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第94回 「美」

開催日時
平成15年11月28日(金) 14:00〜17:00
開催場所
東京ウィメンズプラザ
参加者
広野、土岐川、塚田、桐、山崎、下山、吉野、内田、式井、佐藤、望月

討議内容

今回は、「美」と題して議論した。美とは一体どのようなことなのだろうか。真善美として、古代から人間の抱く価値観としての三つの要素といわれてきたその一つに美があるが、その美とは、一体人間のどのような価値観からきているのだろうか。美と類似する言葉に美しいというのがある。ただ、美しいという言葉の響きから生まれるイメージと、美が醸し出すイメージとはどこかしら異なったものを感じさせる。美しいという言葉が表現するものは、空や海の美しさ、花の美しさ、雄大なアルプスの美しさなど、自然と係わったものや、美しい色合い、美しいリズムといったように、人間が生み出したものに対する美しさ等、自然に対しても、人工的なものに対しても、共に用いられている。これに対して、美という言葉が醸し出しているものは、人間との係わりが深いように思える。美しいという言葉は、人間が自然に感じたまま、それは感性と直接係わってくるのに対して、美の方は、感性と係わりながら、さらに理性的なものと深く係わってきているようだ。

美しいという言葉の示すものは、主観的なものが主体となっているのに対して、美の示すものは、国とか、民族とか、社会とかいった、同じ社会的環境の中に住む人達に共有されている価値観との係わりが強い。美の一つの例証として、美人を取り上げてみると、日本人なら日本人に、フランス人ならフランス人にある程度共有された美人のイメージがある。日本的美人と和服とは良く似合うけれど、フランス的美人に和服はあまり似合わないであろう。それは、文化や風土といったものと深くかかわった社会的価値観が根底にはあるからであろう。ただ、その美人観も、同じ民族、同じ社会の中にあっても時代とともに変化しながら、変化した中で、多くの人に共有されているものではある。日本人の美観として、武士道的なものがあるが、これも、日本人にはある程度美として受け入れられてはいるが、異文化の人たちにとっては、全く異なった価値観を抱かれるかもしれない。アフリカなどに生活している原住民の身体化粧にしても、異文化の人達には美観としては受け入れられないものであっても、彼らにはそれに対して共通した美意識がある。

いずれにしても、美には、人間の価値観が深くかかわっているようだ。そして、その価値観が、時代と共に変化し、民族によって異なっているから、美としての対象物も、時代により、そして民族によって異なってくる。ただ、その一方で、フィギュアスケート、シンクロ、体操といったオリンピック競技に見られる演技、技の中に、民族の垣根を越えた共通の美がある。これらのことを考えてくると、文化や風土によって異なった価値観の元で、美はその価値観に左右される一方で、その根底には、美は美としての人類に共通した何かが秘められているように思える。すなわち、人類に共通した美の元素といったようなものが根底にあって、それが様々な形となって表現されてくる時、その表現されたものに価値観が結びついてきているのではないだろうか。感性と係わる美しさの根底にも、そして、人間の価値観と深くかかわった美の根底にも、共通した美の元素があるように思える。そして、それは、自然ということではなかろうか。

人間も自然の一員なのに、自然と人工という区別がある。自然の営みには、全てのものを統合して全体で一つとした調和の世界がある。ところが、人間の生み出した人工物は、その物のみに意識が働いてしまい、全体との係わりを無意識のうちに切り捨ててしまう。それは、作る者の意識が、自身の無意識の世界に手を伸ばしていないからである。そこには美はない。ところが、武道であるとか、華道であるとか、茶道であるとかいった道と係わった世界においては、人間の意識的営みではあるけれども、それを限りなく自然と融合したものに高めようとする営みがある。それは、人間の無意識に意識の明かりを灯していくことであり、無意識を意識化することの取り組みである。その無意識を意識化した取り組みの中から、技や行動が自然と一体となって表現される世界が生まれてくる。そこには、今まで自然と人間とは別とした世界ではなく、人間の営みそのものが、全てのものと一体となった、全体で一つの世界が表現される。それは、仏教用語で表現すると三昧の世界なのかもしれないが、そこに美を感じるのではないだろうか。そして、そこには、死をも超越した悠久な生命との係わりがある。だから、死生観と美とは深く係わってくるように思える。人間の行動にしても、その行動を促している価値観が、自身の無意識を意識化した後での価値観に基づいたものは、その営みを見る者から美と感じとられるのではないだろうか。

美しいというのは、自然の中に秘められた生命の営みそのものに対して直感的に反応しているのに対して、美とは、人間の意識が自然と一体となった意識へと高められたものを基本にして営まれるものに対する価値評価なのではないだろうか。そして、美は、生まれたままの人間にとっては未成熟な意識、その意識が、自身の無意識の世界に秘められた生命の根源を意識化し、それによって自然と一体となった意識へと高められることへの引力のように思える。

美という漢字は、大きな羊を意味しているらしい。そのことは、羊を糧としていた人類にとって、命を維持することを美と関連付けていたことを意味しているように思える。ふくよかのビーナスを美の女神としたのも、生きる力をそこに表現していたのかもしれない。いずれにしても、美と生命とは何らかの係わりがありそうだし、真や善との係わりについても議論を発展させることができればよかったが、それらについてはまたの機会にすることにした。

次回の打ち合わせを平成16年1月30日(金)とした。

以 上

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