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2003年レポート

第94回 「美」

開催日時
平成15年11月28日(金) 14:00〜17:00
開催場所
東京ウィメンズプラザ
参加者
広野、土岐川、塚田、桐、山崎、下山、吉野、内田、式井、佐藤、望月

討議内容

今回は、「美」と題して議論した。美とは一体どのようなことなのだろうか。真善美として、古代から人間の抱く価値観としての三つの要素といわれてきたその一つに美があるが、その美とは、一体人間のどのような価値観からきているのだろうか。美と類似する言葉に美しいというのがある。ただ、美しいという言葉の響きから生まれるイメージと、美が醸し出すイメージとはどこかしら異なったものを感じさせる。美しいという言葉が表現するものは、空や海の美しさ、花の美しさ、雄大なアルプスの美しさなど、自然と係わったものや、美しい色合い、美しいリズムといったように、人間が生み出したものに対する美しさ等、自然に対しても、人工的なものに対しても、共に用いられている。これに対して、美という言葉が醸し出しているものは、人間との係わりが深いように思える。美しいという言葉は、人間が自然に感じたまま、それは感性と直接係わってくるのに対して、美の方は、感性と係わりながら、さらに理性的なものと深く係わってきているようだ。

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第93回 「生と死」

開催日時
平成15年11月28日(金) 14:00〜17:00
開催場所
東京ウィメンズプラザ
参加者
広野、土岐川、塚田、桐、山崎、下山、吉野、内田、式井、佐藤、望月

討議内容

今回は、「美」と題して議論した。美とは一体どのようなことなのだろうか。真善美として、古代から人間の抱く価値観としての三つの要素といわれてきたその一つに美があるが、その美とは、一体人間のどのような価値観からきているのだろうか。美と類似する言葉に美しいというのがある。ただ、美しいという言葉の響きから生まれるイメージと、美が醸し出すイメージとはどこかしら異なったものを感じさせる。美しいという言葉が表現するものは、空や海の美しさ、花の美しさ、雄大なアルプスの美しさなど、自然と係わったものや、美しい色合い、美しいリズムといったように、人間が生み出したものに対する美しさ等、自然に対しても、人工的なものに対しても、共に用いられている。これに対して、美という言葉が醸し出しているものは、人間との係わりが深いように思える。美しいという言葉は、人間が自然に感じたまま、それは感性と直接係わってくるのに対して、美の方は、感性と係わりながら、さらに理性的なものと深く係わってきているようだ。

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開催日時
平成15年9月18日(木) 14:00〜17:00
開催場所
東京ウィメンズプラザ
参加者
土岐川、塚田、桐、水野、下山、松本、大滝、佐藤、望月

討議内容

今回は、「生と死」と題して議論した。生きとし生きるものには必ず死がある。その死を美しく迎えようとする動きがある。でも美しい死とは一体どういうものなのだろうか。死に美しさというものがあるのであろうか。神風特攻隊として、戦争に散っていった死は美しい死であろうか。三島由紀夫の死は美しい死であろうか。自殺は、美しい死とはいえないという。そして、自分の意志に反して死を迎えることも美しい死ではないという。それでは、吉田松陰の死は、ソクラテスの死は、キリストの死は、美しい死ではないのであろうか。これらのことを考えていくと、死を美しいものにしたり、汚いものにしたりするのは、死に行く当人ではなく、それを見ている第三者的な人の側にあることが分かる。すなわち、死の美醜はともかくとして、死は、評論されるものとしての側面を持っているということだ。それと、私達が、死を美しい死と思うその美しさの中に、死に対峙して、その死をあるがままに迎えることのできるその心に美しさを感じるのではないだろうか。すなわち、私達の死に対する思いの中には、無意識ながら、死に直面しても動じない心に美しさを感じるのではないだろうか。それは、ひょっとしたら、一人ひとりの無意識の中に秘められた不死の願いと重なり合う何かがあるように思える。

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第92回 「無常」

開催日時
平成15年11月28日(金) 14:00〜17:00
開催場所
東京ウィメンズプラザ
参加者
広野、土岐川、塚田、桐、山崎、下山、吉野、内田、式井、佐藤、望月

