- 2012-08-01 (水) 22:53
- 2012年レポート
- 開催日時
- 平成24年7月20日(金) 14:00~17:00
- 討議テーマ
- 絆について
- 開催場所
- 東京ウィメンズプラザ
- 参加者
- 土岐川、塚田、下山、大瀧、伊藤(雅)、伊藤(光)、望月
討議内容
今回は、「絆」と題して議論した。東日本大震災以来、絆という言葉が頻繁に語られ、2011年を表す漢字としても選ばれた。では一体、その絆とはなんなのだろうか。辞書を引くまでもなく、だれしもが抱く絆とは、結びつきということだろうが、広辞苑によると、動物をつなぎとめる綱、絶つにしのびない恩愛、離れがたい情実とある。始めは動物、特に馬や犬などをつなぎとめておく綱を表していた言葉が、人と人との心のかかわりを表す言葉へと拡張したのであろう。では、一体、その絆という言葉を今を生きる私たちはどのような意味として抱いているのだろうか。
伊藤さんは、自身の無二の友とのかかわりを思い浮かべながら、この絆という言葉を考えてみた時、絆という言葉に異様な雰囲気を感じたという。その友達とのかかわりが絆という言葉では表せない何かを持っていることを直感的に感じられたのであろう。友との間には、言葉では言い尽くせない結びつきがあるのは確かなのだが、それを絆という言葉では表現できえない何かがあるという。とすると、絆という言葉の持つ意味には、単なる結びつきということでひとくくりにできない結びつきの意味があるということだ。
東北だけではないだろうが、東北の地を旅して思うことは、そこに住む人たちが、商売にしても、教育にしても、農業にしても、漁業にしても、互いに深いかかわりを持って生活しているということだ。そうした地に根ざした歴史的な結びつきが、心の絆として育まれてきているのではないだろうか。すなわち、絆という言葉の持つ意味の中には、共通な歴史を抱いて作り上げた心の結びつきというものが込められているように思える。その共通なものが、必ずしも地に結び付いていなくても、ある共通な一つの目標に向かってともに力を傾けるとき、そこには絆と呼ばれるものが生まれてくる。
こうしたことを考えると、絆という言葉の意味するものが、共有できる心が前提になった人と人とのこころの結びつきということになってくる。その共有できる心というのは、血縁であるとか、地縁であるといったものによって育まれる心はもちろん、一つの目的に向かって努力したことで生まれてくる心もある。ただ、その一方で、共有できる心をもたない人を無意識的に排斥してしまうという陰の部分も持っていることも確かであろう。だから、人を差別することも、排斥することもない人類愛的な愛に根ざしたものには、絆という言葉が当てはまってこないように思える。
すなわち、絆という言葉の意味している中には、人と人とのかかわりの中で育まれた歴史的なものがあるということだ。人類愛としての博愛には、歴史はない。それは人間として生まれたからには、必然的に心の底に秘められている万人に共通なものだからだ。その愛によって結ばれたものは絆とは違う。絆とは、そうした愛が暗黙のうちに前提となってはいるものの、それよりさらに具体的に心の中に培われた歴史的なものがある。だから、その共有できる歴史的なものをもたない人は排斥されることになる。
こうして考えてくると、絆という言葉の中には、必ずしもすべてが愛に満ち満ちたという明るい意味だけではなく、人を排斥するという暗い負の側面をも持っているということが見えてくる。そして、その絆を生み出している共有できる心の中には、義務とか、責務とかいった、世俗的世界が作り上げる縛りも込められているように思える。地縁、血縁といったものに根ざした結びつきの中には、純粋な愛というものだけでは成り立たない結びつきがある。それは、義務であったり、責務であったりと、人間社会が作り上げる暗黙の縛りがある。そうした縛りの中でつくられていく歴史、その歴史に基づいてつくられる人と人との心の結びつき、それが絆という言葉に込められた意味ではないだろうか。
一番初めに、伊藤さんが無二の友達のことを思いながら、絆という言葉に違和感を感じたのは、その無二の友達とは、義務も責務もなく出来上がった間柄があるだけだからではないだろうか。なでしこジャパンの掲げる絆、あるプロジェクトで汗水流した仲間が作り上げる絆、そうした絆には、やはり義務と責務とに根ざした共通な歴史が育まれている。戦いに勝つこと、ある事業を完成させること、そうしたものには、義務と責務が暗黙のうちにつきまとっている。だから、絆という言葉の中には、見えざる世俗の束縛がある。本来なら、離れて自由な身になりたいという思いがあるのに、その自由な身を何かによって拘束しておく、その拘束を作り上げているものが義務であったり、責務であったり、目的であったりするのかもしれない。絆の元々の意味の中に、馬や犬をつなぎとめておく綱というのがあったが、そこには、馬や犬を自由にさせない拘束するものとしての綱の存在がある。人間にとってのその綱は、世俗世界の中での暗黙の義務や責務といった束縛なのではないだろうか。
ガンジーやマザーテレサに代表される博愛的な生き方は、人間の抱く愛の強さを感じさせるし、愛こそ人間と人間とを結びつける一番強い力であるのだろうが、そうした聖人になれない世俗的な人間にとっては、愛よりも絆によって結ばれることの方が強い結びつきになってくるのであろう。そこに、絆という言葉が持つ、純粋な愛とは違った、少しどろどろとした何かを感じさせるものが秘められているように思える。
次回の討議を平成24年9月28日(金)とした。 以 上
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