- 2005-04-09 (土) 22:50
- 2002年レポート
- 開催日時
- 平成14年3月29日(金) 14:00〜17:00
- 開催場所
- 東京ウィメンズプラザ
- 参加者
- 広野、土岐川、山崎、水野、下山、吉野、望月
討議内容
今回は善について議論した。善について考える前に、善と対照的なことである悪、その悪の原点になるかもしれない殺人について考えてみることにした。人を殺すことが一体なぜ悪となるのであろうか。私達は、人を殺すことを、いけないことであると理屈ぬきで思い込んでいるけれども、一体なぜ人を殺すことはいけないことなのであろうか。
我々人間は、人を殺すことは勿論のこと、生きているものを傷つけ殺すことにあまり快い気持ちを抱くことはない。動物達は、縄張りを守るために、食物を得るために、そして、異性を獲得するために戦うことはあっても、人間のように殺しあうことはない。我々人間から見ると、弱肉強食の世界の中で、動物も他の生物を殺していると見えるけれども、それは、動物にとって見れば、木の実をとり、草を食べるのと同じ営みではなかろうか。すなわち、動物達にとってみれば、殺し合いという言葉で示される状況が起きてはいないのだ。これに対して、人間の場合には、殺すことだけを目的に殺人が行われてしまう。そこに、我々が理屈ぬきで殺人を悪であると直感する何かが秘められているように思える。
我々人間がいつ頃から死を意識してきたかは分からないが、原始時代の人たちも、今生きている人たちが時として経験するように、身近な人の死に遭遇していた。その時の気持ちは、現代人が感ずる気持ちと同じようなものであったことは間違いなかろう。それまで元気に語り合っていたその人の心、その心が、肉体だけを置いてどこかに行ってしまうのである。それは、不思議なことであると同時に極めて気持ち悪いことでもある。目で見える肉体と、感じあう心とがそのとき初めて分離する。そして、心だけが突如として消え去ってしまうのである。その見えざる心の存在を人類は、人知の及ぶことのない大きな力によってもたらされたものとして畏敬の念を抱いているが、その心を人間の力で奪い取ってしまう殺人に対して、快からぬ気持ちが生まれ、それを悪と感じているのではないだろうか。それと、もう一つ、生命活動の流れとして、生命を維持することには是としての感情が生まれるのに対して、生命を断ち切ることに対しては非としての感情が自然に生まれてくるのではなかろうか。
弱肉強食の世界は、生命活動から見れば、生命を維持しようとする営みであり、縄張りを守ろうと戦うのは、生物にとって生きやすい環境を作ろうとする営みである。鳥達の季節ごとの移動にしても、人類のこれまでの長い移動の歴史にしても、それらは生きていくのに快い場所を求めての活動である。そして、そのことを少し深く考えてみると、そこには、生命を維持するための自然環境との調和を求めようとする生物の活動がある。その調和の世界は、自然環境との係わりという物理的なものだけではなく、生物同士の内面的な係わりもある。棲み分けといわれる生物の行動様態にしても、人間同士の活動にしても、その根底には、生物の内的調和を求めての活動がある。こうして、生命活動は、生命維持のための調和の中で営まれ、進化しているように思える。すなわち、生命活動の根底に流れる力は、生命が維持され、その生命が進化する方向に向かせようとして働いているのであり、生命が維持され、生命進化の方向に向かう営みに対しては快さを感じ、それとは逆行することに対しては不快さを感じさせているのではなかろうか。そして、人間の場合には、自分の心を相手の心に移入するという新たな能力の発達によって、その生命維持の営みを、自分だけではなく、人間は勿論のこと、他の生物に対しても感じるようになったものと考えられる。そのことによって、自分だけではなく、森羅万象の中を貫いている生きんとする力を感じ取り、それを断ち切ることに対して、悪としての感情を抱くのではないだろうか。すなわち、悪とは、自他の区別なく、進化しようとする流れを弱めさせてしまう営みに対して向けられた人間の感情ということである。このことは、逆に、善とは、進化しようとする生命活動に加担する営みであるということだ。
このようなことから判断すると、人を憎んだり、恨んだりという心は、自分自身決して快い感情ではなく、それは、結局は自分自身の生命活動を弱め、自分自身の中に息づいている生命進化の歩調を弱めてしまうことであり、悪ということになろう。これに対して、相手を思いやったり、やさしい言葉をかけてあげたりといったことは、相手の生命活動を高める営みであり、それは善ということになろう。個人的な営みにしても、生きることの意味を考え内省することは、生きようとする生命活動であり、善的な行為であると判断できる。これに対して、自らの手で自らの命を絶つ自殺は、殺人と同様に、悪の世界に入ることになる。
ただ、我々が日常用いる善と悪の言葉の意味する中には、上で述べた根源的な善と悪との他に、人間の作った価値基準によって生まれてくる善と悪とがある。ルール違反、法律違反というのは、まさに人間の作った価値基準を犯したことから生まれてくる悪の行為である。人間の作り出す価値基準の根底には、良心がある。良心は、人間の悪への誘惑に抗して、生命を進化させる方向に向けさせようとする自然の力である。そして、この良心が基本となって、人間は社会規範を作り、常識や法律を生み出してきた。ところが、今度は、その常識や法律が人間の自然な営みまでも枷として働くようになってしまった。表層的な価値基準が、エゴに根ざした価値基準となって、生命進化の本質から外れたものに価値を置く錯覚を生み出してしまった。高学歴への価値、金銭への価値、名声への価値、マスメディアへの価値といった錯覚が、生命進化の方向に歩もうとする人間の本質的な力に蓋をし、悪への道に導いているのかもしれない。現代社会の抱える様々な悪事は、行き過ぎた生命進化への枷への一つの抵抗かもしれない。
善と近い言葉として正義がある。ただ、善が生命活動の根源的なものに根ざした感情であるのに対して、正義は、その善を価値観というオブラートで包んだようなところがある。イスラム原理主義を御旗として正義を語るビンラーディンと、テロリスト撲滅を正義とするブッシュとは、共にその根底では共通の善意識に根ざしているのであるが、その善意識をそれぞれの価値観を基盤として判断するところに正義の断層が生まれてくる。自民族、自国、自宗教といったものだけを正しいとした価値基準の中で善を語るのが正義であろう。正義同士が、互いの価値を基盤に戦ったとしても、互いを傷付け合い、殺し合うことが起きてしまう限り、そこには善も何もなかろう。そこにあるのは、偽善という化粧をしたエゴがあるだけではなかろうか。
以上のことを考えると、善とは、森羅万象の中を貫いている悠久なる生命の生きようとする力を素直に伸ばすことではなかろうか。その力を内に感じ、その心を意識化したときに、その心は善という概念の世界をつくる。そのことを感じるから、人には向上しようという意力が生まれてくるし、本当の自分を覚知したいという自己実現的な欲求が生まれてくる。善とは、自分自身をも含め、森羅万象の中に共通に流れる生命進化の営みを助長する営みではなかろうか。
次回の打ち合わせを平成14年5月29日(水)とした。
以 上
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