討議内容

今回は、「美」と題して議論した。美とは一体どのようなことなのだろうか。真善美として、古代から人間の抱く価値観としての三つの要素といわれてきたその一つに美があるが、その美とは、一体人間のどのような価値観からきているのだろうか。美と類似する言葉に美しいというのがある。ただ、美しいという言葉の響きから生まれるイメージと、美が醸し出すイメージとはどこかしら異なったものを感じさせる。美しいという言葉が表現するものは、空や海の美しさ、花の美しさ、雄大なアルプスの美しさなど、自然と係わったものや、美しい色合い、美しいリズムといったように、人間が生み出したものに対する美しさ等、自然に対しても、人工的なものに対しても、共に用いられている。これに対して、美という言葉が醸し出しているものは、人間との係わりが深いように思える。美しいという言葉は、人間が自然に感じたまま、それは感性と直接係わってくるのに対して、美の方は、感性と係わりながら、さらに理性的なものと深く係わってきているようだ。

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開催日時
平成15年9月18日(木) 14:00〜17:00
開催場所
東京ウィメンズプラザ
参加者
土岐川、塚田、桐、水野、下山、松本、大滝、佐藤、望月

討議内容

今回は、「生と死」と題して議論した。生きとし生きるものには必ず死がある。その死を美しく迎えようとする動きがある。でも美しい死とは一体どういうものなのだろうか。死に美しさというものがあるのであろうか。神風特攻隊として、戦争に散っていった死は美しい死であろうか。三島由紀夫の死は美しい死であろうか。自殺は、美しい死とはいえないという。そして、自分の意志に反して死を迎えることも美しい死ではないという。それでは、吉田松陰の死は、ソクラテスの死は、キリストの死は、美しい死ではないのであろうか。これらのことを考えていくと、死を美しいものにしたり、汚いものにしたりするのは、死に行く当人ではなく、それを見ている第三者的な人の側にあることが分かる。すなわち、死の美醜はともかくとして、死は、評論されるものとしての側面を持っているということだ。それと、私達が、死を美しい死と思うその美しさの中に、死に対峙して、その死をあるがままに迎えることのできるその心に美しさを感じるのではないだろうか。すなわち、私達の死に対する思いの中には、無意識ながら、死に直面しても動じない心に美しさを感じるのではないだろうか。それは、ひょっとしたら、一人ひとりの無意識の中に秘められた不死の願いと重なり合う何かがあるように思える。

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開催日時
平成15年7月28日(火) 14:00〜17:00
開催場所
東京ウィメンズプラザ
参加者
広野、土岐川、塚田、中瀬、山崎、下山、松本、井桁、板倉、田中(す)、望月

討議内容

今回は、「無常」と題して議論した。無常という言葉をその意味づらから見てみると、常ならぬということで、自然の営み、人間の営み、ありとあらゆる物が常に変化していて、変わらぬということがない諸行無常ということであるが、無常には、さらに奥深い、人間の心と係わった何かが意味付けられているように思える。単に、太陽系が、銀河系が、そして宇宙が変化しているという物理的な意味での常ならぬということではなく、桜が散り、枯葉が落ちるその営みの中に、家族、知人、そして自身の生命の限りあることに無常を感じとっている。自分と物とが別という主客別々のかかわりの中で変化を見ているのではなく、桜を散らせるその場の中で、自身と散り行く桜とを重ね合わせた主客同一の世界がある。生あるものが、変化することの中に、自身の生命の限りあることを重ね合わせながら、無常を感じ取っているのである。

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第91回 「豊かさ」

開催日時
平成15年11月28日(金) 14:00〜17:00
開催場所
東京ウィメンズプラザ
参加者
広野、土岐川、塚田、桐、山崎、下山、吉野、内田、式井、佐藤、望月

討議内容

今回は、「美」と題して議論した。美とは一体どのようなことなのだろうか。真善美として、古代から人間の抱く価値観としての三つの要素といわれてきたその一つに美があるが、その美とは、一体人間のどのような価値観からきているのだろうか。美と類似する言葉に美しいというのがある。ただ、美しいという言葉の響きから生まれるイメージと、美が醸し出すイメージとはどこかしら異なったものを感じさせる。美しいという言葉が表現するものは、空や海の美しさ、花の美しさ、雄大なアルプスの美しさなど、自然と係わったものや、美しい色合い、美しいリズムといったように、人間が生み出したものに対する美しさ等、自然に対しても、人工的なものに対しても、共に用いられている。これに対して、美という言葉が醸し出しているものは、人間との係わりが深いように思える。美しいという言葉は、人間が自然に感じたまま、それは感性と直接係わってくるのに対して、美の方は、感性と係わりながら、さらに理性的なものと深く係わってきているようだ。

