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第39回 「日本人とは」

開催日時
平成7年6月7日(水) 14:00〜17:00
開催場所
KDD目黒研究所
参加者
広野、塚田、田中、曽我部、山田(雅)、佐藤、望月

討議内容

今回は「日本人とは」と題して議論した。私達は、日常、何かの議論や話をしているときに知らず知らずのうちに「日本人は」という表現を使っているが、いざ日本人とは何かと改めて議論し始めてみると、なかなか捉え所のないものであることが分かる。しかし、その捉え所のないものではあるが、私達一人一人の中には、曖昧さを残しながらもある日本人像をイメージしていることも確かである。

日本人を定義するには、日本語を話しているとか、日本国籍を持っているとか、日本で生まれたとか、親が日本人であるとか様々な状況が想定されよう。しかし、ここでは、このような表面的な定義はひとまず置いておき、日本人の心の深層に流れる日本人的なものに焦点を当てて議論を進めた。

日本人を特徴付けていることを一言で表現するならば、「あいまい」ということになろうか。そして、そのあいまいさをもう少し考えてみるならば、言葉を一つの例として取り上げても、一つの言葉のもつ意味が、確定的ではなく、その言葉の底に多様な心の世界が広がっているということである。すなわち、日本人の会話の特徴は、言葉の底に横たわる、様々な意味を、聴き手は推測しながら対話をしているということである。このことは、私達日本人は、知らず知らずのうちに、言葉をキーワードとして、そのキーワードによって指し示される様々な意味を無意識のうちに、心のデータベースに刻み込んでいるということである。この共通したデータベースを持つ日本人同志の会話においては、キーワードだけの会話によって、互いにキーワードだけでは見えてこない広い世界を語り合うことが出来ている。文化人類学者エドワード・T・ホールは、このキーワードの指し示すデータベースをコンテクストと呼び、データベースの豊かな日本人をコンテクスト度の高い民族であると表現している。日本人が、国際化の波の中で、外国人の目からあいまいとして見えるのは、外国人との対話の中に、このコンテクスト度の高いデータベースをそのまま持ち続けていることによろう。

このことを物語る一つの例として、英語と日本語のバイリンガルである学生が、日本語で考え日本語で語る方が、英語で考え英語で語るのに比べて疲れるという。それは、英語では、考えを言葉にダイレクトに表現するだけで済むが、日本語で考え、日本語で表現すると、どうしても豊かなデータベースを無意識のうちに呼び出してしまい、言葉の選択に迷ってしまうとのこと。このことを考えると、日本人は、他の民族に比較して、相当疲れた会話をしているのかも知れない。

日本語のもつ意味の底に豊かなデータベースがあればこそ、日本文化として、短歌や俳句が生まれたのだと考えられる。そして、言葉少ない中に、語る人の心の世界を推測するというイマジネーションの能力も日本人は豊かなのかも知れない。

あいまいさということでもう一つ特徴的なことは、日本人はNOといえないと外国人の目に映るように、日本人は、あまり断定的に物事を表現しないようだ。この感覚がどこからくるのかは、さらに議論を進める必要があるが、一つには、断定することは、個人としての考え方をはっきりと表現するということであり、そこには、自分という個が浮き上がって来る。この個の浮き上がりに対して、日本人は、不安を感じるのか、美徳としないのか、とにかく躊躇する。飲み屋さんに行って「ビール」と注文すると、「何本ほどお持ちしましょうか」という問に対して、「2、3本」と、聞く方も答える方もあいまいさを残しながら、それでもことが運んでしまう。「何本お持ちしましょうか」、「3本」という会話には、どこかしら冷たさのようなものを感じてしまう。それを冷たいと感じるのが日本人の心なのかも知れない。

日本人は、会議においても、参加者全員が積極的に発言するという零囲気はなかなかない。その会のリーダー役なり、立場上話さなければならない人が多くの場合発言し、他の参加者は、なかなか発言しない。このような場で発言することは、上で述べた断定する会話の心とどこかしら共通した価値観が潜んでいるように思える。このもやもやとした価値観をイメージしてみると、そこには日本人だけに特徴的な見えざる共有空間がこころの中に展開されている。断定することや、発言することは、この見えざる共有空間から飛び出すことに相当するのではないだろうか。そして、この飛び出すことは、どこかしら孤独感を生み出すように思える。日本人のコンテクスト度の高い会話や、あいまいさといったものは、日本人のこころの無意識の世界に流れるこの共有空間と深い係わりがあるのであろう。そして、この共有空間は、自分自身が感じることを、あたかも日本人全てが共通に感じているかのような錯覚におとしめているように思える。「この味は日本人にはあわないよね」と言った表現は、まさにこのことを物語っているといえよう。

