- 2012-10-14 (日) 22:48
- 2012年レポート
- 開催日時
- 平成24年9月28日(金) 14:00~17:00
- 討議テーマ
- 意識について
- 開催場所
- 東京ウィメンズプラザ
- 参加者
- 土岐川、塚田、下山、松本、望月
討議内容
今回は、「意識」と題して議論した。意識とは一体何なのか。私たちは、意識という言葉を日常よく使うが、その意味しているものを改めて考えていくと、なかなかつかみどころのないもののようだ。それは、心ともかかわるし、認識や記憶、さらには創造といったものともかかわってくる。また、人間の抱く意識は、人間以外の生物にもあるのだろうかという疑問も湧き上がってくる。また、意識、無意識といわれるように、無意識との係わりでも意識が係わってくる。
先ず、意識は、人間だけのものだろうか。動物、鳥、昆虫といったものには意識はないのだろうか。彼らの行動様態を見ていると、敵から逃れたり、餌を見つけたりという行動は、意識的な行動のようにも見えてくる。五感から入る様々な刺激、意識がなければ、それらに対して、どんな行動もとれなくなってしまうであろう。行動するということ自体が、内面から生まれてくる意志的行為であるから、そこには意識が関係しているように思える。ただ、彼らの意識は、五感から得た刺激に対しての反応であったり、おなかがすいて食物を求めようとする内面からの呼びかけに対する反応であったりして、それが、人間の抱く意識とは必ずしも同じであるとは言えないように思う。
五感から入る刺激に対する反応も、生理的欲求に基づく内的世界からの要請に対する反応も、それは認識に基づいた行動であって、意識的行動とはどこかしら異なっているようにも思える。すなわち、認識に基づいた行動は、自分自身の存在や、自分自身の心の有り様を意識する必要はない。本能行動といってしまえば、それまでだが、人間以外の生物の心の基盤は、自分自身を個として意識することのない認識であるように思える。
先に意識と無意識のかかわりが心の世界にあるといったが、その意識と無意識の二つの世界が存在するのは、人間だけなのかもしれない。無意識の世界を人間は意識することはできないが、感じることはできる。おなかがすいて何かを食べたいという欲求は、私たちの体の生理的欲求に基づく欲求だが、それは無意識の世界を感じ取っていることだ。そして、それは動物や昆虫と同じ心の世界のように思える。人間以外の生物は、意識がないと同時に無意識もないことになる。人間以外の生物は、人間の抱くおなかがすいたので何か食べ物を求めようとする心と同じ心を持っていて、その心を基盤にして様々な行動をとっている。
アリやミツバチなどに見られるきわめて統制のとれた行動も、それぞれの種の抱く本能を基盤においた、ある意味無意識的行動になる。すなわち、無意識的行動というのは、本能に基づいた行動ということだ。だから、それは、種に共通した行動基盤であって、個に特化した行動基盤ではない。
これに対して、人間の行動は、人間種として抱く本能の心の基盤を抱きながら、もう一つの意識する世界をもっているために、その心が個の存在を意識させ、個に特化した行動をとらせることになる。すなわち、意識とは、個が自分自身の存在を認識する心ということになる。そう考えると、意識は人間だけに与えられた心ということになるだろうか。
全ての生命体には、それらを行動に駆り立てるための内的世界が存在する。それを心と表現するならば、アメーバ―にしても心があることになる。そして、その心は、五感をもつ生物においても同じように存在している。ただ、高等な生物になればなるほど、その心は、様々な欲求や五感を通して感じられる多様な世界を認識する世界へと拡大されてきているということだ。ただ、その心がどんなに拡大されたとしても、それは、まだ自分自身を認識する心ではない。人間になって初めて個としての自分を意識できる意識的世界が誕生したことになる。そして、逆にそのことによって、人間は無意識の世界からやってくる本能的なメッセージを無意識的に感じながらも、それを意識化させたいという欲求を抱くことになるのではないだろうか。生きることの意味を求めるのも、生と死を考え、死を恐怖し、死後の世界について考えるのも、それは、無意識を意識化させたいという欲求に基づいているように思える。
こうして考えてくると、心の世界の進化模様が見えてくる。それは、同心円として表現できようか。同心円を心の世界とすると、アメーバ―の心は、同心円の中心に近い円であり、高等動物になるにしたがって、心は多数の同心円をもつ心へと発展してきていることになる。そして、人間においては、動物と同じように多数の同心円をもつと同時に、その多数の同心円の一番外の円として、意識の世界が加わっているという心の構造になっているのであろう。だから、人間の心の世界の中には、原始生物の抱く心から、動物たちの抱く心まで、全てが込められていることになる。そして、人間の求める心の進化は、この意識を同心円の内側にある無意識の心の世界にまで拡大させていくことであり、最後は、心の原点に意識を重ねあわすことなのかもしれない。
ところが、意識は、認識の心よりも強く心を支配するために、人間にあっては、意識が心の主体であり、無意識の世界からのメッセージを聞こえなくさせてしまう。だから、五感から入る刺激に心が奪われ、内的世界を意識化させることから離れてしまう。瞑想するというのは、五感からの刺激や自我に固執してしまっている意識をそうしたものから解放させ、本来人間が目指すべき無意識を意識化させるために考え出されたものなのであろう。
次回の討議を平成24年11月30日(金)とした。 以 上
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