- 2013-10-27 (日) 12:47
- 2013年レポート
- 開催日時
- 平成25年9月20日(金) 14:00~17:00
- 討議テーマ
- 人間社会の行方について
- 開催場所
- 東京ウィメンズプラザ
- 参加者
- 塚田、土岐川、下山、松本、大瀧(茂)、平賀、伊藤(雅)、望月
討議内容
今回の討議内容は、土岐川、望月、両名のレポートを併記して報告させていただきました。
土岐川
半年前に150回の人間文化研究会を閉会し、今回から第1回の新生人間文化研究会を再開することとなった。以前に出席していただいていた皆さんが駆けつけて下さった。既に本音を語るという空気が継承されており、討論は熱をおびて進行した。新生人文研は従来の研究会と何が変わるのか、ということもあるが、人文研そのものを参加者が気持ちを新たに考えるということで今後の課題としたい。
議論を始めるにあたって、参加者一人ひとりに、テーマとした人間社会の行方について思うところを聞いた。
近年はパソコンの普及によって、便利と引き替えに目には見えにくい配慮を伴った心遣いが社会から薄れてしまっているように思える。自分を見つめることよりも他人と共有できる情報を拠り所にして周囲の状況に合わせることに気を遣うことで社会が成立しているようにも思える。
今はそんな風に変わってしまったかもしれないが、変わることは悪いことじゃない。それでみんなが幸せならそれでいいんじゃないか。
みんなが共有できることを価値の拠り所にすることがエスカレートすると、JR北海道の電車停止事故の運転手が自ら制御器を破壊して機械の故障という原因を捏造することが起こった。そのことは報道で明らかにされたが、欺し遂せた場合、みんなが捏造された原因を承認しているのが社会の日常だとすれば、それが社会だと納得するのが生きるということなのだろうか。
人間社会の行方をこの先どうなるのか、と想像して考えるとしたら、まずその設定を考え直してもいいのではないか。〝どうなるのか〟ということは自分以外の作用によって成りゆきが決まっていくことで、自分が関わらない意識が働いているということだろう。〝どうなるか〟ではなく〝どうするか〟という方向に意識を振ることで自分が関わる積極的な人間社会の行方を考えることができるのではないか。
〝どうするか〟とは切り離して〝どうなるのか〟を考えることは意味があるかもしれない。
行方について考えることは空間系時間系ともに方向を持って考えることではないか。生命が代々継承されていくことは、同じことを繰り返すことではなく大きな方向性を秘めているのではないか。命は手にとって示すことはできないが宇宙に蔓延していると想像することもできる。生命は始めは単細胞から人間にまで進化したと考えられている。生物の身体に目を向けるとそうかもしれないが、命は身体に寄り添っている宇宙の意志のようなものかもしれない。だとすれば生命の継承されるドラマは壮大なはずである。考えるスケールを自在に伸縮して太陽はいずれ消滅する運命にあるということを受け入れるなら、地球上の生命はそこで途絶えてしまうというシナリオは不自然で、もっと外に生息域を広げていく展開が相応しいと思われる。そのとき生命が継承していくのは何なのか。音楽でいえば、たとえ楽器がなくなっても、たとえ楽譜がなくなっても歌を伝えていくことができる。命は人間の枠だけでない。ゾウリムシにも歌が有って私たち人間は彼らの歌を受け継いで歌っているのではないだろうか。
目先のことはさておいて、人類は徐々に滅亡に向かっていることを感じざるを得ない。この先どこまで行ったら現実的な感覚を伴って対応を考えるようになるのだろうか。増殖し続ける欲望に感性は鈍化されて浮き足立って踊り続けている。ピュアな感性が目覚めるのはいつになるのか?
