- 2005-04-08 (金) 0:58
- 1995年レポート
- 開催日時
- 平成7年11月1日(水) 14:00〜17:00
- 開催場所
- KDD目黒研究所
- 参加者
- 古館、広野、土岐川、久能、尾崎、望月
討議内容
今回からは、「教育」というテーマで討議を行った。教育に関しては、様々な切口からの議論が考えられるが、教育がどの様に今の若者達に影響を与えているかを探るために、先ず始めに、各職場や、社会における若者達の感覚や、価値観の変化について話し合った。それらをまとめてみると、現在の若者は、言われたことはしっかりするが、主体的に物事を考えて行動することが少なくなり、マニュアル化された行動が目立つ。また、結果を早く求め、未知なるものに挑戦して行こうとするチャレンジ意識に乏しい。しかし、その反面、一旦企業を離れると、ボランティア活動にみられるように、社会との係わりの中で積極的に行動する姿もある。また、音楽や、絵画といった文化的な事柄に対しては、鋭い感性が芽生えているように思える。これらのことを考えてみると、確かに若者の意識は、現在の中高年齢層とはかなり違った意識であるようだ。しかし、このことを、はたして教育と結び付けてよいものだろうか。むしろ、若者達の感覚は、大人達の感覚よりも純粋で、鋭く、社会の動きを直感的に把握しているのではないだろうか。社会が、西欧文明に追いつき、追い越すことを目的としてきた、いわゆるインフラ整備の時代から、新しい時代へと大きく変化してきていることを、今の若者達は、肌で感じ取っているように思える。ただ、その肌で感じ取っているものが、従来の目に見えるインフラ的なものではなく、精神的なものと深く係わっているが故に、今までとは違う何かを感じつつも、具体的な行動として取り得ないことに歯がゆさを感じているのかも知れない。学生達の理工系離れを心配して、各大学が、様々な形で理工系のアピールを行っているが、従来の価値観の中で生きている教育指導者達には、理工系を重要視するものが依然とあるのであろうが、若者達の鋭い感性は、将来が、理工系を基盤にした社会にはなってこないことを予感しているのかも知れない。
社会が、機能を求めていた時代から、感性的なものを求める時代にあっても、旧態依然とした、論理的な教育が行われていることも、これから大きな問題となってくるかも知れない。そして、インフラ整備を目的としていた先の見える時代から、自らの創造性を駆使した新しい世界を切り開いて行くためには、一人一人の個性を伸ばし、じっくりと考える余裕のある教育が必要なように思える。
我々一人一人、自分の過去を振り返ってみると、小学校や中学校時代の体験や、人との出会いなどが自分の今の生活行動や考え方の根底をなしていることが多いのではないだろうか。また、脳の発達に関しても、10才から12才頃までに脳の機能の多くが確立されているということを考えてみると、創造性に関しても、この時代の営みが、深く影響を与えているように思える。創造性に関しては、次回集中的に議論してみたいが、小学校時代の営みと、創造性とは、かなり係わりがあるように思える。先に述べたように、じっくりと考える余裕と言うのは、遊びからきているように思える。遊びの楽しさを考えてみると、そこには、時間を意識しないという時間の束縛からの解放があるし、新しいものにチャレンジして行くという創造活動がある。子供達に大きく影響を与えているのは、遊びが少なくなったことではないだろうか。そして、行われている遊びにしても、時間を制限され、ファミコンに代表されるような人工的なものと係わる遊びが多くなり、逆に、自然と係わる遊びが少なくなった。多くの仲間と遊ぶ場であった校庭が、サッカースクールや少年野球の場と化し、放課後や休日は、塾がよいの子供達が多くなった。自然を相手にした昔の遊びは、その中に多くのことを子供達の心の中に育てていたように思える。そこでは生命の存在が感じられ、無意識に、神の存在を感じていたかも知れないし、仲間との心のふれ合いの中で、思いやる心が育まれたように思える。早起きして、授業が始まる前に友達と校庭で遊ぶことの楽しさを心に秘めて通った経験がある人は多いであろうし、通学途上にある小川に笹船を浮かべたり、石蹴りをしたりしながら、長い時間かけて通学したことも、今の大人達は経験していたはずである。
TVやラジオ、CD、電話の発達は、夜遅くなっても飽きることのない楽しみを子供達に与える一方で、寝坊する子供を増やし、朝のすがすがしい自然との係わりを奪っているようにも思える。世の中が利便性を追求する一方で、私達の身の回りからは、自然が姿を消し、私達の無意識の世界で育まれている生命との係わりが、今の子供達には希薄になってきているのかも知れない。そして、この無意識との係わりの希薄さが、いじめや登校拒否の子供達を増やし、若者達の宗教への係わりを強くしているように思える。
そして、この生命からの遊離は、子供達だけではなく、大人の人達の中にも浸透してきているように思える。全ての学問の根底には、生命との係わりが厳然とあるにも係わらず、子供達を教える教師自身、その教科の中身を現実の世界との係わりの中で子供達に教えることを、自然になくしてきてしまってはいないだろうか。物の全てが手作りであった時代においては、身の回りの物の成立ちが、基本から把握できていた。幼少の頃、身の回りの器具を好奇心にかられながら分解した経験を持つ大人達は多いのではないだろうか。その基本から把握できているということが生命そのものであるような気がする。しかし、ハイテクを駆使し、様々な専門家が作り上げた科学技術製品で身の回りを囲まれた現在生活においては、そのものの成立ちを、自らの手で確認することなど出来ようもない。同じ様なことが教育の場でも起きてはいないだろうか。様々な学科の中に現れて来る原理や原則といったものも、それが生み出されて来る過程においては、一つ一つ人間の知恵を駆使して作り上げてきたはずであり、その精神が、教える人達の心から抜け落とされてしまっているように思える。
以上の議論を考えてみると、私達が教えられ、知恵を育むためには、様々な環境との係わりが大きく関与していることが分かる。教育ということが、機能だけから見ると学校や塾、あるいは躾ということで家庭というものだけで係わっているように思えるけれども、そこには、今まで述べてきたように、自然との係わり、社会との係わりが、大きく関与してきているように思える。社会を一つの生命体として考えてみるならば、子供達のいじめや登校拒否、ひいては創造性の枯渇といった事柄は、私達を取り巻く様々な環境が、生命体としての人間にとってあまりよい方向にきていないことの現れのようにも思えて来る。
このような反省にたって、現在学校では、様々な取り組みが行われている。遊びも授業時間の中に含まれているという。次回は、日本の教育と諸外国の教育のあり方などを比較しながら、日本人の創造性について、話し合ってみることにする。ということで、諸外国で教育を受けたことのある経験者は、できるだけ参加していただき、この会の討議を盛り上げて戴きますようお願い致します。
次回の打ち合せは、忘年会を兼ね、11月30日(木)とした。
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