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開催日時
平成15年9月18日(木) 14:00〜17:00
開催場所
東京ウィメンズプラザ
参加者
土岐川、塚田、桐、水野、下山、松本、大滝、佐藤、望月

討議内容

今回は、「生と死」と題して議論した。生きとし生きるものには必ず死がある。その死を美しく迎えようとする動きがある。でも美しい死とは一体どういうものなのだろうか。死に美しさというものがあるのであろうか。神風特攻隊として、戦争に散っていった死は美しい死であろうか。三島由紀夫の死は美しい死であろうか。自殺は、美しい死とはいえないという。そして、自分の意志に反して死を迎えることも美しい死ではないという。それでは、吉田松陰の死は、ソクラテスの死は、キリストの死は、美しい死ではないのであろうか。これらのことを考えていくと、死を美しいものにしたり、汚いものにしたりするのは、死に行く当人ではなく、それを見ている第三者的な人の側にあることが分かる。すなわち、死の美醜はともかくとして、死は、評論されるものとしての側面を持っているということだ。それと、私達が、死を美しい死と思うその美しさの中に、死に対峙して、その死をあるがままに迎えることのできるその心に美しさを感じるのではないだろうか。すなわち、私達の死に対する思いの中には、無意識ながら、死に直面しても動じない心に美しさを感じるのではないだろうか。それは、ひょっとしたら、一人ひとりの無意識の中に秘められた不死の願いと重なり合う何かがあるように思える。

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開催日時
平成15年7月28日(火) 14:00〜17:00
開催場所
東京ウィメンズプラザ
参加者
広野、土岐川、塚田、中瀬、山崎、下山、松本、井桁、板倉、田中(す)、望月

討議内容

今回は、「無常」と題して議論した。無常という言葉をその意味づらから見てみると、常ならぬということで、自然の営み、人間の営み、ありとあらゆる物が常に変化していて、変わらぬということがない諸行無常ということであるが、無常には、さらに奥深い、人間の心と係わった何かが意味付けられているように思える。単に、太陽系が、銀河系が、そして宇宙が変化しているという物理的な意味での常ならぬということではなく、桜が散り、枯葉が落ちるその営みの中に、家族、知人、そして自身の生命の限りあることに無常を感じとっている。自分と物とが別という主客別々のかかわりの中で変化を見ているのではなく、桜を散らせるその場の中で、自身と散り行く桜とを重ね合わせた主客同一の世界がある。生あるものが、変化することの中に、自身の生命の限りあることを重ね合わせながら、無常を感じ取っているのである。

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開催日時
平成15年5月30日(火) 14:00〜17:00
開催場所
東京ウィメンズプラザ
参加者
塚田、鈴木(智)、山崎、下山、内田、松本、吉野、徳留、板倉、田中(す)、加賀山、望月

討議内容

今回新たに二名の方が参加してくれました。田中さんは、長年勤められた銀行を50歳を機に辞められ、現在は、循環共生社会システム研究所というNPOで働いていらっしゃいます。研究所のある京都市と、お住まいの埼玉県岡部町との間を行き来する生活だそうです。加賀山さんは、KDDそしてドイツテレコムと通信会社で勤められた後、40歳を機に、サラリーマン生活を終わりにして、現在は、翻訳作家として活躍されています。すでに翻訳して出版された本が10冊以上となっているとのこと。50歳、40歳という人生の節目を機に転職され、新たな人生を歩み始めたお二人が、新たな視点から議論に参加されることを期待しています。

今回は、「豊かさ」と題して議論した。豊かさという言葉によって浮かび上がってくることは、物の豊かさ、心の豊かさである。戦後の復興から這い上がり、物質的豊かさをひたすら求めて走り続けてきた日本人にとって、バブル崩壊前頃から、物の豊かさから、心の豊かさというという変化が言葉となって生まれてきた。物の豊かさの中に幸せがあるとして、ひたすら物の豊かさだけを追い求めてきた日本人にとって、物だけでは満たすことのできない何かがあることに気付いてきた。その何かが、心の豊かさを求める動きとなって表面化してきた。しかし、心の豊かさとは一体どのようなものなのだろうか。

