ホーム > 討議テーマ > 1995年レポート

1995年レポート

第43回 「教育」

開催日時
平成7年11月30日(木) 14:00〜17:00
開催場所
KDD目黒研究所
参加者
広野、土岐川、尾崎、長谷川、望月

討議内容

今回から新たなメンバーとして、長谷川里江様が参加して下さいました。長谷川様は、(株)乃村工藝社に勤務されていまして、建築デザインから、喫茶店の名前の提案まで、人が集まるところに関する様々な事柄についてコーディネイトされているとのことです。趣味は映画鑑賞や読書の他、お住まいが京都ということもあって、京の町を散策するという優雅な趣味を持っておられます。文化的な風土の中で培われた豊かな感性で、この会に新しい風を吹き込んでくれるものと期待しています。

今回も前回に引続き「教育」をテーマで討議を行った。私達が、他者から教わるものの中には、例えば1+1=2といった基本的なルールや、スポーツの基本動作といった、技術的なものと、新しい問題を解いたり、新しい技術を身につけたりといったような解説書には載せることの出来ない創造的な技能と表現できるものとがある。前者は、教科書や指導書となって表現することが出来き、万人に共通に教えることが出来るが、後者の技能は、文字や言葉だけでは伝えることの出来ないものである。

つづきを読む

第42回 「教育」

開催日時
平成7年11月30日(木) 14:00〜17:00
開催場所
KDD目黒研究所
参加者
広野、土岐川、尾崎、長谷川、望月

討議内容

今回から新たなメンバーとして、長谷川里江様が参加して下さいました。長谷川様は、(株)乃村工藝社に勤務されていまして、建築デザインから、喫茶店の名前の提案まで、人が集まるところに関する様々な事柄についてコーディネイトされているとのことです。趣味は映画鑑賞や読書の他、お住まいが京都ということもあって、京の町を散策するという優雅な趣味を持っておられます。文化的な風土の中で培われた豊かな感性で、この会に新しい風を吹き込んでくれるものと期待しています。

今回も前回に引続き「教育」をテーマで討議を行った。私達が、他者から教わるものの中には、例えば1+1=2といった基本的なルールや、スポーツの基本動作といった、技術的なものと、新しい問題を解いたり、新しい技術を身につけたりといったような解説書には載せることの出来ない創造的な技能と表現できるものとがある。前者は、教科書や指導書となって表現することが出来き、万人に共通に教えることが出来るが、後者の技能は、文字や言葉だけでは伝えることの出来ないものである。

つづきを読む

開催日時
平成7年11月1日(水) 14:00〜17:00
開催場所
KDD目黒研究所
参加者
古館、広野、土岐川、久能、尾崎、望月

討議内容

今回からは、「教育」というテーマで討議を行った。教育に関しては、様々な切口からの議論が考えられるが、教育がどの様に今の若者達に影響を与えているかを探るために、先ず始めに、各職場や、社会における若者達の感覚や、価値観の変化について話し合った。それらをまとめてみると、現在の若者は、言われたことはしっかりするが、主体的に物事を考えて行動することが少なくなり、マニュアル化された行動が目立つ。また、結果を早く求め、未知なるものに挑戦して行こうとするチャレンジ意識に乏しい。しかし、その反面、一旦企業を離れると、ボランティア活動にみられるように、社会との係わりの中で積極的に行動する姿もある。また、音楽や、絵画といった文化的な事柄に対しては、鋭い感性が芽生えているように思える。これらのことを考えてみると、確かに若者の意識は、現在の中高年齢層とはかなり違った意識であるようだ。しかし、このことを、はたして教育と結び付けてよいものだろうか。むしろ、若者達の感覚は、大人達の感覚よりも純粋で、鋭く、社会の動きを直感的に把握しているのではないだろうか。社会が、西欧文明に追いつき、追い越すことを目的としてきた、いわゆるインフラ整備の時代から、新しい時代へと大きく変化してきていることを、今の若者達は、肌で感じ取っているように思える。ただ、その肌で感じ取っているものが、従来の目に見えるインフラ的なものではなく、精神的なものと深く係わっているが故に、今までとは違う何かを感じつつも、具体的な行動として取り得ないことに歯がゆさを感じているのかも知れない。学生達の理工系離れを心配して、各大学が、様々な形で理工系のアピールを行っているが、従来の価値観の中で生きている教育指導者達には、理工系を重要視するものが依然とあるのであろうが、若者達の鋭い感性は、将来が、理工系を基盤にした社会にはなってこないことを予感しているのかも知れない。

社会が、機能を求めていた時代から、感性的なものを求める時代にあっても、旧態依然とした、論理的な教育が行われていることも、これから大きな問題となってくるかも知れない。そして、インフラ整備を目的としていた先の見える時代から、自らの創造性を駆使した新しい世界を切り開いて行くためには、一人一人の個性を伸ばし、じっくりと考える余裕のある教育が必要なように思える。

つづきを読む

第41回 「日本人とは」

開催日時
平成7年11月30日(木) 14:00〜17:00
開催場所
KDD目黒研究所
参加者
広野、土岐川、尾崎、長谷川、望月

討議内容

今回から新たなメンバーとして、長谷川里江様が参加して下さいました。長谷川様は、(株)乃村工藝社に勤務されていまして、建築デザインから、喫茶店の名前の提案まで、人が集まるところに関する様々な事柄についてコーディネイトされているとのことです。趣味は映画鑑賞や読書の他、お住まいが京都ということもあって、京の町を散策するという優雅な趣味を持っておられます。文化的な風土の中で培われた豊かな感性で、この会に新しい風を吹き込んでくれるものと期待しています。

今回も前回に引続き「教育」をテーマで討議を行った。私達が、他者から教わるものの中には、例えば1+1=2といった基本的なルールや、スポーツの基本動作といった、技術的なものと、新しい問題を解いたり、新しい技術を身につけたりといったような解説書には載せることの出来ない創造的な技能と表現できるものとがある。前者は、教科書や指導書となって表現することが出来き、万人に共通に教えることが出来るが、後者の技能は、文字や言葉だけでは伝えることの出来ないものである。

つづきを読む

開催日時
平成7年11月1日(水) 14:00〜17:00
開催場所
KDD目黒研究所
参加者
古館、広野、土岐川、久能、尾崎、望月

討議内容

今回からは、「教育」というテーマで討議を行った。教育に関しては、様々な切口からの議論が考えられるが、教育がどの様に今の若者達に影響を与えているかを探るために、先ず始めに、各職場や、社会における若者達の感覚や、価値観の変化について話し合った。それらをまとめてみると、現在の若者は、言われたことはしっかりするが、主体的に物事を考えて行動することが少なくなり、マニュアル化された行動が目立つ。また、結果を早く求め、未知なるものに挑戦して行こうとするチャレンジ意識に乏しい。しかし、その反面、一旦企業を離れると、ボランティア活動にみられるように、社会との係わりの中で積極的に行動する姿もある。また、音楽や、絵画といった文化的な事柄に対しては、鋭い感性が芽生えているように思える。これらのことを考えてみると、確かに若者の意識は、現在の中高年齢層とはかなり違った意識であるようだ。しかし、このことを、はたして教育と結び付けてよいものだろうか。むしろ、若者達の感覚は、大人達の感覚よりも純粋で、鋭く、社会の動きを直感的に把握しているのではないだろうか。社会が、西欧文明に追いつき、追い越すことを目的としてきた、いわゆるインフラ整備の時代から、新しい時代へと大きく変化してきていることを、今の若者達は、肌で感じ取っているように思える。ただ、その肌で感じ取っているものが、従来の目に見えるインフラ的なものではなく、精神的なものと深く係わっているが故に、今までとは違う何かを感じつつも、具体的な行動として取り得ないことに歯がゆさを感じているのかも知れない。学生達の理工系離れを心配して、各大学が、様々な形で理工系のアピールを行っているが、従来の価値観の中で生きている教育指導者達には、理工系を重要視するものが依然とあるのであろうが、若者達の鋭い感性は、将来が、理工系を基盤にした社会にはなってこないことを予感しているのかも知れない。

社会が、機能を求めていた時代から、感性的なものを求める時代にあっても、旧態依然とした、論理的な教育が行われていることも、これから大きな問題となってくるかも知れない。そして、インフラ整備を目的としていた先の見える時代から、自らの創造性を駆使した新しい世界を切り開いて行くためには、一人一人の個性を伸ばし、じっくりと考える余裕のある教育が必要なように思える。

つづきを読む

開催日時
平成7年9月27日(水) 14:00〜17:00
開催場所
ダイヤルサービス(株)会議室
参加者
古館、広野、尾崎、牧田、曽我部、佐藤、望月

討議内容

今回も前回、前々回に引続き、「日本人とは」と題して議論した。議論に入る前に、現在の企業での男性、女性の仕事への取り組み方などについて話をしている中で、女性は、他者との係わりの中で、感情的なものに支配され、どうしても自分の能力を100%発揮することが出来にくいのに対して、男性は、どちらかと言うと、女性より、感情的なものにはクールに対処しているように思えると言う意見があった。このことは、まさに、日本人と、他民族との比較においても成り立つ問題のようだ。他民族と比較し、論理的でなく、あいまいな日本人は、男性的な民族というより、情緒的なものに支配された女性的な民族といえないだろうか。消費行動にしても、自身の個性を尊重した消費ではなく、他者との係わりの中で物を購入して行くことが多い。それに比べると、英国人の消費行動は、個人的であり、質素であると、長年英国に住んでいた曽我部さんは指摘する。

日本人のあいまいさは、この議論の中で何度も話題に上っているが、そのあいまいさは、個人の生き方や、政治、経済などに対する思想に関してもあいまいのまま歩んできたようだ。確かに日本人は、世界に誇れるいくつかの日本文化を持ってはいるが、その文化を思想のレベルまで高めることをしなかった。どこかで互いに感じあえているのだからそれでいいのではないかと言う感覚が、あえて言葉によって論理的に表現することに価値を置かない雰囲気を作ってきたように思える。そのあいまいさが、他民族の中で発達した産業革命以降の工業化を、自分達の文化や伝統を考えることなくコピーして植え付けてしまったところに、環境や生活様式にアンバランスが生まれているように思える。そして、それが接ぎ木的なものであるから、日本人は、中身ではなく、外に見える形式に重きを置くようになっているのではないだろうか。元々、形というのは、そこにある生命が宿って初めて形として成り立ってくるのであるのに、生命を宿すことを学ばずに、表現された形だけをまねる形式が生まれてきているように思える。昨今の茶道の作法にしても、生命と直接係わる美学を学ぶのではなく、そこに演出された形式だけを学んでいるように思える。それは、蝉そのものの中に秘められた生命と語り合うのではなく、蝉の抜け殻と語り合っているようなものだ。