日本人の個よりも集団への帰属に価値を持つ行動は、こころの共有空間と係わっているように思える。そして、日本人は、この共有空間をあたかも臭いをかぎわけるかのような動物的感覚で認識し、行動しているのであろう。そのために、個が主体として動く社会ではなく、あいまいなこころの世界を共有しながら全体が一つとして動いて行くアメーバ的営みを行っているように思える。その動きの中には、一見して、意識してはっきり分かる思想もなく、はっきりした目的もないように見えていて、全体は動物的感によって、きちんとある方向に動いているのである。魚の群れが一斉に方向を変えたり、飛ぶ鳥の群れが一斉に方向を変えたりするあの集団的営みを、日本人は、人間社会の中に展開しているように思える。そこには、はっきりしたリーダーがいなくても、確かにある方向に向かって動いてはいる。そのために、責任者の存在があいまいな状況を生み出しているのであろう。このことが、日本人をして、はきりとした思想や哲学の元に行動することから遠ざけ、責任者の明確でない組織を生み出してきたといえないだろうか。

韓国の学生と日本の学生とが、政治や経済など様々な点について話し合うシンポジウムの中で、韓国の学生から日本の学生に対する印象として言われたことに、日本の学生は政治や経済にうといと言うことであった。思想や哲学の明確でない政治に対して、関心が薄くなるのは必然的なものであろうし、日本人は、日本人の感性で、日本の歩んでいく方向に、政治の指導性を求めることなく、見えざる共有世界の存在を感じ取っているように思える。

もしこの共有するこころの存在が日本人に特徴的なものであるとしたならば、このこころは一体なぜ日本人の中に生まれてきたのであろうか。その一つの理由として、島国という国土の特徴が、異民族の襲撃から日本人を守っていたことが上げられようか。異なった感性をもつ異民族からの襲撃のない中で、日本人特有の感性を育み、その共通性の高さによって、共有するこころの世界を生み出してきたように思える。

もう一つ日本人のこころに深く影響しているものとして、神道思想がありそうだ。全てのものに神が宿っているといった宇宙観、きよめと係わる清潔感等、私達の日常生活の中での価値観は、神道思想がその根本にあるように思える。この宗教観が、仏教思想と共鳴し、日本に仏教の挙が開いたのではないだろうか。日本人としてのこころの特徴を形作っているものには、これらの宗教性や儒教と係わる道徳観などがその基本になっていることは確かであろう。

海外旅行をして気が付くことであるが、外国人に道を聞くと、たとえ知らない場所でも、あたかも知っているかのように自信に満ちた様子ででたらめの場所を教えてくれることに出くわす。知らないということの言えない国民性を秘めているのであろうか。これとは対照的に、日本人には、謙虚さを尊ぶこころがある。この謙虚さも宗教観、道徳観と深い係わりがありそうだ。
日本人がはっきりとNOと言えない一つの理由として、NOという契約世界だけでの否定語が、日本人には、相手の人格までも否定してしまうような強さを持って響く。日本人の人との係わりが、個人の人格とかなり深く係わっているように思える。人間性と深く係わりを持っているが故に、契約社会とは違い、あいまいさを残して置くことが必要なのかも知れない。サラリーやボーナスの査定は、契約社会では、その人の能力だけと係わった評価であるのに、日本人には、人間性までも評価されていると言う感覚がある。人間性という感性の世界と、契約という論理的な世界とをはっきりと区別できないところに日本人の一つの特徴があるように思える。

以上日本人について議論してきたが、まだまだ議論する余地のあるテーマであり、多くのメンバーから、次回もこのテーマで議論してはしいという要望があることから、次回も「日本人とは」と題して議論することにした。

次回の開催を7月18日(火)とした。

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