- 2012-12-11 (火) 23:15
- 2012年レポート
- 開催日時
- 平成24年11月30日(金) 14:00~17:00
- 討議テーマ
- 生きることの意味について
- 開催場所
- 東京ウィメンズプラザ
- 参加者
- 土岐川、下山、松本、大瀧、伊藤(雅)、伊藤(光)、望月
討議内容
今回は、「生きることの意味」と題して議論した。議論を始める前に、参加者一人ひとりに、自身が抱いている生きることの意味について語ってもらった。美しさを感じることができることが生きることの意味。生活していくことだけで精一杯で、生きることの意味を考えたこともないが、生活に余裕が生まれたら、好きな趣味をやることが生きることの意味のようにも思える。生きることの意味は、年と共に変化していくように思えるが、今、生きることの意味としては、若い人を育てること。客観的に自分を見ることができること。土に触れていることが生きることの意味。などなど、さまざまな生きる意味が披露された。
こうした思いを総合してみると、生きることの意味が趣味や、社会的責任といったこととかかわっていて、生きがいと重なり合っている感じを受ける。それと、中には、生きることの意味などないのではないかと考える人もいて、生きることの意味について、それほど真剣に考えたこともこれまでなかったように思える。
先日、あるTV番組で、ある著名な大学教授が自身の人生を語っている中で、自分が一番後悔していることは、自分の子供が人生に悩み、死に至ってしまったことに対して、何もしてやれなかったことだと語っていた。その息子さんは、二十代半ばで命をなくしてしまったのだが、その息子さんが、父親であるその大学教授に問いかけていたことが、生きることの意味であったという。その不意の問いに対して、有名になり、一流大学での教授という職を得ているにもかかわらず、一言もその問いに対して的確な答えを与えてあげられなかったことに自責の念を抱き続けているという。
ここには、一般社会で起きている縮図のようなものがあるように思える。それは、大人であっても、教育者の立場にいる人であっても、生きることの意味を真剣に考えることなどほとんどないということ。その一方で、生きることの意味を動物が獲物を求めるように、必死で求め続けている人がいるということだ。それは、恋愛に例えることができる。異性を恋し、異性を求める恋愛の心は、ある意味本能的なものではあるけれど、その求愛の程度は、人によって異なるであろう。激情的に求愛する人もいれば、異性にほとんど関心を示さない人もいる。それと同じように、人間として生まれてきて、生きることの意味を考えるのは、ある意味本能的なものであろう。でも、そのことを考えようとする程度は、人によってさまざま。中には、生きることの意味を真剣に追い求め、それでもその意味が分からないことで、自らの命を絶ってしまう人もいるし、そのことに関して、全く関心はなく、考えることもなく人生を終わってしまう人もいる。
ただ、たとえ生きることの意味というものを考えることなく、刹那刹那の快楽的なものを求めているだけでは、いつかはむなしさが心を締め付けてくるのではないだろうか。それは、人間に意識が芽生え、その意識が、無意識の心の中にある何かを感じているからであろう。その何かを意識化できていないことへの不満のようなものが、むなしさを感じさせるのではないだろうか。そして、生きることの意味は、一人ひとりの心の無意識の中に秘められた、その何かを意識化させることなのではないだろうか。
ではその何かとは一体何なのだろうか。それは、神、良心、自己といった言葉で表現されたものと同じようなものなのかもしれない。無意識の中に秘められたもう一人の私、それを精神分析の世界では自己と表現しているが、生まれたままの意識の世界では、自己は無意識のまま、なんとなく心の内に感じられるものだ。時として、その自己が顔を出したりするとき、それが趣味と重なったり、生きがいと重なったりして、そうした趣味が自己実現だと考えられている。しかし、趣味や生きがいに転嫁された自己実現は、自己がまだ無意識のままであり、見かけだけの自己実現になっているのであろう。無意識の世界にある自己を意識化させることこそが自己実現であり、生きることの意味への答えとなってくるものではないだろうか。
この無意識の世界にある自己の存在を、プラトンは、「国家」という著書の中で洞窟の囚人に例えている。囚人が現実な世界であると思っているのは、実は、影の世界であり、本当の世界は、見えてはいない。生きることの意味を考えるそのことは、そして自己実現を希求するのは、影の世界から離れ、本当の世界を見ることであり、それは、この宇宙が人間を誕生せしめ、人間に意識を与え、その意識と知恵とによって、一人ひとりの心の内に秘められた悠久な生命に意識の明かりを灯もさせようとしていることではないだろうか。
すなわち、生きることの意味とは、無意識を意識化することであり、より広い世界をこころの内に作り上げることなのではないだろうか。古代ギリシアのデルフィの神殿に書かれた「汝自身を知れ」という言葉は、まさに一人ひとりが生きることの意味を求め、自分自身の無意識の世界を意識化することへのメッセージのように思える。そして、その汝自身を知ることのために、すなわち自分自身の無意識の世界に意識の明かりを灯すために必要なことは、自身の心を謙虚にし、まさにソクラテスが語ったとされる「無知の知」を実践することなのかもしれない。
次回の討議を平成25年1月25日(金)とした。 以 上
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