つづきを読む

第40回 「日本人とは」

開催日時
平成7年11月30日(木) 14:00〜17:00
開催場所
KDD目黒研究所
参加者
広野、土岐川、尾崎、長谷川、望月

討議内容

今回から新たなメンバーとして、長谷川里江様が参加して下さいました。長谷川様は、(株)乃村工藝社に勤務されていまして、建築デザインから、喫茶店の名前の提案まで、人が集まるところに関する様々な事柄についてコーディネイトされているとのことです。趣味は映画鑑賞や読書の他、お住まいが京都ということもあって、京の町を散策するという優雅な趣味を持っておられます。文化的な風土の中で培われた豊かな感性で、この会に新しい風を吹き込んでくれるものと期待しています。

今回も前回に引続き「教育」をテーマで討議を行った。私達が、他者から教わるものの中には、例えば1+1=2といった基本的なルールや、スポーツの基本動作といった、技術的なものと、新しい問題を解いたり、新しい技術を身につけたりといったような解説書には載せることの出来ない創造的な技能と表現できるものとがある。前者は、教科書や指導書となって表現することが出来き、万人に共通に教えることが出来るが、後者の技能は、文字や言葉だけでは伝えることの出来ないものである。

つづきを読む

開催日時
平成7年11月1日(水) 14:00〜17:00
開催場所
KDD目黒研究所
参加者
古館、広野、土岐川、久能、尾崎、望月

討議内容

今回からは、「教育」というテーマで討議を行った。教育に関しては、様々な切口からの議論が考えられるが、教育がどの様に今の若者達に影響を与えているかを探るために、先ず始めに、各職場や、社会における若者達の感覚や、価値観の変化について話し合った。それらをまとめてみると、現在の若者は、言われたことはしっかりするが、主体的に物事を考えて行動することが少なくなり、マニュアル化された行動が目立つ。また、結果を早く求め、未知なるものに挑戦して行こうとするチャレンジ意識に乏しい。しかし、その反面、一旦企業を離れると、ボランティア活動にみられるように、社会との係わりの中で積極的に行動する姿もある。また、音楽や、絵画といった文化的な事柄に対しては、鋭い感性が芽生えているように思える。これらのことを考えてみると、確かに若者の意識は、現在の中高年齢層とはかなり違った意識であるようだ。しかし、このことを、はたして教育と結び付けてよいものだろうか。むしろ、若者達の感覚は、大人達の感覚よりも純粋で、鋭く、社会の動きを直感的に把握しているのではないだろうか。社会が、西欧文明に追いつき、追い越すことを目的としてきた、いわゆるインフラ整備の時代から、新しい時代へと大きく変化してきていることを、今の若者達は、肌で感じ取っているように思える。ただ、その肌で感じ取っているものが、従来の目に見えるインフラ的なものではなく、精神的なものと深く係わっているが故に、今までとは違う何かを感じつつも、具体的な行動として取り得ないことに歯がゆさを感じているのかも知れない。学生達の理工系離れを心配して、各大学が、様々な形で理工系のアピールを行っているが、従来の価値観の中で生きている教育指導者達には、理工系を重要視するものが依然とあるのであろうが、若者達の鋭い感性は、将来が、理工系を基盤にした社会にはなってこないことを予感しているのかも知れない。

社会が、機能を求めていた時代から、感性的なものを求める時代にあっても、旧態依然とした、論理的な教育が行われていることも、これから大きな問題となってくるかも知れない。そして、インフラ整備を目的としていた先の見える時代から、自らの創造性を駆使した新しい世界を切り開いて行くためには、一人一人の個性を伸ばし、じっくりと考える余裕のある教育が必要なように思える。

つづきを読む

開催日時
平成7年9月27日(水) 14:00〜17:00
開催場所
ダイヤルサービス(株)会議室
参加者
古館、広野、尾崎、牧田、曽我部、佐藤、望月

討議内容

今回も前回、前々回に引続き、「日本人とは」と題して議論した。議論に入る前に、現在の企業での男性、女性の仕事への取り組み方などについて話をしている中で、女性は、他者との係わりの中で、感情的なものに支配され、どうしても自分の能力を100%発揮することが出来にくいのに対して、男性は、どちらかと言うと、女性より、感情的なものにはクールに対処しているように思えると言う意見があった。このことは、まさに、日本人と、他民族との比較においても成り立つ問題のようだ。他民族と比較し、論理的でなく、あいまいな日本人は、男性的な民族というより、情緒的なものに支配された女性的な民族といえないだろうか。消費行動にしても、自身の個性を尊重した消費ではなく、他者との係わりの中で物を購入して行くことが多い。それに比べると、英国人の消費行動は、個人的であり、質素であると、長年英国に住んでいた曽我部さんは指摘する。

日本人のあいまいさは、この議論の中で何度も話題に上っているが、そのあいまいさは、個人の生き方や、政治、経済などに対する思想に関してもあいまいのまま歩んできたようだ。確かに日本人は、世界に誇れるいくつかの日本文化を持ってはいるが、その文化を思想のレベルまで高めることをしなかった。どこかで互いに感じあえているのだからそれでいいのではないかと言う感覚が、あえて言葉によって論理的に表現することに価値を置かない雰囲気を作ってきたように思える。そのあいまいさが、他民族の中で発達した産業革命以降の工業化を、自分達の文化や伝統を考えることなくコピーして植え付けてしまったところに、環境や生活様式にアンバランスが生まれているように思える。そして、それが接ぎ木的なものであるから、日本人は、中身ではなく、外に見える形式に重きを置くようになっているのではないだろうか。元々、形というのは、そこにある生命が宿って初めて形として成り立ってくるのであるのに、生命を宿すことを学ばずに、表現された形だけをまねる形式が生まれてきているように思える。昨今の茶道の作法にしても、生命と直接係わる美学を学ぶのではなく、そこに演出された形式だけを学んでいるように思える。それは、蝉そのものの中に秘められた生命と語り合うのではなく、蝉の抜け殻と語り合っているようなものだ。

つづきを読む

開催日時
平成7年7月19日(火) 14:00〜17:00
開催場所
KDD目黒研究所
参加者
古館、霧島、高岡、山田(誠)、広野、塚田、鈴木(智)、久能、尾崎、佐藤、望月

討議内容

今回も前回に引続き、「日本人とは」と題して議論した。始めに高岡さんが提出して下さった、日本人とはと考えたときに思い浮かべたキーワードを基本に討議を始めた。その中にあるキーワードは、花鳥風月で表現される自然観、茶道、華道、武士道など道と係わるもの、地鎮祭、巨木崇拝などにみられる神道を含む宗教との係わりの三つに大別できる。

自然観に関しては、四季の移り変わりが、日本人の心に与えている影響は大きい。中国人の大学教授が、中国のCMと日本のCMとを比較した結果、中国のCMの特徴は、「天人合一」という自然観であるのに対して、日本のCMの中にみられる自然観は「自然を愛する」ことだそうだ。例えば、中国のCMでは、天上彩虹、人間長虹(天上の虹、人間の長虹 一 長虹電器)、天上有雷声、人間有達声(天上に雷鳴あり、人間に達声あり 一 達声音響)であり、日本のCMでは、ときめきの春を迎えに来てください(トヨタ自動車)、海と緑の風、爽やか(西武不動産)といった具合いである。このCMの対照は、同じ東洋文化圏の中にありながら、自然を捉える捉え型が、日本人と中国人とではかなり異なっていることのよい例であろう。日本人は、季節の移り変わりの中に自然の変化を微妙に感じ取り、そこに情緒的な感覚を芽生えさせた。これに対して、中国人は、地平線の彼方まで広がる天と、人間との係わりを身体全体で感じ取っているのかも知れない。身近に山があり、身近に木々がある奈良平野の中に身を置くことの方が、大平原の中に身を置くことよりも心は落ちつくという鈴木さんの率直な感覚も、日本人の感性そのものではないだろうか。身近に四季を感じることのできる風土の中にいたからこそ、日本人としての感性が育まれたように思える。

つづきを読む

第39回 「日本人とは」

開催日時
平成7年11月30日(木) 14:00〜17:00
開催場所
KDD目黒研究所
参加者
広野、土岐川、尾崎、長谷川、望月

討議内容

今回から新たなメンバーとして、長谷川里江様が参加して下さいました。長谷川様は、(株)乃村工藝社に勤務されていまして、建築デザインから、喫茶店の名前の提案まで、人が集まるところに関する様々な事柄についてコーディネイトされているとのことです。趣味は映画鑑賞や読書の他、お住まいが京都ということもあって、京の町を散策するという優雅な趣味を持っておられます。文化的な風土の中で培われた豊かな感性で、この会に新しい風を吹き込んでくれるものと期待しています。

今回も前回に引続き「教育」をテーマで討議を行った。私達が、他者から教わるものの中には、例えば1+1=2といった基本的なルールや、スポーツの基本動作といった、技術的なものと、新しい問題を解いたり、新しい技術を身につけたりといったような解説書には載せることの出来ない創造的な技能と表現できるものとがある。前者は、教科書や指導書となって表現することが出来き、万人に共通に教えることが出来るが、後者の技能は、文字や言葉だけでは伝えることの出来ないものである。

