- 2005-04-09 (土) 22:49
- 2002年レポート
- 開催日時
- 平成14年1月28日(月) 14:00〜17:00
- 開催場所
- 東京ウィメンズプラザ
- 参加者
- 広野、塚田、西山、山崎、桐、下山、西村、松本、望月
討議内容
今回は不安について議論した。最近のニュースを見たり、聞いたりするにつけ、不安という言葉が目立つ。生活不安、老後の不安、結婚不安、子育て不安、病気に対する不安、雇用不安、政治不安、治安不安などなど、様々な不安がここ数年の間に高まってきている。確かにこれらの不安は、経済の不安定さが大きく係わってきてはいるけれども、その陰で、高度な成長を遂げる中で見失われてしまった目的や、有り余る情報などが複雑に絡み合う中で生まれてきているように思える。
その不安を改めて考えてみると、一つには、時代の流れがあまりにも早すぎて、経験とか技術といったものの有用性が長続きしない時代になってきていることがあげられよう。特に今の若者も含めて、老後の不安といったものが高まっているが、それは、三世代、四世代が同居していた時代ではあまり起こりえなかった不安ではなかろうか。家族が一緒に働きながら、ある年齢がくると、子供や孫達が、高齢者の生活を支え、身の回りの面倒を見ていた。また、高齢者にしても、知恵の神様的な存在にあって、物事を最もよく知った人として尊敬され、大切にされてもいた。それは、10年程前までの企業とも重なり合ってくる。年配者ほど経験を積み、物事の判断や企画などリーダとして最先端で働くことができた。しかし、世の中の流れが早くなり、必ずしも数十年に及ぶ経験を身につける必要もなく新たな技術や知識によってビジネスが成り立っている社会にあっては、高齢者は、単なる邪魔者と化してきてしまっている。それは、まるで、家族が核家族に変化したように、企業という大きな組織体が、若年者だけで形成されるまさに核組織的なものへと変化してきていることであり、家族の抱える高齢者問題も、企業の抱える高齢者対策も、根源には同じ要因がありそうだ。
世の中が、競争という流れの中で、1分1秒を争うその時間が、益々人をせわしく、そして、それだけ本質的な知恵ではなく、表層的な知恵、刹那的知識によって行動させる社会が作られてきてしまっているところに不安の一つの要因がある。忙しく心は動いているにもかかわらず、これといって確かな何かを捕まえることのできない現実がそこにはある。時代がゆっくりと変化しているときには、じっくりと考えるゆとりがあった。そこからはしっかりした知恵の芽が伸びてきていた。その知恵が企業の基盤を作り、インフラを構築してきた。そして、その知恵は、高齢になるに従って、個人の宝、組織の宝として輝いていた。だから、組織の中に、様々な専門家が生まれ、その専門に対して、一言語る哲学があった。しかし、今の時代は、哲学を語れるだけのゆとりがなくなってしまった。皆が皆同じように忙しく動き回り、表層的な知恵だけで議論し、刹那的な生活を維持していくだけとなった。知恵が表層的であるから、それだけ、遠くを見る目が持てず、不安だけが先行してしまう。こんなふうに、現代人の抱える不安の根底には、益々早くなる時間の中で、本来なら伸ばせたはずの知恵の枯渇がある。
不安を生み出す要素の一つに情報化がある。情報技術の発達によって、地球上で起きている様々な出来事を瞬時に見ることができるようになってきた。それは、事件や事故といったニュースだけではなく、最先端技術に関しても、昔なら何十年もの間、ほんの一握りの専門家しか知ることのなかったことが、極めて短時間の間に、社会の中に発信され、共有されるようになってきた。そのことによって、一般生活者は、情報だけは、最先端研究者と同じように豊になる一方で、その情報によって不安にさらされるようになってきた。知らなければ、当たり前なこととして自然に生活できていたのに、様々な病気のことを知り、極めて低い確率で、何十年後かに発病するかもしれない現象を、あたかも、誰でもが今すぐ発病するかの錯覚に陥れてきてしまっている。出産にしても、子育てにしても、昔は、何のマニュアルもなく、ただ、年配者がそばにいて、語り、見守る中での安心感があった。しかし、今の時代は、全てが知識化され、マニュアル化されてきている。そのために、生命の営みが論理化され、生命に秘められたやさしさという愛情がいつしか消え去ってしまった。そして、その豊な愛の中から生まれてくる知恵が育たず、全て知識に頼ろうとすることの中から不安が益々高まってきてしまっている。不安の根源には、愛の欠如と共に、自ら考え、実行することのできなくなった知恵の枯渇がある。
