しかし、現在のように通信技術の発達した世の中にあっては、情報発信の重たる発信源は、マスコミと言われる専門職の手に委ねられ、情報受信の機能としては、電話相談にみられるように、家族や友達など自分の身近な人から離れ、専門家の手に委ねられるようになってきた。

現在のように情報が溢れ、情報速度が速くなるにしたがって、人々の欲求は、結果だけを速く期待するようになってくる。その渦中で生きてしまうと、情報発信の速度が、思考速度を越えてしまい、精神的におかしくなってしまう。目には見えないけれど、隠れた情報となって確実に蓄積されていくプロセスの重要性を改めて考え直さなければいけない時代になってきているといえよう。学校教育に関しても、思考力よりも、記憶力と速さを競う○×式の教育が、若者の思考能力を低下させ、ひいては、創造的なコミュニケーションの欠如となって現れてきているのかも知れない。宇宙の進む方向が人間の進化であると考えるならば、人間の進むべき方向は、創造性の発揮にあるように思える。その創造性を阻害する環境は、無意識のうちにストレスとなって、精神的ダメージを与えてしまう。結果だけを期待する価値観と、プロセスを重視する価値観とは、相反する極に位置し、前者は時間に支配された環境にあり、後者は時間に束縛されない環境にあるといえる。創造性の高いコミュニケーションにおいては、時間の束縛からの開放が不可欠であり、人類の進化を考えるならば、教育においても、企業の目指す方向においても、時間に束縛されない新たな価値観の発掘が必要になっているといえよう。

人間の行うコミュニケーションは、五感に働きかける様々な情報の組合せによって心をコミュニケートしている。対話的なコミュニケーションを通信技術によって達成するためには、マルチメディアからフルメディアへと向けて技術開発をしていく必要がある。もし理想的なフルメディアが生まれたとしたら、直接合って話をすることも必要なく、電話社会がそうであるように、フルメディアを受け入れた新たな社会が生まれよう。そこでは、直接合うことの全くない家族や友人が生まれ、月の世界で一生単身赴任の生活を強いられることもおきてくるのであろうか。

今回は、最初に述べたように、コミュニケーションを余りはっきりした枠組みの中に置かずに、自由に討議する形をとった。そのために、対話的なコミュニケーションと、通信技術を用いたコミュニケーションとが同じ土俵の上で議論された感がある。そこで、次回は、これら二つを切り離し、先ず始めに、通信技術を仲介としない対話的なコミュニケーションについて話し合うことにした。

次回の開催日を3月2日(火)とした。

以上

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