つづきを読む

開催日時
平成7年11月1日(水) 14:00〜17:00
開催場所
KDD目黒研究所
参加者
古館、広野、土岐川、久能、尾崎、望月

討議内容

今回からは、「教育」というテーマで討議を行った。教育に関しては、様々な切口からの議論が考えられるが、教育がどの様に今の若者達に影響を与えているかを探るために、先ず始めに、各職場や、社会における若者達の感覚や、価値観の変化について話し合った。それらをまとめてみると、現在の若者は、言われたことはしっかりするが、主体的に物事を考えて行動することが少なくなり、マニュアル化された行動が目立つ。また、結果を早く求め、未知なるものに挑戦して行こうとするチャレンジ意識に乏しい。しかし、その反面、一旦企業を離れると、ボランティア活動にみられるように、社会との係わりの中で積極的に行動する姿もある。また、音楽や、絵画といった文化的な事柄に対しては、鋭い感性が芽生えているように思える。これらのことを考えてみると、確かに若者の意識は、現在の中高年齢層とはかなり違った意識であるようだ。しかし、このことを、はたして教育と結び付けてよいものだろうか。むしろ、若者達の感覚は、大人達の感覚よりも純粋で、鋭く、社会の動きを直感的に把握しているのではないだろうか。社会が、西欧文明に追いつき、追い越すことを目的としてきた、いわゆるインフラ整備の時代から、新しい時代へと大きく変化してきていることを、今の若者達は、肌で感じ取っているように思える。ただ、その肌で感じ取っているものが、従来の目に見えるインフラ的なものではなく、精神的なものと深く係わっているが故に、今までとは違う何かを感じつつも、具体的な行動として取り得ないことに歯がゆさを感じているのかも知れない。学生達の理工系離れを心配して、各大学が、様々な形で理工系のアピールを行っているが、従来の価値観の中で生きている教育指導者達には、理工系を重要視するものが依然とあるのであろうが、若者達の鋭い感性は、将来が、理工系を基盤にした社会にはなってこないことを予感しているのかも知れない。

社会が、機能を求めていた時代から、感性的なものを求める時代にあっても、旧態依然とした、論理的な教育が行われていることも、これから大きな問題となってくるかも知れない。そして、インフラ整備を目的としていた先の見える時代から、自らの創造性を駆使した新しい世界を切り開いて行くためには、一人一人の個性を伸ばし、じっくりと考える余裕のある教育が必要なように思える。

つづきを読む

開催日時
平成7年9月27日(水) 14:00〜17:00
開催場所
ダイヤルサービス(株)会議室
参加者
古館、広野、尾崎、牧田、曽我部、佐藤、望月

討議内容

今回も前回、前々回に引続き、「日本人とは」と題して議論した。議論に入る前に、現在の企業での男性、女性の仕事への取り組み方などについて話をしている中で、女性は、他者との係わりの中で、感情的なものに支配され、どうしても自分の能力を100%発揮することが出来にくいのに対して、男性は、どちらかと言うと、女性より、感情的なものにはクールに対処しているように思えると言う意見があった。このことは、まさに、日本人と、他民族との比較においても成り立つ問題のようだ。他民族と比較し、論理的でなく、あいまいな日本人は、男性的な民族というより、情緒的なものに支配された女性的な民族といえないだろうか。消費行動にしても、自身の個性を尊重した消費ではなく、他者との係わりの中で物を購入して行くことが多い。それに比べると、英国人の消費行動は、個人的であり、質素であると、長年英国に住んでいた曽我部さんは指摘する。

日本人のあいまいさは、この議論の中で何度も話題に上っているが、そのあいまいさは、個人の生き方や、政治、経済などに対する思想に関してもあいまいのまま歩んできたようだ。確かに日本人は、世界に誇れるいくつかの日本文化を持ってはいるが、その文化を思想のレベルまで高めることをしなかった。どこかで互いに感じあえているのだからそれでいいのではないかと言う感覚が、あえて言葉によって論理的に表現することに価値を置かない雰囲気を作ってきたように思える。そのあいまいさが、他民族の中で発達した産業革命以降の工業化を、自分達の文化や伝統を考えることなくコピーして植え付けてしまったところに、環境や生活様式にアンバランスが生まれているように思える。そして、それが接ぎ木的なものであるから、日本人は、中身ではなく、外に見える形式に重きを置くようになっているのではないだろうか。元々、形というのは、そこにある生命が宿って初めて形として成り立ってくるのであるのに、生命を宿すことを学ばずに、表現された形だけをまねる形式が生まれてきているように思える。昨今の茶道の作法にしても、生命と直接係わる美学を学ぶのではなく、そこに演出された形式だけを学んでいるように思える。それは、蝉そのものの中に秘められた生命と語り合うのではなく、蝉の抜け殻と語り合っているようなものだ。

つづきを読む

開催日時
平成7年7月19日(火) 14:00〜17:00
開催場所
KDD目黒研究所
参加者
古館、霧島、高岡、山田(誠)、広野、塚田、鈴木(智)、久能、尾崎、佐藤、望月

討議内容

今回も前回に引続き、「日本人とは」と題して議論した。始めに高岡さんが提出して下さった、日本人とはと考えたときに思い浮かべたキーワードを基本に討議を始めた。その中にあるキーワードは、花鳥風月で表現される自然観、茶道、華道、武士道など道と係わるもの、地鎮祭、巨木崇拝などにみられる神道を含む宗教との係わりの三つに大別できる。

自然観に関しては、四季の移り変わりが、日本人の心に与えている影響は大きい。中国人の大学教授が、中国のCMと日本のCMとを比較した結果、中国のCMの特徴は、「天人合一」という自然観であるのに対して、日本のCMの中にみられる自然観は「自然を愛する」ことだそうだ。例えば、中国のCMでは、天上彩虹、人間長虹(天上の虹、人間の長虹 一 長虹電器)、天上有雷声、人間有達声(天上に雷鳴あり、人間に達声あり 一 達声音響)であり、日本のCMでは、ときめきの春を迎えに来てください(トヨタ自動車)、海と緑の風、爽やか(西武不動産)といった具合いである。このCMの対照は、同じ東洋文化圏の中にありながら、自然を捉える捉え型が、日本人と中国人とではかなり異なっていることのよい例であろう。日本人は、季節の移り変わりの中に自然の変化を微妙に感じ取り、そこに情緒的な感覚を芽生えさせた。これに対して、中国人は、地平線の彼方まで広がる天と、人間との係わりを身体全体で感じ取っているのかも知れない。身近に山があり、身近に木々がある奈良平野の中に身を置くことの方が、大平原の中に身を置くことよりも心は落ちつくという鈴木さんの率直な感覚も、日本人の感性そのものではないだろうか。身近に四季を感じることのできる風土の中にいたからこそ、日本人としての感性が育まれたように思える。

つづきを読む

開催日時
平成7年6月7日(水) 14:00〜17:00
開催場所
KDD目黒研究所
参加者
広野、塚田、田中、曽我部、山田(雅)、佐藤、望月

討議内容

今回は「日本人とは」と題して議論した。私達は、日常、何かの議論や話をしているときに知らず知らずのうちに「日本人は」という表現を使っているが、いざ日本人とは何かと改めて議論し始めてみると、なかなか捉え所のないものであることが分かる。しかし、その捉え所のないものではあるが、私達一人一人の中には、曖昧さを残しながらもある日本人像をイメージしていることも確かである。

日本人を定義するには、日本語を話しているとか、日本国籍を持っているとか、日本で生まれたとか、親が日本人であるとか様々な状況が想定されよう。しかし、ここでは、このような表面的な定義はひとまず置いておき、日本人の心の深層に流れる日本人的なものに焦点を当てて議論を進めた。

つづきを読む

第38回 「愛」

開催日時
平成7年11月30日(木) 14:00〜17:00
開催場所
KDD目黒研究所
参加者
広野、土岐川、尾崎、長谷川、望月

討議内容

今回から新たなメンバーとして、長谷川里江様が参加して下さいました。長谷川様は、(株)乃村工藝社に勤務されていまして、建築デザインから、喫茶店の名前の提案まで、人が集まるところに関する様々な事柄についてコーディネイトされているとのことです。趣味は映画鑑賞や読書の他、お住まいが京都ということもあって、京の町を散策するという優雅な趣味を持っておられます。文化的な風土の中で培われた豊かな感性で、この会に新しい風を吹き込んでくれるものと期待しています。

今回も前回に引続き「教育」をテーマで討議を行った。私達が、他者から教わるものの中には、例えば1+1=2といった基本的なルールや、スポーツの基本動作といった、技術的なものと、新しい問題を解いたり、新しい技術を身につけたりといったような解説書には載せることの出来ない創造的な技能と表現できるものとがある。前者は、教科書や指導書となって表現することが出来き、万人に共通に教えることが出来るが、後者の技能は、文字や言葉だけでは伝えることの出来ないものである。

つづきを読む

開催日時
平成7年11月1日(水) 14:00〜17:00
開催場所
KDD目黒研究所
参加者
古館、広野、土岐川、久能、尾崎、望月

討議内容

今回からは、「教育」というテーマで討議を行った。教育に関しては、様々な切口からの議論が考えられるが、教育がどの様に今の若者達に影響を与えているかを探るために、先ず始めに、各職場や、社会における若者達の感覚や、価値観の変化について話し合った。それらをまとめてみると、現在の若者は、言われたことはしっかりするが、主体的に物事を考えて行動することが少なくなり、マニュアル化された行動が目立つ。また、結果を早く求め、未知なるものに挑戦して行こうとするチャレンジ意識に乏しい。しかし、その反面、一旦企業を離れると、ボランティア活動にみられるように、社会との係わりの中で積極的に行動する姿もある。また、音楽や、絵画といった文化的な事柄に対しては、鋭い感性が芽生えているように思える。これらのことを考えてみると、確かに若者の意識は、現在の中高年齢層とはかなり違った意識であるようだ。しかし、このことを、はたして教育と結び付けてよいものだろうか。むしろ、若者達の感覚は、大人達の感覚よりも純粋で、鋭く、社会の動きを直感的に把握しているのではないだろうか。社会が、西欧文明に追いつき、追い越すことを目的としてきた、いわゆるインフラ整備の時代から、新しい時代へと大きく変化してきていることを、今の若者達は、肌で感じ取っているように思える。ただ、その肌で感じ取っているものが、従来の目に見えるインフラ的なものではなく、精神的なものと深く係わっているが故に、今までとは違う何かを感じつつも、具体的な行動として取り得ないことに歯がゆさを感じているのかも知れない。学生達の理工系離れを心配して、各大学が、様々な形で理工系のアピールを行っているが、従来の価値観の中で生きている教育指導者達には、理工系を重要視するものが依然とあるのであろうが、若者達の鋭い感性は、将来が、理工系を基盤にした社会にはなってこないことを予感しているのかも知れない。

社会が、機能を求めていた時代から、感性的なものを求める時代にあっても、旧態依然とした、論理的な教育が行われていることも、これから大きな問題となってくるかも知れない。そして、インフラ整備を目的としていた先の見える時代から、自らの創造性を駆使した新しい世界を切り開いて行くためには、一人一人の個性を伸ばし、じっくりと考える余裕のある教育が必要なように思える。