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第90回 「存在」

開催日時
平成15年11月28日(金) 14:00〜17:00
開催場所
東京ウィメンズプラザ
参加者
広野、土岐川、塚田、桐、山崎、下山、吉野、内田、式井、佐藤、望月

討議内容

今回は、「美」と題して議論した。美とは一体どのようなことなのだろうか。真善美として、古代から人間の抱く価値観としての三つの要素といわれてきたその一つに美があるが、その美とは、一体人間のどのような価値観からきているのだろうか。美と類似する言葉に美しいというのがある。ただ、美しいという言葉の響きから生まれるイメージと、美が醸し出すイメージとはどこかしら異なったものを感じさせる。美しいという言葉が表現するものは、空や海の美しさ、花の美しさ、雄大なアルプスの美しさなど、自然と係わったものや、美しい色合い、美しいリズムといったように、人間が生み出したものに対する美しさ等、自然に対しても、人工的なものに対しても、共に用いられている。これに対して、美という言葉が醸し出しているものは、人間との係わりが深いように思える。美しいという言葉は、人間が自然に感じたまま、それは感性と直接係わってくるのに対して、美の方は、感性と係わりながら、さらに理性的なものと深く係わってきているようだ。

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開催日時
平成15年9月18日(木) 14:00〜17:00
開催場所
東京ウィメンズプラザ
参加者
土岐川、塚田、桐、水野、下山、松本、大滝、佐藤、望月

討議内容

今回は、「生と死」と題して議論した。生きとし生きるものには必ず死がある。その死を美しく迎えようとする動きがある。でも美しい死とは一体どういうものなのだろうか。死に美しさというものがあるのであろうか。神風特攻隊として、戦争に散っていった死は美しい死であろうか。三島由紀夫の死は美しい死であろうか。自殺は、美しい死とはいえないという。そして、自分の意志に反して死を迎えることも美しい死ではないという。それでは、吉田松陰の死は、ソクラテスの死は、キリストの死は、美しい死ではないのであろうか。これらのことを考えていくと、死を美しいものにしたり、汚いものにしたりするのは、死に行く当人ではなく、それを見ている第三者的な人の側にあることが分かる。すなわち、死の美醜はともかくとして、死は、評論されるものとしての側面を持っているということだ。それと、私達が、死を美しい死と思うその美しさの中に、死に対峙して、その死をあるがままに迎えることのできるその心に美しさを感じるのではないだろうか。すなわち、私達の死に対する思いの中には、無意識ながら、死に直面しても動じない心に美しさを感じるのではないだろうか。それは、ひょっとしたら、一人ひとりの無意識の中に秘められた不死の願いと重なり合う何かがあるように思える。

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開催日時
平成15年7月28日(火) 14:00〜17:00
開催場所
東京ウィメンズプラザ
参加者
広野、土岐川、塚田、中瀬、山崎、下山、松本、井桁、板倉、田中(す)、望月

討議内容

今回は、「無常」と題して議論した。無常という言葉をその意味づらから見てみると、常ならぬということで、自然の営み、人間の営み、ありとあらゆる物が常に変化していて、変わらぬということがない諸行無常ということであるが、無常には、さらに奥深い、人間の心と係わった何かが意味付けられているように思える。単に、太陽系が、銀河系が、そして宇宙が変化しているという物理的な意味での常ならぬということではなく、桜が散り、枯葉が落ちるその営みの中に、家族、知人、そして自身の生命の限りあることに無常を感じとっている。自分と物とが別という主客別々のかかわりの中で変化を見ているのではなく、桜を散らせるその場の中で、自身と散り行く桜とを重ね合わせた主客同一の世界がある。生あるものが、変化することの中に、自身の生命の限りあることを重ね合わせながら、無常を感じ取っているのである。

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開催日時
平成15年5月30日(火) 14:00〜17:00
開催場所
東京ウィメンズプラザ
参加者
塚田、鈴木(智)、山崎、下山、内田、松本、吉野、徳留、板倉、田中(す)、加賀山、望月

