- 2005-04-09 (土) 2:00
- 1997年レポート
- 開催日時
- 平成9年9月17日(水) 14:00〜17:00
- 開催場所
- KDD目黒研究所
- 参加者
- 広野、塚田、土岐川、中瀬、水野、吉田、佐々木、佐藤、望月
議事内容
今回から新たなメンバーとして、慶応大学の佐々木君が参加してくれました。佐々木君は、総合政策学部の学生で、現在四年生です。将来やってみたい職業として、弁理士を目標としているそうです。若さあふれる考え方で、この会に新たな活気を吹き込んでくれることを期待しています。
今回は「芸術」について議論した。芸術という言葉で、始めに連想するのは、絵画であろう。もちろん音楽や詩なども芸術と深く係わってはいるけれども、芸術と絵画との結び付きは強そうだ。学校の教育にしても、美術の授業では、そこで扱われるものの多くが絵画との係わりである。そして、美術の言葉が示すように、芸術と美とは深い結び付きがありそうだ。
私達は、日常様々な芸術作品と言われるものに接しながら、その評価として、そこに表現された芸術作品として共通に持つであろう本質的なものには余り価値を見いださず、その作者の知名度によって善し悪しの判断を下してしまうことが多いのではないだろうか。キュービズムの代表としてのピカソの絵のように、普通の人にとっては、とてもよい絵とは思えないようなものでも、ピカソという名の元に、その絵に価値が置かれていることもある。もっとも、その道の人がみるとピカソの絵にはある思いが込められた素敵な絵としての価値があるのではあろうけれども。
こう見てくると、芸術というものが、単に形態的な美だけに価値が置かれるのではなく、芸術家という一人間を通して表現される何かが込められているのであろう。それではその何かとは一体何であろうか。
このことを考える前に、芸術の基本は、それが、人工的に作られたものに対する評価であるということである。もちろん、砂丘に描かれた波紋や岩山の造形美等、自然は様々な形の美を生み出しているけれども、それらを我々が呼ぶときには、自然の芸術というふうに、自然という修飾語を加えている。芸術は、人工的なものではあるけれども、そこには、自然が作りなす様々な美とどこかしら相通じるものがあるのではないだろうか。
様々な花にみられる色彩の鮮やかさ、夜空を飾る星の輝き、澄み渡る空を貫くアルプスの風景など、多くの人は、そこに演出された自然の美しさに感動し、心ときめかすのではないだろうか。その感動と心のときめきは、私達が、素晴らしい芸術作品に出会ったときに感じる感動と心のときめきと同じもののような気がする。そして、そのときめきの根源には、森羅万象の中を貫く宇宙生命の存在を感じるのである。芸術とは、芸術家が、自身の心の中に展開する宇宙生命を表現することなのではないだろうか。そして、その宇宙生命の躍動を、捉えようとして捉えきれないながらも、捉えようとする営みの結果として、芸術と言われる作品が生まれてくるように思える。
作品を生み出そうとして生み出しているのではなく、自身の心の中にあるもやもやとしたものを、その作品を通してより明らかにしようという営みが秘められているように思える。その営みがあるからこそ、生み出された作品には、生命が宿り、多くの人の心を打つものとなって現れてくるのではないだろうか。そして、このようにその作品の中に悠久なる生命が込められているからこそ、その作品を見る者の心に柔軟に答えてくれ、見る者に感動を与えるのであろう。
また、その悠久な生命は、今を生きる人々の多くが無意識ながらも求めているものであるけれども、多くの場合には、その悠久なる生命は、世俗的な価値観の元に深く押し付けられているため、普通の人には見えにくい状態になっているのであろう。しかし、芸術家には、世俗的な価値観を越え、悠久なる生命の営みと絶えずコミュニケーションをはかりながら、その作品を通して、悠久なる生命を捉えようとしているように思える。それが故に、今を生きる人達にとっては、今を生きる芸術家によって生み出された作品に、素直に心を傾けることが出来ないのかも知れない。芸術作品と称せられるものの中には、その作品が生み出された時代から、ある時期を経てから人々に受け入れられて行くということがまま起きてくるが、芸術家によって表現される悠久なる生命の表現形態が、今を生きる人達より一歩先の時代を走っているのではないだろうか。
芸術と呼ばれるものは、絵画に限らず、彫刻や建築と言った造形技術、音楽に代表される音響芸術、詩や小説と言った言語芸術、そして、舞踏や能など表情芸術と呼ばれるものまで様々なものがあるが、それらを共通に貫いているものは、人々の心に共に宿る宇宙生命なのであろう。
これらの様々な芸術と呼ばれる形態を見てみると、その多くが、視覚、聴覚、触覚と係わるものであり、臭覚や味覚と係わるものに対して芸術と表現されることはほとんどないことが分かる。視覚、聴覚、触覚が、言葉と深く係わる認知形態と係わっているのに対して、臭覚や味覚は、主として動物的感性と係わり、味や香りを言葉と同じようにコミュニケーション手段として用いたり、それらを意識化して、何等かのシンボルとして結び付けたりすることを、これまで人類はほとんどなしてこなかったことと関係がありそうだ。すなわち、視覚、聴覚、触覚は、人間の意識と深く結び付いており、それが故に、これらの感覚に訴えるための様々な表現形式を生み出してきたのではないだろうか。
これらのことを考えると、芸術が、単に美的感性だけを表現したものではなく、そこには人間の意識された認識と係わる心模様が表現されていることが前提としてあると言えるのではないだろうか。そして、香りや味に対しても、これらがよりはっきりと意識化され、それを表現するための技法が開発されてくるならば、いずれは、臭覚や味覚と係わる芸術が生まれてくるものと考えられる。
人間の心の根底にある真・善・美と芸術とは一体どの様な係わりがあるのであろうか。また、数学者、科学者にみられる創造性と芸術との間には何等かの係わりがあるのであろうか等々、これらの問題に関し、次回もう一度議論することにしました。
次回の開催を10月29日(水)とした。
以 上
- 新しい記事: 第57回 「芸術」
- 古い記事: 第55回 「善と悪」