つづきを読む

開催日時
平成7年9月27日(水) 14:00〜17:00
開催場所
ダイヤルサービス(株)会議室
参加者
古館、広野、尾崎、牧田、曽我部、佐藤、望月

討議内容

今回も前回、前々回に引続き、「日本人とは」と題して議論した。議論に入る前に、現在の企業での男性、女性の仕事への取り組み方などについて話をしている中で、女性は、他者との係わりの中で、感情的なものに支配され、どうしても自分の能力を100%発揮することが出来にくいのに対して、男性は、どちらかと言うと、女性より、感情的なものにはクールに対処しているように思えると言う意見があった。このことは、まさに、日本人と、他民族との比較においても成り立つ問題のようだ。他民族と比較し、論理的でなく、あいまいな日本人は、男性的な民族というより、情緒的なものに支配された女性的な民族といえないだろうか。消費行動にしても、自身の個性を尊重した消費ではなく、他者との係わりの中で物を購入して行くことが多い。それに比べると、英国人の消費行動は、個人的であり、質素であると、長年英国に住んでいた曽我部さんは指摘する。

日本人のあいまいさは、この議論の中で何度も話題に上っているが、そのあいまいさは、個人の生き方や、政治、経済などに対する思想に関してもあいまいのまま歩んできたようだ。確かに日本人は、世界に誇れるいくつかの日本文化を持ってはいるが、その文化を思想のレベルまで高めることをしなかった。どこかで互いに感じあえているのだからそれでいいのではないかと言う感覚が、あえて言葉によって論理的に表現することに価値を置かない雰囲気を作ってきたように思える。そのあいまいさが、他民族の中で発達した産業革命以降の工業化を、自分達の文化や伝統を考えることなくコピーして植え付けてしまったところに、環境や生活様式にアンバランスが生まれているように思える。そして、それが接ぎ木的なものであるから、日本人は、中身ではなく、外に見える形式に重きを置くようになっているのではないだろうか。元々、形というのは、そこにある生命が宿って初めて形として成り立ってくるのであるのに、生命を宿すことを学ばずに、表現された形だけをまねる形式が生まれてきているように思える。昨今の茶道の作法にしても、生命と直接係わる美学を学ぶのではなく、そこに演出された形式だけを学んでいるように思える。それは、蝉そのものの中に秘められた生命と語り合うのではなく、蝉の抜け殻と語り合っているようなものだ。

つづきを読む

開催日時
平成7年7月19日(火) 14:00〜17:00
開催場所
KDD目黒研究所
参加者
古館、霧島、高岡、山田(誠)、広野、塚田、鈴木(智)、久能、尾崎、佐藤、望月

討議内容

今回も前回に引続き、「日本人とは」と題して議論した。始めに高岡さんが提出して下さった、日本人とはと考えたときに思い浮かべたキーワードを基本に討議を始めた。その中にあるキーワードは、花鳥風月で表現される自然観、茶道、華道、武士道など道と係わるもの、地鎮祭、巨木崇拝などにみられる神道を含む宗教との係わりの三つに大別できる。

自然観に関しては、四季の移り変わりが、日本人の心に与えている影響は大きい。中国人の大学教授が、中国のCMと日本のCMとを比較した結果、中国のCMの特徴は、「天人合一」という自然観であるのに対して、日本のCMの中にみられる自然観は「自然を愛する」ことだそうだ。例えば、中国のCMでは、天上彩虹、人間長虹(天上の虹、人間の長虹 一 長虹電器)、天上有雷声、人間有達声(天上に雷鳴あり、人間に達声あり 一 達声音響)であり、日本のCMでは、ときめきの春を迎えに来てください(トヨタ自動車)、海と緑の風、爽やか(西武不動産)といった具合いである。このCMの対照は、同じ東洋文化圏の中にありながら、自然を捉える捉え型が、日本人と中国人とではかなり異なっていることのよい例であろう。日本人は、季節の移り変わりの中に自然の変化を微妙に感じ取り、そこに情緒的な感覚を芽生えさせた。これに対して、中国人は、地平線の彼方まで広がる天と、人間との係わりを身体全体で感じ取っているのかも知れない。身近に山があり、身近に木々がある奈良平野の中に身を置くことの方が、大平原の中に身を置くことよりも心は落ちつくという鈴木さんの率直な感覚も、日本人の感性そのものではないだろうか。身近に四季を感じることのできる風土の中にいたからこそ、日本人としての感性が育まれたように思える。

つづきを読む

開催日時
平成7年6月7日(水) 14:00〜17:00
開催場所
KDD目黒研究所
参加者
広野、塚田、田中、曽我部、山田(雅)、佐藤、望月

討議内容

今回は「日本人とは」と題して議論した。私達は、日常、何かの議論や話をしているときに知らず知らずのうちに「日本人は」という表現を使っているが、いざ日本人とは何かと改めて議論し始めてみると、なかなか捉え所のないものであることが分かる。しかし、その捉え所のないものではあるが、私達一人一人の中には、曖昧さを残しながらもある日本人像をイメージしていることも確かである。

日本人を定義するには、日本語を話しているとか、日本国籍を持っているとか、日本で生まれたとか、親が日本人であるとか様々な状況が想定されよう。しかし、ここでは、このような表面的な定義はひとまず置いておき、日本人の心の深層に流れる日本人的なものに焦点を当てて議論を進めた。

つづきを読む

開催日時
平成7年4月25日(火) 14:00〜17:00
開催場所
KDD目黒研究所
参加者
広野、土岐川、竹内、中瀬、奥田、鈴木(ヒ)、田中、牧田、山田(雅)、
佐藤、望月

討議内容

今回から新しいメンバーとして、山田雅志様が参加して下さいました。山田様は、KDDの子会社であるKDDクリエイティブに勤務されており、主として、本や雑誌の出版・編集を担当されています。約20年間出版の分野を点々と歩いてこられたそうです。趣味は映画鑑賞で、最近は少なくなくなったそうですがそれでも年間50本ほど見ているそうです。若い頃から宗教に関心を持ち、様々な宗教に接しながら、宗教の真髄を求めておられるそうです。職種がら、色々な分野の著名な方々に接してこられたそうで、これらの経験を元に、人間文化研究会の中で、新しい観点から意見を発展されることを期待しています。

今回は「愛」をテーマに議論した。愛には、夫婦の愛、親子の愛、兄弟愛、恋人同志の愛、友人愛、人類愛、地球愛、自然愛、愛国など様々な愛がある。これらの愛は、人間同志の中から生まれてくるものと、人間と物も含めた自然との係わりで生まれてくるものとがある。人間同志の中で生まれる愛には、一対一の係わりの中で生まれてくる愛と、一対多数の中で生まれてくるものとがある。これら様々な愛の中から、先ずは、一対一の異性間の愛について考えてみた。

つづきを読む

第37回 「仮想な世界と現実な世界」

開催日時
平成7年11月30日(木) 14:00〜17:00
開催場所
KDD目黒研究所
参加者
広野、土岐川、尾崎、長谷川、望月

討議内容

今回から新たなメンバーとして、長谷川里江様が参加して下さいました。長谷川様は、(株)乃村工藝社に勤務されていまして、建築デザインから、喫茶店の名前の提案まで、人が集まるところに関する様々な事柄についてコーディネイトされているとのことです。趣味は映画鑑賞や読書の他、お住まいが京都ということもあって、京の町を散策するという優雅な趣味を持っておられます。文化的な風土の中で培われた豊かな感性で、この会に新しい風を吹き込んでくれるものと期待しています。

今回も前回に引続き「教育」をテーマで討議を行った。私達が、他者から教わるものの中には、例えば1+1=2といった基本的なルールや、スポーツの基本動作といった、技術的なものと、新しい問題を解いたり、新しい技術を身につけたりといったような解説書には載せることの出来ない創造的な技能と表現できるものとがある。前者は、教科書や指導書となって表現することが出来き、万人に共通に教えることが出来るが、後者の技能は、文字や言葉だけでは伝えることの出来ないものである。

つづきを読む

開催日時
平成7年11月1日(水) 14:00〜17:00
開催場所
KDD目黒研究所
参加者
古館、広野、土岐川、久能、尾崎、望月

討議内容

今回からは、「教育」というテーマで討議を行った。教育に関しては、様々な切口からの議論が考えられるが、教育がどの様に今の若者達に影響を与えているかを探るために、先ず始めに、各職場や、社会における若者達の感覚や、価値観の変化について話し合った。それらをまとめてみると、現在の若者は、言われたことはしっかりするが、主体的に物事を考えて行動することが少なくなり、マニュアル化された行動が目立つ。また、結果を早く求め、未知なるものに挑戦して行こうとするチャレンジ意識に乏しい。しかし、その反面、一旦企業を離れると、ボランティア活動にみられるように、社会との係わりの中で積極的に行動する姿もある。また、音楽や、絵画といった文化的な事柄に対しては、鋭い感性が芽生えているように思える。これらのことを考えてみると、確かに若者の意識は、現在の中高年齢層とはかなり違った意識であるようだ。しかし、このことを、はたして教育と結び付けてよいものだろうか。むしろ、若者達の感覚は、大人達の感覚よりも純粋で、鋭く、社会の動きを直感的に把握しているのではないだろうか。社会が、西欧文明に追いつき、追い越すことを目的としてきた、いわゆるインフラ整備の時代から、新しい時代へと大きく変化してきていることを、今の若者達は、肌で感じ取っているように思える。ただ、その肌で感じ取っているものが、従来の目に見えるインフラ的なものではなく、精神的なものと深く係わっているが故に、今までとは違う何かを感じつつも、具体的な行動として取り得ないことに歯がゆさを感じているのかも知れない。学生達の理工系離れを心配して、各大学が、様々な形で理工系のアピールを行っているが、従来の価値観の中で生きている教育指導者達には、理工系を重要視するものが依然とあるのであろうが、若者達の鋭い感性は、将来が、理工系を基盤にした社会にはなってこないことを予感しているのかも知れない。

社会が、機能を求めていた時代から、感性的なものを求める時代にあっても、旧態依然とした、論理的な教育が行われていることも、これから大きな問題となってくるかも知れない。そして、インフラ整備を目的としていた先の見える時代から、自らの創造性を駆使した新しい世界を切り開いて行くためには、一人一人の個性を伸ばし、じっくりと考える余裕のある教育が必要なように思える。