討議内容

今回新たに二名の方が参加してくれました。田中さんは、長年勤められた銀行を50歳を機に辞められ、現在は、循環共生社会システム研究所というNPOで働いていらっしゃいます。研究所のある京都市と、お住まいの埼玉県岡部町との間を行き来する生活だそうです。加賀山さんは、KDDそしてドイツテレコムと通信会社で勤められた後、40歳を機に、サラリーマン生活を終わりにして、現在は、翻訳作家として活躍されています。すでに翻訳して出版された本が10冊以上となっているとのこと。50歳、40歳という人生の節目を機に転職され、新たな人生を歩み始めたお二人が、新たな視点から議論に参加されることを期待しています。

今回は、「豊かさ」と題して議論した。豊かさという言葉によって浮かび上がってくることは、物の豊かさ、心の豊かさである。戦後の復興から這い上がり、物質的豊かさをひたすら求めて走り続けてきた日本人にとって、バブル崩壊前頃から、物の豊かさから、心の豊かさというという変化が言葉となって生まれてきた。物の豊かさの中に幸せがあるとして、ひたすら物の豊かさだけを追い求めてきた日本人にとって、物だけでは満たすことのできない何かがあることに気付いてきた。その何かが、心の豊かさを求める動きとなって表面化してきた。しかし、心の豊かさとは一体どのようなものなのだろうか。

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開催日時
平成15年3月25日(火) 14:00〜17:00
開催場所
東京ウィメンズプラザ
参加者
塚田、土岐川、内田、下山、井桁、板倉、式井、佐藤、望月

討議内容

今回は、「存在」と題して議論した。我々が存在しているとして感じ取っているものには、物、場、人間など、様々なものがある。その中で、先ず物との係わりとしての存在は、主として、視覚や触覚によって認識している。勿論、聴覚や嗅覚等の感覚によっても物の存在を感じることはできるが、我々の日常生活においては、物の存在を感じ取るのは視覚と触覚とが圧倒的に多いであろう。ただ、それでは一体なぜ視覚や触覚との係わりで物が存在していると感じられるのかを考えてみると、そこには、物を直接感じ取ることのできる認識作用があるように思える。

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第89回 「魅力」

開催日時
平成15年11月28日(金) 14:00〜17:00
開催場所
東京ウィメンズプラザ
参加者
広野、土岐川、塚田、桐、山崎、下山、吉野、内田、式井、佐藤、望月

討議内容

今回は、「美」と題して議論した。美とは一体どのようなことなのだろうか。真善美として、古代から人間の抱く価値観としての三つの要素といわれてきたその一つに美があるが、その美とは、一体人間のどのような価値観からきているのだろうか。美と類似する言葉に美しいというのがある。ただ、美しいという言葉の響きから生まれるイメージと、美が醸し出すイメージとはどこかしら異なったものを感じさせる。美しいという言葉が表現するものは、空や海の美しさ、花の美しさ、雄大なアルプスの美しさなど、自然と係わったものや、美しい色合い、美しいリズムといったように、人間が生み出したものに対する美しさ等、自然に対しても、人工的なものに対しても、共に用いられている。これに対して、美という言葉が醸し出しているものは、人間との係わりが深いように思える。美しいという言葉は、人間が自然に感じたまま、それは感性と直接係わってくるのに対して、美の方は、感性と係わりながら、さらに理性的なものと深く係わってきているようだ。

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開催日時
平成15年9月18日(木) 14:00〜17:00
開催場所
東京ウィメンズプラザ
参加者
土岐川、塚田、桐、水野、下山、松本、大滝、佐藤、望月

討議内容

今回は、「生と死」と題して議論した。生きとし生きるものには必ず死がある。その死を美しく迎えようとする動きがある。でも美しい死とは一体どういうものなのだろうか。死に美しさというものがあるのであろうか。神風特攻隊として、戦争に散っていった死は美しい死であろうか。三島由紀夫の死は美しい死であろうか。自殺は、美しい死とはいえないという。そして、自分の意志に反して死を迎えることも美しい死ではないという。それでは、吉田松陰の死は、ソクラテスの死は、キリストの死は、美しい死ではないのであろうか。これらのことを考えていくと、死を美しいものにしたり、汚いものにしたりするのは、死に行く当人ではなく、それを見ている第三者的な人の側にあることが分かる。すなわち、死の美醜はともかくとして、死は、評論されるものとしての側面を持っているということだ。それと、私達が、死を美しい死と思うその美しさの中に、死に対峙して、その死をあるがままに迎えることのできるその心に美しさを感じるのではないだろうか。すなわち、私達の死に対する思いの中には、無意識ながら、死に直面しても動じない心に美しさを感じるのではないだろうか。それは、ひょっとしたら、一人ひとりの無意識の中に秘められた不死の願いと重なり合う何かがあるように思える。