会社に入って仕事に取り組む前は考えることにゆとりがあった。仕事に追われる今は早くやることが何より大切で考える時間がなくなってしまった。健全なコミュニケーションがとれない人もおおくなった。コミュニケーションの形は人と直接話すよりもメールを介する交信の方に移りつつある。
人間は子どもから大人に成長する。子どもの将来像である大人は多能な人というイメージが描けるはずだが、今の社会は未熟な人間に向っていると思われる。もっと大人の方向に向かってほしい。
人は内に孤独を抱えて避けることのできない生老病死の道を歩む。人は知恵を共有し知恵を繋ぐことで生老病死を克服しようとしてきた。孤独は道理だが、それは孤立することとは違う。だが孤独を受け入れる力が衰弱しているのが現代人の特徴なのではないか。知恵の使い所が、苦労を要せず安易に受け入れられる快適さや便利さに向かっていることによって、人々が自分を省みることを避けて、他人に判断を預けるようになって、孤立感が増しているのではないだろうか。社会生活から地に足の着いた経験を伴った知恵が継承されることなく消えていきつつある。
問題意識は多岐にわたったが、危惧される現状に自分の目線で問題を捉え、質疑を繰り返しながら、最後の答えは自分で出す、という強い生き方を参加者が共有できたのではないかと思う。
望月
新たに再スタートした第1回≪人間文化研究会≫は、「人間社会の行方」と題して議論した。議論を始める前に、参加者一人ひとりに、自身が抱いている人間社会の現状、問題点などについて語ってもらった。参加者の中で、一番年長者である伊藤さんは、戦前、戦中、そして戦後の世界を見てきた人として、人間社会の変化について語ってくれたが、その中で、パソコンの登場は、年長者の居場所を狭くしてきたことを痛切に感じているとのこと。
伊藤さんの語ってくれたことは、現代社会が抱えている一つの問題を提起しているように思える。その問題とは、かって人間社会は年長者ほど人生経験が豊かで、そうした経験を若者たちに教えることで、尊敬され、重要視されていた。しかし、科学技術の発展によってもたらされたコンピュータをはじめとする様々な機器は、そうした新たな機器を遊びのように使う若者たちにとっては便利なツールにはなっても、年長者にとっては複雑怪奇なものとしてしかとらえられなくなってきている。そうしたハイテクに対する格差が生まれている中で、仕事の多くが、ハイテクを基盤として行われてきている社会は、今後ますますハイテク格差を助長させる方向に働くことは間違いなかろう。
そうしたハイテクが社会の基盤を作ってきている一方で、年長者のもっている人生経験や、長い間に蓄積されてきたノウハウ、巧みといった目に見えないものが切り捨てられていくことも確かだ。そうした目に見えないものは、直近の社会においては、切り捨てられたとしても、それほど大きな影響を与えることはないが、時間がたつことによって、そうして目には見えていなかったものの切り捨てが、社会問題として浮上してくるように思える。
TPPの問題に関しても、農産物に競争原理を導入し、そこにハイテクを用いていく流れになっていくのかもしれないが、実際農業を営んでいる人の話を聞くと、自然を相手にした農業は、農業に携わる人の体にしみこんだノウハウがきわめて重要な役割をしていて、そうしたノウハウが、ハイテクの登場によって切り捨てられていくことに危惧を感じているようだ。
コンピュータ、ロボット、高度な通信技術などが組み合わさることで、確かに今まで人手を介してやってきたものが、全て機械的になされていく時代の流れになってきているが、人の体にしみこんだ形に現れないノウハウや判断力といったものが切り捨てられていく人間社会は、なんだかロボットの住む社会へと変化していくように思えてしまう。
大瀧さんの感じている現代社会、特に企業社会は、余裕のない社会になってきているという。大瀧さんが入社した20年ほど前、その時には、まだ仕事には余裕があって、考える時間があった。しかし、今は、コンピュータやインターネットによる情報のスピード化によって、次から次へと仕事が生まれてきて、じっくりと考える余裕がなくなっていることを痛切に感じているという。さらに、同じ職場にいる者どうしのコミュニケーションに関しても、以前よりだいぶ少なくなってきていることを感じているという。大瀧さんの感じている企業社会は、単に企業だけのものではなく、ありとあらゆる分野に起こっていることであろう。こうした流れは、留まることはなく、スピード化の中でますます余裕のない社会が作られてくるように思える。リニア―モーターカーに代表されるように、そして光通信に見られるように、情報も、物流も、そして人間の移動もますますスピード化が図られ、それだけ余裕のない人間社会が作られていくのは予想に難くないだろう。
そうした、通信、物流、運輸といったものの進展だけではなく、人間の生命と係る医療の分野においても、様々な先端技術が開発され、かっては不治の病とされていた病が、簡単に治療され、長寿社会が作られていくことは間違いなかろう。しかし、その反面、医療費は高くなっていくであろうし、病院では、ますます多様な機械に人間が縛り付けられ、冷たい世界の中で、治療が行われていく、まさにロボットに囲まれた社会がそこにも生まれてくるように思える。
一人暮らしをしている松本さんが、しみじみと語ってくれたのは、都会のビルの一室に一人で生活していることの寂しさである。それは生命の響きを感じない落ち着かない世界らしい。先端技術によって便利さと快適さを求め続けてきた人間社会は、生命豊かな自然環境から人を遠ざけ、ロボットに囲まれた、生命の響きの感じられない社会に突き進んでいるように思える。だからこそ、豊かな自然を求めたり、憩い集える場を人工的に作り出したりと、ネットだけではなく、現実の世界の中で、人と人とが直接触れ合う場の開拓が、これからの時代において大きな課題になってくるであろうし、そうした活動が活発化してくるように思える。
20世紀は、科学の発展に支えられた科学技術が急速に発展した時代であり、そのことによって、人間生活は便利で快適になった。しかし、その反面、人間社会がもともと持っていた生命の場が破壊されてきた時代でもあった。21世紀になっても、この流れは止められないのかもしれないが、そうした生命の場が破壊されていることに気づいた人達によって、生命場の復活を目指した様々な取り組みが生まれてくるのではないだろうか。
次回の討議を平成25年11月29日(金)とした。 以 上
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