つづきを読む

開催日時
平成7年9月27日(水) 14:00〜17:00
開催場所
ダイヤルサービス(株)会議室
参加者
古館、広野、尾崎、牧田、曽我部、佐藤、望月

討議内容

今回も前回、前々回に引続き、「日本人とは」と題して議論した。議論に入る前に、現在の企業での男性、女性の仕事への取り組み方などについて話をしている中で、女性は、他者との係わりの中で、感情的なものに支配され、どうしても自分の能力を100%発揮することが出来にくいのに対して、男性は、どちらかと言うと、女性より、感情的なものにはクールに対処しているように思えると言う意見があった。このことは、まさに、日本人と、他民族との比較においても成り立つ問題のようだ。他民族と比較し、論理的でなく、あいまいな日本人は、男性的な民族というより、情緒的なものに支配された女性的な民族といえないだろうか。消費行動にしても、自身の個性を尊重した消費ではなく、他者との係わりの中で物を購入して行くことが多い。それに比べると、英国人の消費行動は、個人的であり、質素であると、長年英国に住んでいた曽我部さんは指摘する。

日本人のあいまいさは、この議論の中で何度も話題に上っているが、そのあいまいさは、個人の生き方や、政治、経済などに対する思想に関してもあいまいのまま歩んできたようだ。確かに日本人は、世界に誇れるいくつかの日本文化を持ってはいるが、その文化を思想のレベルまで高めることをしなかった。どこかで互いに感じあえているのだからそれでいいのではないかと言う感覚が、あえて言葉によって論理的に表現することに価値を置かない雰囲気を作ってきたように思える。そのあいまいさが、他民族の中で発達した産業革命以降の工業化を、自分達の文化や伝統を考えることなくコピーして植え付けてしまったところに、環境や生活様式にアンバランスが生まれているように思える。そして、それが接ぎ木的なものであるから、日本人は、中身ではなく、外に見える形式に重きを置くようになっているのではないだろうか。元々、形というのは、そこにある生命が宿って初めて形として成り立ってくるのであるのに、生命を宿すことを学ばずに、表現された形だけをまねる形式が生まれてきているように思える。昨今の茶道の作法にしても、生命と直接係わる美学を学ぶのではなく、そこに演出された形式だけを学んでいるように思える。それは、蝉そのものの中に秘められた生命と語り合うのではなく、蝉の抜け殻と語り合っているようなものだ。

つづきを読む

開催日時
平成7年7月19日(火) 14:00〜17:00
開催場所
KDD目黒研究所
参加者
古館、霧島、高岡、山田(誠)、広野、塚田、鈴木(智)、久能、尾崎、佐藤、望月

討議内容

今回も前回に引続き、「日本人とは」と題して議論した。始めに高岡さんが提出して下さった、日本人とはと考えたときに思い浮かべたキーワードを基本に討議を始めた。その中にあるキーワードは、花鳥風月で表現される自然観、茶道、華道、武士道など道と係わるもの、地鎮祭、巨木崇拝などにみられる神道を含む宗教との係わりの三つに大別できる。

自然観に関しては、四季の移り変わりが、日本人の心に与えている影響は大きい。中国人の大学教授が、中国のCMと日本のCMとを比較した結果、中国のCMの特徴は、「天人合一」という自然観であるのに対して、日本のCMの中にみられる自然観は「自然を愛する」ことだそうだ。例えば、中国のCMでは、天上彩虹、人間長虹(天上の虹、人間の長虹 一 長虹電器)、天上有雷声、人間有達声(天上に雷鳴あり、人間に達声あり 一 達声音響)であり、日本のCMでは、ときめきの春を迎えに来てください(トヨタ自動車)、海と緑の風、爽やか(西武不動産)といった具合いである。このCMの対照は、同じ東洋文化圏の中にありながら、自然を捉える捉え型が、日本人と中国人とではかなり異なっていることのよい例であろう。日本人は、季節の移り変わりの中に自然の変化を微妙に感じ取り、そこに情緒的な感覚を芽生えさせた。これに対して、中国人は、地平線の彼方まで広がる天と、人間との係わりを身体全体で感じ取っているのかも知れない。身近に山があり、身近に木々がある奈良平野の中に身を置くことの方が、大平原の中に身を置くことよりも心は落ちつくという鈴木さんの率直な感覚も、日本人の感性そのものではないだろうか。身近に四季を感じることのできる風土の中にいたからこそ、日本人としての感性が育まれたように思える。

つづきを読む

開催日時
平成7年6月7日(水) 14:00〜17:00
開催場所
KDD目黒研究所
参加者
広野、塚田、田中、曽我部、山田(雅)、佐藤、望月

討議内容

今回は「日本人とは」と題して議論した。私達は、日常、何かの議論や話をしているときに知らず知らずのうちに「日本人は」という表現を使っているが、いざ日本人とは何かと改めて議論し始めてみると、なかなか捉え所のないものであることが分かる。しかし、その捉え所のないものではあるが、私達一人一人の中には、曖昧さを残しながらもある日本人像をイメージしていることも確かである。

日本人を定義するには、日本語を話しているとか、日本国籍を持っているとか、日本で生まれたとか、親が日本人であるとか様々な状況が想定されよう。しかし、ここでは、このような表面的な定義はひとまず置いておき、日本人の心の深層に流れる日本人的なものに焦点を当てて議論を進めた。

つづきを読む

開催日時
平成7年4月25日(火) 14:00〜17:00
開催場所
KDD目黒研究所
参加者
広野、土岐川、竹内、中瀬、奥田、鈴木(ヒ)、田中、牧田、山田(雅)、
佐藤、望月

討議内容

今回から新しいメンバーとして、山田雅志様が参加して下さいました。山田様は、KDDの子会社であるKDDクリエイティブに勤務されており、主として、本や雑誌の出版・編集を担当されています。約20年間出版の分野を点々と歩いてこられたそうです。趣味は映画鑑賞で、最近は少なくなくなったそうですがそれでも年間50本ほど見ているそうです。若い頃から宗教に関心を持ち、様々な宗教に接しながら、宗教の真髄を求めておられるそうです。職種がら、色々な分野の著名な方々に接してこられたそうで、これらの経験を元に、人間文化研究会の中で、新しい観点から意見を発展されることを期待しています。

今回は「愛」をテーマに議論した。愛には、夫婦の愛、親子の愛、兄弟愛、恋人同志の愛、友人愛、人類愛、地球愛、自然愛、愛国など様々な愛がある。これらの愛は、人間同志の中から生まれてくるものと、人間と物も含めた自然との係わりで生まれてくるものとがある。人間同志の中で生まれる愛には、一対一の係わりの中で生まれてくる愛と、一対多数の中で生まれてくるものとがある。これら様々な愛の中から、先ずは、一対一の異性間の愛について考えてみた。

つづきを読む

開催日時
平成7年3月13日(月) 14:00〜17:00
開催場所
KDD目黒研究所
参加者
多田、高岡、広野、塚田、竹内、田中、佐藤、望月

討議内容

今回も前回に引続き、仮想な世界と現実な世界について討議した。前回の議論で、現実な世界というのはどこかで生命と係わっているということであったが、その辺のところを、戦争体験者の田中様より意見が出された。爆撃される前は、どんなに逃げろといっても自分から逃げようとはしなかった人達も、一度爆撃を身近に体験すると、誰が何も言わなくても、逃げ足が早くなる。天災も同じことで、今回の阪神大震災においても、関西の人達にとっては、地震は日本の中で頻繁に起こっていたが、自分と係わることであるなどほとんどの人が思っていなかったと地震を直接経験された佐藤様は感想を述べている。自身の生命と直接係わるまで、他人事のように考えているこの気質は日本人特有なものかも知れない。そして、生命意識が希薄になっている現在、日本人は、仮想の世界の中で生きている民族のように思える。日々、生命の危機に瀕しているアジアの子供達に、将来の夢について尋ねたところ、生きていたいという答えが返ってきたという。日々の命を当り前と考えている日本人とは、雲泥の差がある。

物事が本気で行われるのは、多くの場合、それを実行する人が、何等かな形で生命活動を意識していることによるように思える。明治維新や、それ以降第二次世界大戦辺りまでの時代に生きた政治家、例えば、長州、土佐、薩摩といった辺境の地に生きた人達にとっては、外敵から身を守ることの意識が高まり、対外的な係わりに対して積極的に行動が起こせたのではないだろうか。それ以降の政治家も、自身の生命との係わりの中で、本気で物事に対処していけたのだと思う。これに対して、現在の政治家の多くは、標準的日本人と同じように、生命に対する意識が希薄になり、物事を本気で考えられなくなっているのではないだろうか。知識として政策は語れても、自身の生命と共鳴する政策はほとんどの政治家は持ち得ていないように思える。これらの背景には、物で満ち溢れ、生命が当り前に与えられているという錯覚があるのではないだろうか。日本の宗教が華開いた鎌倉時代、町にはあちこちに屍が転がり、地震や火事といった災難が絶えず起きていたことが、その時代の書物を読むと分かる。日常生活が自身の死を意識させていた時代、生と死について多くの人が悩み、救いの道として、宗教に身を委ねたのではないだろうか。生命活動から離れた意識の中で、知識的に生きている多くの日本人は、まさに仮想の世界の中で生きていると言えよう。

つづきを読む

第36回 「仮想な世界と現実な世界」

開催日時
平成7年11月30日(木) 14:00〜17:00
開催場所
KDD目黒研究所
参加者
広野、土岐川、尾崎、長谷川、望月

討議内容

今回から新たなメンバーとして、長谷川里江様が参加して下さいました。長谷川様は、(株)乃村工藝社に勤務されていまして、建築デザインから、喫茶店の名前の提案まで、人が集まるところに関する様々な事柄についてコーディネイトされているとのことです。趣味は映画鑑賞や読書の他、お住まいが京都ということもあって、京の町を散策するという優雅な趣味を持っておられます。文化的な風土の中で培われた豊かな感性で、この会に新しい風を吹き込んでくれるものと期待しています。

今回も前回に引続き「教育」をテーマで討議を行った。私達が、他者から教わるものの中には、例えば1+1=2といった基本的なルールや、スポーツの基本動作といった、技術的なものと、新しい問題を解いたり、新しい技術を身につけたりといったような解説書には載せることの出来ない創造的な技能と表現できるものとがある。前者は、教科書や指導書となって表現することが出来き、万人に共通に教えることが出来るが、後者の技能は、文字や言葉だけでは伝えることの出来ないものである。