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開催日時
平成15年7月28日(火) 14:00〜17:00
開催場所
東京ウィメンズプラザ
参加者
広野、土岐川、塚田、中瀬、山崎、下山、松本、井桁、板倉、田中(す)、望月

討議内容

今回は、「無常」と題して議論した。無常という言葉をその意味づらから見てみると、常ならぬということで、自然の営み、人間の営み、ありとあらゆる物が常に変化していて、変わらぬということがない諸行無常ということであるが、無常には、さらに奥深い、人間の心と係わった何かが意味付けられているように思える。単に、太陽系が、銀河系が、そして宇宙が変化しているという物理的な意味での常ならぬということではなく、桜が散り、枯葉が落ちるその営みの中に、家族、知人、そして自身の生命の限りあることに無常を感じとっている。自分と物とが別という主客別々のかかわりの中で変化を見ているのではなく、桜を散らせるその場の中で、自身と散り行く桜とを重ね合わせた主客同一の世界がある。生あるものが、変化することの中に、自身の生命の限りあることを重ね合わせながら、無常を感じ取っているのである。

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開催日時
平成15年5月30日(火) 14:00〜17:00
開催場所
東京ウィメンズプラザ
参加者
塚田、鈴木(智)、山崎、下山、内田、松本、吉野、徳留、板倉、田中(す)、加賀山、望月

討議内容

今回新たに二名の方が参加してくれました。田中さんは、長年勤められた銀行を50歳を機に辞められ、現在は、循環共生社会システム研究所というNPOで働いていらっしゃいます。研究所のある京都市と、お住まいの埼玉県岡部町との間を行き来する生活だそうです。加賀山さんは、KDDそしてドイツテレコムと通信会社で勤められた後、40歳を機に、サラリーマン生活を終わりにして、現在は、翻訳作家として活躍されています。すでに翻訳して出版された本が10冊以上となっているとのこと。50歳、40歳という人生の節目を機に転職され、新たな人生を歩み始めたお二人が、新たな視点から議論に参加されることを期待しています。

今回は、「豊かさ」と題して議論した。豊かさという言葉によって浮かび上がってくることは、物の豊かさ、心の豊かさである。戦後の復興から這い上がり、物質的豊かさをひたすら求めて走り続けてきた日本人にとって、バブル崩壊前頃から、物の豊かさから、心の豊かさというという変化が言葉となって生まれてきた。物の豊かさの中に幸せがあるとして、ひたすら物の豊かさだけを追い求めてきた日本人にとって、物だけでは満たすことのできない何かがあることに気付いてきた。その何かが、心の豊かさを求める動きとなって表面化してきた。しかし、心の豊かさとは一体どのようなものなのだろうか。

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平成15年3月25日(火) 14:00〜17:00
開催場所
東京ウィメンズプラザ
参加者
塚田、土岐川、内田、下山、井桁、板倉、式井、佐藤、望月

討議内容

今回は、「存在」と題して議論した。我々が存在しているとして感じ取っているものには、物、場、人間など、様々なものがある。その中で、先ず物との係わりとしての存在は、主として、視覚や触覚によって認識している。勿論、聴覚や嗅覚等の感覚によっても物の存在を感じることはできるが、我々の日常生活においては、物の存在を感じ取るのは視覚と触覚とが圧倒的に多いであろう。ただ、それでは一体なぜ視覚や触覚との係わりで物が存在していると感じられるのかを考えてみると、そこには、物を直接感じ取ることのできる認識作用があるように思える。

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開催日時
平成15年1月21日(金) 14:00〜17:00
開催場所
東京ウィメンズプラザ
参加者
広野、塚田、土岐川、桐、山崎、下山、井桁、板倉、望月

討議内容

今回は、「魅力」と題して議論した。魅力という言葉は、一体どのようなものに対して用いられているのだろうか。メンバーの中には、主として、人間に対して用いられていると考えている者もいたし、いや、そうではなく、自然や動物も含めた全てのものに対して用いることがあると考えている者もいた。それが、どのような対象に向けて用いられるかはともかくとして、魅力という言葉が醸し出す意味には、人が、なんらかのものに引き付けられるという、ものに秘められた力が感じられる。

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