年を取ることに対する恐怖や嫌気といったものは、いつの時代でも存在しているものではあるが、老後どうして生活していこうとか、痴呆症になったらどうしようかとか、病院で植物人間的に生かされてしまったらどうなってしまうだろうかとかいったような不安は、近代社会がもたらした新たな不安である。そこには、近代科学の発展によってもたらされた様々な技術への依存がある。
事故や病気で倒れた人を何とかして救おうとする人間愛が、新たな医療技術を生んできた。その医療は、身近な病気では盲腸による死者をほとんど皆無とし、伝染病を撲滅し、健康な生活をもたらしてくれた。その医療技術によって、昔なら老人病として自然になくなっていった人たちをぎりぎりの線まで技術を駆使して生かすことができるようになった。しかし、その中で、肉体的には生命を維持しながらも、体中に管を巻きつけられ、人間としての尊厳も与えられず、ただ、息だけをしているような形での延命治療が、どれほど多く行われていることであろうか。その延命治療によって、病院のベッドは高齢者によって占められ、家族は、何年も、まともに話のできない状態の中で看病を続けることを義務付けられてしまっている。それらを見るに付け、老後の生活不安というものは、健全な若者達にも広まってきている。まだ、30代、40代の人たちが、老後の生活を憂えながら、長生きすることへの希望をもてなくなっているのも現実なことではなかろうか。そこには、最先端技術だけを追い求め、人間を肉体と精神とに分けてしまう無意識の営みがある。肉体的に生かすことだけが生きることであると錯覚してしまっている技術者達が、あれこれと技術開発を進める一方で、その技術開発に向けられる熱意ほどには精神的な世界での取り組みがなされてはいない。そこには、肉体的な健康維持のために必死で体を鍛えながらも、精神世界を鍛えるすべも意識もない人たちの姿に似た社会がある。
これらのことを考えると、不安の根底には、物や肉体だけに価値を置きすぎた人間社会への反動がある。自然のリズム、社会のリズムを感じ取る感覚の低下、感性の低下、それらが、結局は、暗黒の世界に放り投げられたような不安を生み出しているのかもしれない。そして、それらの不安は、人類に共通な不安として、時として、極めて気持ちの悪い夢となって現れてくることがある。これらの不安の根底には、人間として本来なさなければならないことをなしていないことへの無意識の呼びかけがある。益々早まる時間、短時間で生まれては消えていく様々な情報や技術、そして、せわしなく繰り広げられる競争、これらのものが、人間の持つ知恵の芽を豊に伸ばすという自然の営みとは反し、その芽の上に大きな石を置く営みにもなっていることを無意識の世界が知らせようとしているのではないだろうか。
それでは、不安は人間にとって悪なものなのであろうか。これまで議論されてきた不安には、死後の世界への不安、年取ることへの不安、病気に対する不安、そして生きる目的の見えない不安など、いつの時代にあっても決して消え去ることのない不安がある。その不安を少しでも解消しようと、医学が発達し、健康食品が開発され、長生きすることへの努力がなされ、刹那的な快楽を提供する様々な娯楽が生まれてきた。しかし、これらの営みは、不安を外から眺め、全て物や情報によって解決しようとする他力的な取り組みであり、自らその不安の中に飛び込んでいって解決しようとする自力的な取り組みではなかった。現代社会が抱える数々の不安は、結局は、我々人間が、その不安の源に真摯な気持ちで対峙していないところから生まれてきているように思える。
我々の命を育み、人間へと進化させた自然は、不安をもって、人間のさらなる進化の道しるべとしたのではなかろうか。狭き門より入れ、求めよさらば与えられん・・・といった言葉は、一人一人が自ら不安そのものの中に飛び込んでいって、火中の栗を取り出すことを命じている言葉ではなかろうか。そして、その火中の栗こそ、一人一人の中に秘められた知恵の宝物ではないだろうか。世の中が不安に満ちている時代、それは、人々が、その知恵の宝物から益々遠のいていることへの警鐘とも思えるのだが。
次回の打ち合わせを平成14年3月29日(金)とした。
以 上