つづきを読む

開催日時
平成7年11月1日(水) 14:00〜17:00
開催場所
KDD目黒研究所
参加者
古館、広野、土岐川、久能、尾崎、望月

討議内容

今回からは、「教育」というテーマで討議を行った。教育に関しては、様々な切口からの議論が考えられるが、教育がどの様に今の若者達に影響を与えているかを探るために、先ず始めに、各職場や、社会における若者達の感覚や、価値観の変化について話し合った。それらをまとめてみると、現在の若者は、言われたことはしっかりするが、主体的に物事を考えて行動することが少なくなり、マニュアル化された行動が目立つ。また、結果を早く求め、未知なるものに挑戦して行こうとするチャレンジ意識に乏しい。しかし、その反面、一旦企業を離れると、ボランティア活動にみられるように、社会との係わりの中で積極的に行動する姿もある。また、音楽や、絵画といった文化的な事柄に対しては、鋭い感性が芽生えているように思える。これらのことを考えてみると、確かに若者の意識は、現在の中高年齢層とはかなり違った意識であるようだ。しかし、このことを、はたして教育と結び付けてよいものだろうか。むしろ、若者達の感覚は、大人達の感覚よりも純粋で、鋭く、社会の動きを直感的に把握しているのではないだろうか。社会が、西欧文明に追いつき、追い越すことを目的としてきた、いわゆるインフラ整備の時代から、新しい時代へと大きく変化してきていることを、今の若者達は、肌で感じ取っているように思える。ただ、その肌で感じ取っているものが、従来の目に見えるインフラ的なものではなく、精神的なものと深く係わっているが故に、今までとは違う何かを感じつつも、具体的な行動として取り得ないことに歯がゆさを感じているのかも知れない。学生達の理工系離れを心配して、各大学が、様々な形で理工系のアピールを行っているが、従来の価値観の中で生きている教育指導者達には、理工系を重要視するものが依然とあるのであろうが、若者達の鋭い感性は、将来が、理工系を基盤にした社会にはなってこないことを予感しているのかも知れない。

社会が、機能を求めていた時代から、感性的なものを求める時代にあっても、旧態依然とした、論理的な教育が行われていることも、これから大きな問題となってくるかも知れない。そして、インフラ整備を目的としていた先の見える時代から、自らの創造性を駆使した新しい世界を切り開いて行くためには、一人一人の個性を伸ばし、じっくりと考える余裕のある教育が必要なように思える。

つづきを読む

開催日時
平成7年9月27日(水) 14:00〜17:00
開催場所
ダイヤルサービス(株)会議室
参加者
古館、広野、尾崎、牧田、曽我部、佐藤、望月

討議内容

今回も前回、前々回に引続き、「日本人とは」と題して議論した。議論に入る前に、現在の企業での男性、女性の仕事への取り組み方などについて話をしている中で、女性は、他者との係わりの中で、感情的なものに支配され、どうしても自分の能力を100%発揮することが出来にくいのに対して、男性は、どちらかと言うと、女性より、感情的なものにはクールに対処しているように思えると言う意見があった。このことは、まさに、日本人と、他民族との比較においても成り立つ問題のようだ。他民族と比較し、論理的でなく、あいまいな日本人は、男性的な民族というより、情緒的なものに支配された女性的な民族といえないだろうか。消費行動にしても、自身の個性を尊重した消費ではなく、他者との係わりの中で物を購入して行くことが多い。それに比べると、英国人の消費行動は、個人的であり、質素であると、長年英国に住んでいた曽我部さんは指摘する。

日本人のあいまいさは、この議論の中で何度も話題に上っているが、そのあいまいさは、個人の生き方や、政治、経済などに対する思想に関してもあいまいのまま歩んできたようだ。確かに日本人は、世界に誇れるいくつかの日本文化を持ってはいるが、その文化を思想のレベルまで高めることをしなかった。どこかで互いに感じあえているのだからそれでいいのではないかと言う感覚が、あえて言葉によって論理的に表現することに価値を置かない雰囲気を作ってきたように思える。そのあいまいさが、他民族の中で発達した産業革命以降の工業化を、自分達の文化や伝統を考えることなくコピーして植え付けてしまったところに、環境や生活様式にアンバランスが生まれているように思える。そして、それが接ぎ木的なものであるから、日本人は、中身ではなく、外に見える形式に重きを置くようになっているのではないだろうか。元々、形というのは、そこにある生命が宿って初めて形として成り立ってくるのであるのに、生命を宿すことを学ばずに、表現された形だけをまねる形式が生まれてきているように思える。昨今の茶道の作法にしても、生命と直接係わる美学を学ぶのではなく、そこに演出された形式だけを学んでいるように思える。それは、蝉そのものの中に秘められた生命と語り合うのではなく、蝉の抜け殻と語り合っているようなものだ。

つづきを読む

開催日時
平成7年7月19日(火) 14:00〜17:00
開催場所
KDD目黒研究所
参加者
古館、霧島、高岡、山田(誠)、広野、塚田、鈴木(智)、久能、尾崎、佐藤、望月

討議内容

今回も前回に引続き、「日本人とは」と題して議論した。始めに高岡さんが提出して下さった、日本人とはと考えたときに思い浮かべたキーワードを基本に討議を始めた。その中にあるキーワードは、花鳥風月で表現される自然観、茶道、華道、武士道など道と係わるもの、地鎮祭、巨木崇拝などにみられる神道を含む宗教との係わりの三つに大別できる。

自然観に関しては、四季の移り変わりが、日本人の心に与えている影響は大きい。中国人の大学教授が、中国のCMと日本のCMとを比較した結果、中国のCMの特徴は、「天人合一」という自然観であるのに対して、日本のCMの中にみられる自然観は「自然を愛する」ことだそうだ。例えば、中国のCMでは、天上彩虹、人間長虹(天上の虹、人間の長虹 一 長虹電器)、天上有雷声、人間有達声(天上に雷鳴あり、人間に達声あり 一 達声音響)であり、日本のCMでは、ときめきの春を迎えに来てください(トヨタ自動車)、海と緑の風、爽やか(西武不動産)といった具合いである。このCMの対照は、同じ東洋文化圏の中にありながら、自然を捉える捉え型が、日本人と中国人とではかなり異なっていることのよい例であろう。日本人は、季節の移り変わりの中に自然の変化を微妙に感じ取り、そこに情緒的な感覚を芽生えさせた。これに対して、中国人は、地平線の彼方まで広がる天と、人間との係わりを身体全体で感じ取っているのかも知れない。身近に山があり、身近に木々がある奈良平野の中に身を置くことの方が、大平原の中に身を置くことよりも心は落ちつくという鈴木さんの率直な感覚も、日本人の感性そのものではないだろうか。身近に四季を感じることのできる風土の中にいたからこそ、日本人としての感性が育まれたように思える。

つづきを読む

開催日時
平成7年6月7日(水) 14:00〜17:00
開催場所
KDD目黒研究所
参加者
広野、塚田、田中、曽我部、山田(雅)、佐藤、望月

討議内容

今回は「日本人とは」と題して議論した。私達は、日常、何かの議論や話をしているときに知らず知らずのうちに「日本人は」という表現を使っているが、いざ日本人とは何かと改めて議論し始めてみると、なかなか捉え所のないものであることが分かる。しかし、その捉え所のないものではあるが、私達一人一人の中には、曖昧さを残しながらもある日本人像をイメージしていることも確かである。

日本人を定義するには、日本語を話しているとか、日本国籍を持っているとか、日本で生まれたとか、親が日本人であるとか様々な状況が想定されよう。しかし、ここでは、このような表面的な定義はひとまず置いておき、日本人の心の深層に流れる日本人的なものに焦点を当てて議論を進めた。

つづきを読む

開催日時
平成7年4月25日(火) 14:00〜17:00
開催場所
KDD目黒研究所
参加者
広野、土岐川、竹内、中瀬、奥田、鈴木(ヒ)、田中、牧田、山田(雅)、
佐藤、望月

討議内容

今回から新しいメンバーとして、山田雅志様が参加して下さいました。山田様は、KDDの子会社であるKDDクリエイティブに勤務されており、主として、本や雑誌の出版・編集を担当されています。約20年間出版の分野を点々と歩いてこられたそうです。趣味は映画鑑賞で、最近は少なくなくなったそうですがそれでも年間50本ほど見ているそうです。若い頃から宗教に関心を持ち、様々な宗教に接しながら、宗教の真髄を求めておられるそうです。職種がら、色々な分野の著名な方々に接してこられたそうで、これらの経験を元に、人間文化研究会の中で、新しい観点から意見を発展されることを期待しています。

今回は「愛」をテーマに議論した。愛には、夫婦の愛、親子の愛、兄弟愛、恋人同志の愛、友人愛、人類愛、地球愛、自然愛、愛国など様々な愛がある。これらの愛は、人間同志の中から生まれてくるものと、人間と物も含めた自然との係わりで生まれてくるものとがある。人間同志の中で生まれる愛には、一対一の係わりの中で生まれてくる愛と、一対多数の中で生まれてくるものとがある。これら様々な愛の中から、先ずは、一対一の異性間の愛について考えてみた。

つづきを読む

開催日時
平成7年3月13日(月) 14:00〜17:00
開催場所
KDD目黒研究所
参加者
多田、高岡、広野、塚田、竹内、田中、佐藤、望月

討議内容

今回も前回に引続き、仮想な世界と現実な世界について討議した。前回の議論で、現実な世界というのはどこかで生命と係わっているということであったが、その辺のところを、戦争体験者の田中様より意見が出された。爆撃される前は、どんなに逃げろといっても自分から逃げようとはしなかった人達も、一度爆撃を身近に体験すると、誰が何も言わなくても、逃げ足が早くなる。天災も同じことで、今回の阪神大震災においても、関西の人達にとっては、地震は日本の中で頻繁に起こっていたが、自分と係わることであるなどほとんどの人が思っていなかったと地震を直接経験された佐藤様は感想を述べている。自身の生命と直接係わるまで、他人事のように考えているこの気質は日本人特有なものかも知れない。そして、生命意識が希薄になっている現在、日本人は、仮想の世界の中で生きている民族のように思える。日々、生命の危機に瀕しているアジアの子供達に、将来の夢について尋ねたところ、生きていたいという答えが返ってきたという。日々の命を当り前と考えている日本人とは、雲泥の差がある。

