- 2005-04-09 (土) 2:03
- 1997年レポート
- 開催日時
- 平成9年10月29日(水) 14:00〜17:00
- 開催場所
- KDD目黒研究所
- 参加者
- 広野、鈴木(智)、土岐川、山崎、桐、水野、吉田、ラジカル鈴木、佐々木、内田、下山、望月
議事内容
今回から新たなメンバーとして、下山さんと内田さんが参加してくれました。下山さんは、グラフィックデザインを仕事にしており、趣味は映画観賞、文化人類学的なことに興味を持っているとのことです。内田さんは、慶応大学環境情報学部4年生のお嬢さんで、将来は、臨床心理学の分野で仕事をしたいとのことです。二人の新鮮な意見が、新しい風をもたらしてくれるものと期待しています。
今回は、前回に引続き芸術について議論した。絵画芸術の道を四十年近く一筋に生きられている桐さんから、芸術とは技であり、その源には、宇苗生命と係わる心が秘められているという実感の込められた意見があった。そして、技を議論することよりも、なぜ人間は心の世界を外の世界に表現しようとする衝動にかられるかの方に関心があるとの意見も併せて述べられた。なぜ、人間は心の世界を表現したいという衝動にかられるのかという議論は、奥が深く、これだけでも相当の議論が生まれてこよう。そこで、今回は、この議題にはあまり深く触れず、芸術に関してさらに議論を重ねた。
芸術の基本には、表現する自由というものが横たわっているように思える。人から頼まれたからとか、お金になるからとかいった打算的なものがある中で表現していくのではなく、自身の心の世界で生まれてくる漠としたものを、飾らずに表現する営みの中から芸術作品は生まれてくるようだ。その漠とはしているけれども、そのものをできるだけ自身の心と一体となるように表現する技が芸術なのかも知れない。
その芸術を用い芸術作品を生み出す営みには、それを表現する芸術家の人間性が深く係わっている。芸術家の心の中に、何かを表現しよう、あるいはせざるを得ないという衝動がない限り、人は表現しようとする行動はとらないであろう。人間の心の中に、あるエネルギーが生まれているからこそ、そのエネルギーが、芸術家をして外の世界に表現しようという衝動を起こさせているのである。
では、そのエネルギーとは一体何なのであろうか。それは、普通の人達が、自分の考えを何等かの形で外の世界に表現したいという衝動と同じ源に端を発しているようにも思われる。ただ、芸術家の場合には、その衝動を起こさせているエネルギーが、普通の人よりも高いのであろう。
普通の人達は、その衝動を他者との語らい等によって、発散させているのであるが、芸術家といわれる人達は、単に語らうことでは語り尽くせないものを、芸術作品といわれるものに表現しているらしい。桐さんは、自身の表現を、他者の存在を全く考えない状態で表現しているという。この絵を誰かが見てくれるとか、誰かに共鳴してもらおうとかといったように、第三者を念頭に描いていることは全くないという。
それでは、芸術家をして、表現させようとしているその心の衝動の正体は一体何なのであろうか。これからは望月の個人的意見に片寄ったものになってしまうが、その正体は、芸術家の無意識の世界にあるまだ確立されていない自己ではないだろうか。万人、自分という意識せる自我の他に、無意識の世界の中に、まだ意識されない自己を抱いている。その自己は、自我の確立がそうであったように、自己の確立を心の底から望んでいるのである。しかし、私達は、普段目先のことだけに意識が係わり、ついこの無意識の心からの呼掛けを無視してしまうのであるが、芸術家は、この無意識からの自己の確立への欲求を人一倍強く感じているのではないだろうか。その呼掛けは、意識の世界では、何かがうごめいている、はっきりとはしないけれども心の奥の方でしきりにうごめく何かとして感じられるのであろう。その何か分からないものをはっきりとさせようとする営みが、芸術作品を生み出す源になっているように思える。
それは、誰もが心の奥で望んでいる悠久な生命との邂逅、それを仏法の世界では悟りと呼ぶのかも知れないけれども、その邂逅を暗黙の内に求めて行っているのが、芸術活動であるように思える。それは、悟りを求めて、禅修行憎が公案に必死で取り組んでいる姿とどこかしら合い通じるところがあるように思える。
芸術の誕生は、赤ちゃんの時からすでに芽生えているのかもしれない。何かにおびえ、お母さんを求めて泣くその表現は、赤ちゃんの無意識の世界に横たわる母なる大地、悠久なる生命を求めての表現のように思えてくる。あの泣くという表現こそ、人類が最も始めに体験する自我と自己とのコミュニケーションなのかもしれない。
デザインと芸術を比較してみると、デザインは、ある人が表現したいと思っている事柄を、変わりに表現して上げるというプロセスがある。そして、そのデザインは、今を生きるできるだけ多くの人に受け入れられることを目的としているが、芸術は、それを描く芸術家の心の遍歴であり、必ずしも万人に受け入れられるものではないかも知れない。芸術家の心の遍歴が、深まれば深まるほど、その芸術作品は、自我の世界だけで生きている人達には、理解し難い作品として映ってくるのかも知れない。ニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」の始めに、誰でも読めて、誰にも読めない本という表現があるが、まさに、芸術の深みは、その辺にあるように思える。ただ、小説と違い、絵画や音楽などは、知的な世界を飛び越えて直接、見る者、聞く者の無意識の世界に入り込むことが多く、感性豊かな人には、芸術家の表現したものに、理屈なく感動することが出来るのであろう。
芸術は、先に技であると述べた。それが技であるからこそ、自己を求めての営みとしての芸術表現には、芸術家の持つ技の限界がある。それは、山頂を目指して登る登山家の技量と似たところがある。どんなに山頂まで登ろうとしても、技量が追いっかなければ、途中までしか登ることはできない。芸術家の限界は、技量の限界でもあるようだ。
いずれにしても、芸術家が目指すものは、芸術という技を用いて、自身の無意識の世界に横たわる悠久なる生命との邂逅なのであろう。そのプロセスの中から生まれてきたものが芸術作品と言われるもののように思える。もちろん、世間でいわれる芸術作品や芸術というものは、それほど厳格なものではないであろうが、時の流れの中で、生き生きと生き続ける生命を帯びた芸術作品は、その作品を生み出した芸術家の、悠久なる生命への憧れが表現されているからこそ、今を生きる者の心に感動をもたらす力が秘められているのではないだろうか。
次回の開催を12月5日(金)とした。
以 上
- 新しい記事: 第58回 「働くとは」
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