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第142回 「道具」

開催日時
平成23年11月11日(金) 14:00~17:00
討議テーマ
道具について
開催場所
東京ウィメンズプラザ
参加者
土岐川、松本、平賀、望月

討議内容

 今回は、「道具」と題して議論した。道具とは一体何なのだろうか。原始時代の人類が生み出した石器などから類推していくと、道具とは、人間の生活において役立つ便利なものということになるであろうか。木の実を打ち砕くために使われた石も道具といえば道具ということになるであろうが、それだとチンパンジーでも道具を持つことができる。道具という言葉の響きの中には、どこかしら人間の知恵や工夫がかかわってきているようで、単にそこかしこに転がっているものをそのまま流用するというものではなさそうだ。同じ石であっても、使いかっていのいいように削り落としたり、鋭利にしたりという工夫がある。そんな風に、道具には人間の英知が込められたものというイメージがある。

 では、機械と道具との違いはなんであろうか。どちらも人間の英知によって生み出されたものであるけれど、両者の間には、はっきりと違った何かが横たわっている。道具は、人間と直接かかわり、人間の体の一部となって働いてくれるのに対して、機械は、人間の動力とは別に、風力、水力、電力といった人間以外の力を用いて、人間から切り離された状態で用いられるものという違いがある。だから、道具は、人間が休んでいるときには、用をなしていないものであるのに対して、機械は、人間が眠っていても、自動的に何かをこなしてくれるものという違いがある。そういうことから考えると、道具は、人間の誕生の頃からあったのに対して、機械は、人間が人間以外の動力を発見した時から生まれてきたことになる。水力や風力は別として、蒸気の力の発見は、人間が初めて人間の手によって力を生み出した最初のものであろう。このことを契機に産業革命が起きたのだが、そうしたことを考えると機械の誕生というのは、産業革命期あたりということになろうか。

近年情報化に伴い、多様な情報機器が世の中に送り出されているが、こうした情報機器は、機械なのだろうか、それとも道具なのだろうか。パソコン、携帯電話、スマートフォンなどなど、機械と呼ぶには抵抗がある。やはり、人間の生活に溶け込んだものとして、一種の道具ということになろうか。鉛筆、絵の具、筆、紙、といった書き物の道具の延長にある。コミュニケーション手段としての道具ということにもなってくる。いずれにしても、道具というのは、マクルーハンの人間拡張論ではないが、五感を含めた人間の能力を拡張するためのものであることには間違いなかろう。

では一体、人間は何のために道具を生み出してきたのだろうか。一言で表現するなら、利便性を求めてということになろうか。それまで手作業で一つ一つやってきたものが、道具の発明により、より効率的にできるようになったり、ゆっくりと歩いて旅していたのが、車や電車の発明により短時間で目的地まで行けるようになったり、いちいち辞書や百科事典を開いて調べていたものを、パソコンを使って簡単に調べられるようになったり、そこには、より早く、より遠くまでという時空間とかかわった世界がある。時空間の世界の中で、道具は人間に時間の短縮、空間の短縮を与えるために生み出されてきたことになる。

ところが、その便利さによって失われてきたものがある。それがプロセスという目に見えないものであろうか。東海道五十三次、何日もかけての旅は、単に目的地まで行くというポイント・ツ・ポイントの便利な現代社会とは異なり、それぞれの場所に展開する風土や歴史といったものを肌で感じながら、情緒豊かな旅があったであろう。プロセスの中で生まれてくる情緒、感性、創造性というものが道具の発達によって失われてきているように思える。こうしたことを延長して考えると、道具の発達によって、人間は、情緒、感性、創造性というものを失っていってしまうのだろうか。道具はそうしたことのために生み出されてきたものなのだろうか。

その疑問に答えるために、道具の発明が初めてなされたころの原始時代の人々の生活に戻って考えてみることにした。人間にとって一番大切なものは、それが原始時代であろうが、現代であろうが、生きていくための食糧確保である。原始時代、獲物をとることに人間の関心は置かれていたことは間違いなかろう。その獲物をとるために様々な道具は生み出されてきた。やり、弓、刃物といった道具は、獲物を効率的にとらえる手段となった。そうした道具の発明により、獲物は豊かに蓄えられ、そのことによって、人類は時間的余裕を得たのであろう。その時間的な余裕を人類は、自然とコミュニケーションしたり、神事に費やしたりと、情緒的、感性的、宗教的であったのではないだろうか。すなわち、人間に与えられた道具の発明は、人間を獲物だけを獲得するために生きている動物的な生活から解放させ、情緒豊かで神と交わる世界を生み出したのではないだろうか。道具によってもたらされる利便性は、快楽とかかわるというよりも、神聖な、それこそが人間として生まれてきた最も大切なこと、すなわち精神的世界を拡張していくためのものだったのではないだろうか。そういう意味で、現在を生きる我々は、道具の持つ意味を改めて考え直す時期に来ているように思える。

次回の討議を平成24年1月27日(金)とした。       以 上

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