物事が本気で行われるのは、多くの場合、それを実行する人が、何等かな形で生命活動を意識していることによるように思える。明治維新や、それ以降第二次世界大戦辺りまでの時代に生きた政治家、例えば、長州、土佐、薩摩といった辺境の地に生きた人達にとっては、外敵から身を守ることの意識が高まり、対外的な係わりに対して積極的に行動が起こせたのではないだろうか。それ以降の政治家も、自身の生命との係わりの中で、本気で物事に対処していけたのだと思う。これに対して、現在の政治家の多くは、標準的日本人と同じように、生命に対する意識が希薄になり、物事を本気で考えられなくなっているのではないだろうか。知識として政策は語れても、自身の生命と共鳴する政策はほとんどの政治家は持ち得ていないように思える。これらの背景には、物で満ち溢れ、生命が当り前に与えられているという錯覚があるのではないだろうか。日本の宗教が華開いた鎌倉時代、町にはあちこちに屍が転がり、地震や火事といった災難が絶えず起きていたことが、その時代の書物を読むと分かる。日常生活が自身の死を意識させていた時代、生と死について多くの人が悩み、救いの道として、宗教に身を委ねたのではないだろうか。生命活動から離れた意識の中で、知識的に生きている多くの日本人は、まさに仮想の世界の中で生きていると言えよう。

つづきを読む

開催日時
平成7年1月25日(水) 14:00〜17:00
開催場所
KDD目黒研究所
参加者
広野、塚田、鈴木、中瀬、竹内、関、尾崎、鈴木(ヒ)、木内、牧田、武井、曽我部、望月

討議内容

今回新たに3人のメンバーが人間文化研究会に参加して下さいました。牧田様は、福武書店に勤務されており、創造牲は如何に育まれるのか、創造性は計ることができるのか等、創造牲開発に興味を持っていらっしゃいます。趣味はいわな釣りで、春先から黒部の山奥でいわなを釣るのが楽しみとのこと。武井様は、早稲田大学商学部の助教授をされており、マーケティングが御専門です。仕事柄、家にいて研究することが多く、小学生と幼稚園児の二人の男の子の面倒をよくみている良きパパでもあります。趣味は鎧や城を見て歩くことで、歴史が好きとのこと。曽我部様は、広野様と同じダイヤルサービスに勤務されている活発なお嬢様です。イギリスに3年半留学していて、昨年の3月に帰国したそうです。日本の大学では、日本文学、特に北村透谷や国木田独歩といった自殺をした作家についての研究をやっていたそうです。イギリスでは国際政治に関する研究をなさっていたとのこと。様々な経験と、様々な分野でご活躍の三名が、人間文化研究会に新しい風を吹き込んでくれることを期待しています。

今回は、仮想な世界と現実な世界と題して討議した。仮想な世界の一例として、阪神大震災のニュースが取り上げられた。実際に、今回の地震を経験し、災害を被った人達にとっては、阪神大震災は、現実そのものの世界であるが、それらをTVや、新聞などを通して見ている人達にとっては、仮想な世界そのものである。もちろん、その場を経験していない人であっても、肉親や、知人がこの震災の渦の中に巻さ込まれている人達にとっては、また、ある現実な世界として、阪神大震災のニュースは映ってくるのであろうし、同じ人間として、また日本人として、被災者に対する思いやりは、現実なものとなって心を動かしていることも確かである。大地震の可能性のある日本に生活している私達にとっては、阪神大震災は、湾岸戦争を茶の間のTVで見ていたのとは違った感覚で受け取っていたことも確かであろう。阪神大震災のニュースは、私達日本人にとっては、湾岸戦争のように、完全には仮想な世界としては映っていない。しかし、湾岸戦争の時にイギリスで生活していた曽我部さんにとっては、湾岸戦争は、決して対岸の火ではなく、いつ攻撃されるか分からない危機感に陥っていたとのこと。同じ情報の中にいても、かたやイギリスに生活している人にとっては、リアルな世界として湾岸戦争は映っていたのに対し、日本で生活している人にとっては、ドキュメンタリーと映る仮想の世界になってしまうのは一体どこがどう違うのであろうか。

つづきを読む

第35回 「21世紀の人間社会」

開催日時
平成7年11月30日(木) 14:00〜17:00
開催場所
KDD目黒研究所
参加者
広野、土岐川、尾崎、長谷川、望月

討議内容

今回から新たなメンバーとして、長谷川里江様が参加して下さいました。長谷川様は、(株)乃村工藝社に勤務されていまして、建築デザインから、喫茶店の名前の提案まで、人が集まるところに関する様々な事柄についてコーディネイトされているとのことです。趣味は映画鑑賞や読書の他、お住まいが京都ということもあって、京の町を散策するという優雅な趣味を持っておられます。文化的な風土の中で培われた豊かな感性で、この会に新しい風を吹き込んでくれるものと期待しています。

今回も前回に引続き「教育」をテーマで討議を行った。私達が、他者から教わるものの中には、例えば1+1=2といった基本的なルールや、スポーツの基本動作といった、技術的なものと、新しい問題を解いたり、新しい技術を身につけたりといったような解説書には載せることの出来ない創造的な技能と表現できるものとがある。前者は、教科書や指導書となって表現することが出来き、万人に共通に教えることが出来るが、後者の技能は、文字や言葉だけでは伝えることの出来ないものである。

つづきを読む

開催日時
平成7年11月1日(水) 14:00〜17:00
開催場所
KDD目黒研究所
参加者
古館、広野、土岐川、久能、尾崎、望月

討議内容

今回からは、「教育」というテーマで討議を行った。教育に関しては、様々な切口からの議論が考えられるが、教育がどの様に今の若者達に影響を与えているかを探るために、先ず始めに、各職場や、社会における若者達の感覚や、価値観の変化について話し合った。それらをまとめてみると、現在の若者は、言われたことはしっかりするが、主体的に物事を考えて行動することが少なくなり、マニュアル化された行動が目立つ。また、結果を早く求め、未知なるものに挑戦して行こうとするチャレンジ意識に乏しい。しかし、その反面、一旦企業を離れると、ボランティア活動にみられるように、社会との係わりの中で積極的に行動する姿もある。また、音楽や、絵画といった文化的な事柄に対しては、鋭い感性が芽生えているように思える。これらのことを考えてみると、確かに若者の意識は、現在の中高年齢層とはかなり違った意識であるようだ。しかし、このことを、はたして教育と結び付けてよいものだろうか。むしろ、若者達の感覚は、大人達の感覚よりも純粋で、鋭く、社会の動きを直感的に把握しているのではないだろうか。社会が、西欧文明に追いつき、追い越すことを目的としてきた、いわゆるインフラ整備の時代から、新しい時代へと大きく変化してきていることを、今の若者達は、肌で感じ取っているように思える。ただ、その肌で感じ取っているものが、従来の目に見えるインフラ的なものではなく、精神的なものと深く係わっているが故に、今までとは違う何かを感じつつも、具体的な行動として取り得ないことに歯がゆさを感じているのかも知れない。学生達の理工系離れを心配して、各大学が、様々な形で理工系のアピールを行っているが、従来の価値観の中で生きている教育指導者達には、理工系を重要視するものが依然とあるのであろうが、若者達の鋭い感性は、将来が、理工系を基盤にした社会にはなってこないことを予感しているのかも知れない。

社会が、機能を求めていた時代から、感性的なものを求める時代にあっても、旧態依然とした、論理的な教育が行われていることも、これから大きな問題となってくるかも知れない。そして、インフラ整備を目的としていた先の見える時代から、自らの創造性を駆使した新しい世界を切り開いて行くためには、一人一人の個性を伸ばし、じっくりと考える余裕のある教育が必要なように思える。

つづきを読む

開催日時
平成7年9月27日(水) 14:00〜17:00
開催場所
ダイヤルサービス(株)会議室
参加者
古館、広野、尾崎、牧田、曽我部、佐藤、望月

討議内容

今回も前回、前々回に引続き、「日本人とは」と題して議論した。議論に入る前に、現在の企業での男性、女性の仕事への取り組み方などについて話をしている中で、女性は、他者との係わりの中で、感情的なものに支配され、どうしても自分の能力を100%発揮することが出来にくいのに対して、男性は、どちらかと言うと、女性より、感情的なものにはクールに対処しているように思えると言う意見があった。このことは、まさに、日本人と、他民族との比較においても成り立つ問題のようだ。他民族と比較し、論理的でなく、あいまいな日本人は、男性的な民族というより、情緒的なものに支配された女性的な民族といえないだろうか。消費行動にしても、自身の個性を尊重した消費ではなく、他者との係わりの中で物を購入して行くことが多い。それに比べると、英国人の消費行動は、個人的であり、質素であると、長年英国に住んでいた曽我部さんは指摘する。

日本人のあいまいさは、この議論の中で何度も話題に上っているが、そのあいまいさは、個人の生き方や、政治、経済などに対する思想に関してもあいまいのまま歩んできたようだ。確かに日本人は、世界に誇れるいくつかの日本文化を持ってはいるが、その文化を思想のレベルまで高めることをしなかった。どこかで互いに感じあえているのだからそれでいいのではないかと言う感覚が、あえて言葉によって論理的に表現することに価値を置かない雰囲気を作ってきたように思える。そのあいまいさが、他民族の中で発達した産業革命以降の工業化を、自分達の文化や伝統を考えることなくコピーして植え付けてしまったところに、環境や生活様式にアンバランスが生まれているように思える。そして、それが接ぎ木的なものであるから、日本人は、中身ではなく、外に見える形式に重きを置くようになっているのではないだろうか。元々、形というのは、そこにある生命が宿って初めて形として成り立ってくるのであるのに、生命を宿すことを学ばずに、表現された形だけをまねる形式が生まれてきているように思える。昨今の茶道の作法にしても、生命と直接係わる美学を学ぶのではなく、そこに演出された形式だけを学んでいるように思える。それは、蝉そのものの中に秘められた生命と語り合うのではなく、蝉の抜け殻と語り合っているようなものだ。

つづきを読む

開催日時
平成7年7月19日(火) 14:00〜17:00
開催場所
KDD目黒研究所
参加者
古館、霧島、高岡、山田(誠)、広野、塚田、鈴木(智)、久能、尾崎、佐藤、望月

討議内容

今回も前回に引続き、「日本人とは」と題して議論した。始めに高岡さんが提出して下さった、日本人とはと考えたときに思い浮かべたキーワードを基本に討議を始めた。その中にあるキーワードは、花鳥風月で表現される自然観、茶道、華道、武士道など道と係わるもの、地鎮祭、巨木崇拝などにみられる神道を含む宗教との係わりの三つに大別できる。

自然観に関しては、四季の移り変わりが、日本人の心に与えている影響は大きい。中国人の大学教授が、中国のCMと日本のCMとを比較した結果、中国のCMの特徴は、「天人合一」という自然観であるのに対して、日本のCMの中にみられる自然観は「自然を愛する」ことだそうだ。例えば、中国のCMでは、天上彩虹、人間長虹(天上の虹、人間の長虹 一 長虹電器)、天上有雷声、人間有達声(天上に雷鳴あり、人間に達声あり 一 達声音響)であり、日本のCMでは、ときめきの春を迎えに来てください(トヨタ自動車)、海と緑の風、爽やか(西武不動産)といった具合いである。このCMの対照は、同じ東洋文化圏の中にありながら、自然を捉える捉え型が、日本人と中国人とではかなり異なっていることのよい例であろう。日本人は、季節の移り変わりの中に自然の変化を微妙に感じ取り、そこに情緒的な感覚を芽生えさせた。これに対して、中国人は、地平線の彼方まで広がる天と、人間との係わりを身体全体で感じ取っているのかも知れない。身近に山があり、身近に木々がある奈良平野の中に身を置くことの方が、大平原の中に身を置くことよりも心は落ちつくという鈴木さんの率直な感覚も、日本人の感性そのものではないだろうか。身近に四季を感じることのできる風土の中にいたからこそ、日本人としての感性が育まれたように思える。

つづきを読む

開催日時
平成7年6月7日(水) 14:00〜17:00
開催場所
KDD目黒研究所
参加者
広野、塚田、田中、曽我部、山田(雅)、佐藤、望月

討議内容

今回は「日本人とは」と題して議論した。私達は、日常、何かの議論や話をしているときに知らず知らずのうちに「日本人は」という表現を使っているが、いざ日本人とは何かと改めて議論し始めてみると、なかなか捉え所のないものであることが分かる。しかし、その捉え所のないものではあるが、私達一人一人の中には、曖昧さを残しながらもある日本人像をイメージしていることも確かである。

日本人を定義するには、日本語を話しているとか、日本国籍を持っているとか、日本で生まれたとか、親が日本人であるとか様々な状況が想定されよう。しかし、ここでは、このような表面的な定義はひとまず置いておき、日本人の心の深層に流れる日本人的なものに焦点を当てて議論を進めた。

つづきを読む

開催日時
平成7年4月25日(火) 14:00〜17:00
開催場所
KDD目黒研究所
参加者
広野、土岐川、竹内、中瀬、奥田、鈴木(ヒ)、田中、牧田、山田(雅)、
佐藤、望月

討議内容

今回から新しいメンバーとして、山田雅志様が参加して下さいました。山田様は、KDDの子会社であるKDDクリエイティブに勤務されており、主として、本や雑誌の出版・編集を担当されています。約20年間出版の分野を点々と歩いてこられたそうです。趣味は映画鑑賞で、最近は少なくなくなったそうですがそれでも年間50本ほど見ているそうです。若い頃から宗教に関心を持ち、様々な宗教に接しながら、宗教の真髄を求めておられるそうです。職種がら、色々な分野の著名な方々に接してこられたそうで、これらの経験を元に、人間文化研究会の中で、新しい観点から意見を発展されることを期待しています。

今回は「愛」をテーマに議論した。愛には、夫婦の愛、親子の愛、兄弟愛、恋人同志の愛、友人愛、人類愛、地球愛、自然愛、愛国など様々な愛がある。これらの愛は、人間同志の中から生まれてくるものと、人間と物も含めた自然との係わりで生まれてくるものとがある。人間同志の中で生まれる愛には、一対一の係わりの中で生まれてくる愛と、一対多数の中で生まれてくるものとがある。これら様々な愛の中から、先ずは、一対一の異性間の愛について考えてみた。

つづきを読む

開催日時
平成7年3月13日(月) 14:00〜17:00
開催場所
KDD目黒研究所
参加者
多田、高岡、広野、塚田、竹内、田中、佐藤、望月

討議内容

今回も前回に引続き、仮想な世界と現実な世界について討議した。前回の議論で、現実な世界というのはどこかで生命と係わっているということであったが、その辺のところを、戦争体験者の田中様より意見が出された。爆撃される前は、どんなに逃げろといっても自分から逃げようとはしなかった人達も、一度爆撃を身近に体験すると、誰が何も言わなくても、逃げ足が早くなる。天災も同じことで、今回の阪神大震災においても、関西の人達にとっては、地震は日本の中で頻繁に起こっていたが、自分と係わることであるなどほとんどの人が思っていなかったと地震を直接経験された佐藤様は感想を述べている。自身の生命と直接係わるまで、他人事のように考えているこの気質は日本人特有なものかも知れない。そして、生命意識が希薄になっている現在、日本人は、仮想の世界の中で生きている民族のように思える。日々、生命の危機に瀕しているアジアの子供達に、将来の夢について尋ねたところ、生きていたいという答えが返ってきたという。日々の命を当り前と考えている日本人とは、雲泥の差がある。

物事が本気で行われるのは、多くの場合、それを実行する人が、何等かな形で生命活動を意識していることによるように思える。明治維新や、それ以降第二次世界大戦辺りまでの時代に生きた政治家、例えば、長州、土佐、薩摩といった辺境の地に生きた人達にとっては、外敵から身を守ることの意識が高まり、対外的な係わりに対して積極的に行動が起こせたのではないだろうか。それ以降の政治家も、自身の生命との係わりの中で、本気で物事に対処していけたのだと思う。これに対して、現在の政治家の多くは、標準的日本人と同じように、生命に対する意識が希薄になり、物事を本気で考えられなくなっているのではないだろうか。知識として政策は語れても、自身の生命と共鳴する政策はほとんどの政治家は持ち得ていないように思える。これらの背景には、物で満ち溢れ、生命が当り前に与えられているという錯覚があるのではないだろうか。日本の宗教が華開いた鎌倉時代、町にはあちこちに屍が転がり、地震や火事といった災難が絶えず起きていたことが、その時代の書物を読むと分かる。日常生活が自身の死を意識させていた時代、生と死について多くの人が悩み、救いの道として、宗教に身を委ねたのではないだろうか。生命活動から離れた意識の中で、知識的に生きている多くの日本人は、まさに仮想の世界の中で生きていると言えよう。

つづきを読む

開催日時
平成7年1月25日(水) 14:00〜17:00
開催場所
KDD目黒研究所
参加者
広野、塚田、鈴木、中瀬、竹内、関、尾崎、鈴木(ヒ)、木内、牧田、武井、曽我部、望月

討議内容

今回新たに3人のメンバーが人間文化研究会に参加して下さいました。牧田様は、福武書店に勤務されており、創造牲は如何に育まれるのか、創造性は計ることができるのか等、創造牲開発に興味を持っていらっしゃいます。趣味はいわな釣りで、春先から黒部の山奥でいわなを釣るのが楽しみとのこと。武井様は、早稲田大学商学部の助教授をされており、マーケティングが御専門です。仕事柄、家にいて研究することが多く、小学生と幼稚園児の二人の男の子の面倒をよくみている良きパパでもあります。趣味は鎧や城を見て歩くことで、歴史が好きとのこと。曽我部様は、広野様と同じダイヤルサービスに勤務されている活発なお嬢様です。イギリスに3年半留学していて、昨年の3月に帰国したそうです。日本の大学では、日本文学、特に北村透谷や国木田独歩といった自殺をした作家についての研究をやっていたそうです。イギリスでは国際政治に関する研究をなさっていたとのこと。様々な経験と、様々な分野でご活躍の三名が、人間文化研究会に新しい風を吹き込んでくれることを期待しています。

今回は、仮想な世界と現実な世界と題して討議した。仮想な世界の一例として、阪神大震災のニュースが取り上げられた。実際に、今回の地震を経験し、災害を被った人達にとっては、阪神大震災は、現実そのものの世界であるが、それらをTVや、新聞などを通して見ている人達にとっては、仮想な世界そのものである。もちろん、その場を経験していない人であっても、肉親や、知人がこの震災の渦の中に巻さ込まれている人達にとっては、また、ある現実な世界として、阪神大震災のニュースは映ってくるのであろうし、同じ人間として、また日本人として、被災者に対する思いやりは、現実なものとなって心を動かしていることも確かである。大地震の可能性のある日本に生活している私達にとっては、阪神大震災は、湾岸戦争を茶の間のTVで見ていたのとは違った感覚で受け取っていたことも確かであろう。阪神大震災のニュースは、私達日本人にとっては、湾岸戦争のように、完全には仮想な世界としては映っていない。しかし、湾岸戦争の時にイギリスで生活していた曽我部さんにとっては、湾岸戦争は、決して対岸の火ではなく、いつ攻撃されるか分からない危機感に陥っていたとのこと。同じ情報の中にいても、かたやイギリスに生活している人にとっては、リアルな世界として湾岸戦争は映っていたのに対し、日本で生活している人にとっては、ドキュメンタリーと映る仮想の世界になってしまうのは一体どこがどう違うのであろうか。

つづきを読む

開催日時
平成6年12月1日(木) 14:00〜17:00
開催場所
KDD目黒研究所
参加者
古館、多田、広野、塚田、菅沼、中瀬、竹内、奥田、久能、尾崎、鈴木(ヒ)、木内、望月

討議内容

今回は、21世紀の人間社会と題して討議した。21世紀がどの様な社会になっているかは、家庭環境、職場環境、政治経済、教育、医療、福祉など様々な分野で、それなりに変化があり、予測することが可能であろうが、本研究会においては、その様な環境の中で、人間の心の深層において、どのような変化があるのかを基本に考えてみることにした。そのために、現在が、過去のどのような変化の延長上にあるのかを探る必要があり、先ず始めに過去20年の間に、社会がどのように変化し、それによって、人間のライフスタイルがどのように変ってきたかを探ることから始めた。

過去20年の間に、世の中に現れてきたものとして数多くのものが上げられたが、その中から代表的なものを列記すると、以下のようなものが上げられる。

つづきを読む

Home > 1995年レポート

このサイトについて
月別アーカイブ
最近の投稿記事
最近のコメント

Page Top