- 2005-04-09 (土) 22:59
- 2003年レポート
- 開催日時
- 平成15年3月25日(火) 14:00〜17:00
- 開催場所
- 東京ウィメンズプラザ
- 参加者
- 塚田、土岐川、内田、下山、井桁、板倉、式井、佐藤、望月
討議内容
今回は、「存在」と題して議論した。我々が存在しているとして感じ取っているものには、物、場、人間など、様々なものがある。その中で、先ず物との係わりとしての存在は、主として、視覚や触覚によって認識している。勿論、聴覚や嗅覚等の感覚によっても物の存在を感じることはできるが、我々の日常生活においては、物の存在を感じ取るのは視覚と触覚とが圧倒的に多いであろう。ただ、それでは一体なぜ視覚や触覚との係わりで物が存在していると感じられるのかを考えてみると、そこには、物を直接感じ取ることのできる認識作用があるように思える。
例えば、視覚との係わりでは、物の存在を直接イメージできる。触覚に関しても、物に直接触れている感覚から、物の存在を直接イメージできる。これに対して、嗅覚や聴覚との係わりでは、そこに入る刺激を介して、間接的に物の存在を認識している。すなわち、視覚や触覚との係わりでの存在認識においては、刺激から物の存在を認識するプロセスにおいて、イメージが極めて陰の薄い存在であるのに対して、嗅覚や聴覚との係わりで物の存在を認識するプロセスでは、イメージの介在が極めて大きくなっている。勿論、視覚においても触覚においても、嗅覚や触覚と同じように、物の存在を認識する上で、イメージが重要な働きをしているのではあるが、我々の生活が、視覚や触覚との係わりに強く依存しているために、それらによって物の存在を認識するのに、イメージを誘起させるというプロセスが無意識的に行われているからであると考えられる。それは、あたかも母国語での会話は、無意識的に営まれているのに対して、外国語での会話は、表現するための単語を意識的に思い出す努力が働いているのと同じようなものである。
このように考えてくると、物が存在するということは、我々の五感がとらえた刺激が物としてのイメージを生み出し、それを認識しているところから生まれてきていることが分かる。すなわち、(五感での刺激把握)―>(刺激の認識)−>(イメージの創出)というプロセスによって物の存在が認識されていることが分かる。したがって、このプロセスのどれか一つが切れた場合には、物が存在していると感じ取ることができなくなってくる。五感での刺激把握ができない場合には、物自体が存在していないか、あるいは、感覚障害によって刺激が把握できないかであるが、いずれにしても、物は存在していないことになる。次に、五感は正常に刺激を受けてはいるが、その刺激が認識されていない場合がある。それは、同じものを見ていても、ある人には、その存在が認識されていないような場合がこれにあたる。ごみが落ちているのに拾わない人を時々見かけるが、彼らの中には、ごみがあると認識していないので、ごみを拾わないという人がいるとのこと。また、何日も通勤していて、刺激としては入ってきていても、そこにあるものがあったことを全く認識していないこともある。これらは、刺激は入ってきているが、認識機能が働いていないことによって存在していないとされる例である。次に、刺激の認識までは正常にできていても、その刺激が何であるのかイメージできない場合がよくあるが、その場合にも、私達は、具体的な何かが存在しているということが言えなくなってしまう。このように、物の存在を存在たらしめているのは、認識プロセスによっているということが分かる。そして、特に人間の場合には、最後のイメージによる存在認識の割合が高くなっているのではないだろうか。それは、言葉とも深く係わっていて、最後のイメージによる認識能力が発達したから、人間は、言葉によってコミュニケーションができるようになったとも考えられる。物質的な物そのものがその場に存在していなくても、言葉によるイメージによって、その物があたかもそこに存在しているかのような世界を作り上げることができる。言葉によるコミュニケーションは、物の存在認識に関して先に述べた三つの要素の中から、最後のイメージとの係わりだけを取り出して行われていることが分かってくる。
したがって、人間にとっては、存在とは言葉であると言えるかもしれない。言葉と文化ということでよく引用されるものに虹色の種類があるが、日本人にとっては虹は七色というが当たり前であるが、ドイツ人では五色というのが一般的であり、イギリス人にとっては、六色というのが一般的なようであるが、それぞれの民族にとって、言葉によって虹の見え方が異なってくることをこれは表わしている。言葉が増えるということは、それだけ存在物が増えるということであろう。日本人には、雪の種類として、粉雪、ボタン雪といったものしかないが、イヌイットには、十以上もの雪の種類があるという。それだけ、異なった雪が存在しているということになる。言葉が存在であるから、一民族の言葉が失われるということは、その民族の存在が亡くなるということにもなってくる。
存在には、物としての存在の他に、雰囲気であるとか、人の存在感であるとかいったものがある。人の作る雰囲気は、五感を通して入ってくる様々な刺激が基本となって感じられてはいるのであろうが、それだけではなく、五感とは別の感覚が場の状況を感じ取っているように思える。先に述べた物との係わりでは、存在が五感と密接な関係にあったが、雰囲気においては、五感がつかみとる物としてのイメージではなく、その場を構成する人の言葉や表情、行動といったものを総合的に把握することで、その場の雰囲気を感じ取っている。それは、物の存在とは異なるが、確かに存在するものの一つである。
雰囲気と似ているようで、動物にも感じ取れているであろうものに、気配であるとか、殺気であるとかいった気の世界がある。この気にしても、その気を感じ取る感覚が五感以外の感覚として、人間にも動物にも備わっているのであろう。それも、物とは異なるが、存在しているものと感じられるものの一つである。
存在感のある人として感じられ人には、大きく二つのタイプがありそうだ。一つは、見るからに他人とは異なる衣服を見につけ、目立つ態度や発言をすることで、その人の存在を示すタイプと、もう一つは、そういった外観上の目立ちはないのに、その人がいるだけで、存在感を感じさせる人がいる。前者の存在感は、先に述べた物の存在と同じように、他と異なってあるという意味合いが強い。これに対して、後者の存在感は、その人と係わる人の魂に深く影響を及ぼすような何かを放っている。勿論そこには、日常生活の中で、その人と接する中で培われてきた存在感があるが、それは、その人の生き方、態度、思想、雰囲気といった全人格的なものと係わってくるように思われる。そして、その全人格的な存在こそ、一人一人の魂を揺り動かす何かを発していることから生まれてきているのであろう。それは、芸術作品にも似ている。何百年という風雪に耐えながら残っている芸術作品は、その作品に、見る者の心を揺り動かす何らかの力が秘められているから、それを感じ取った者がその作品を大切にしてきたことによるのであろう。
芸術品にしても、物にしても、そこには、確かに存在するものとしての源がある。ただ、それは、人によって異なったものとして受け入れられている可能性がある。同じ赤の色紙を見ても、その赤をある人が感じているような赤色として他の人が感じているとは言い得ないであろう。ただ、その認識は異なっていたとしても、そこに色があるという、色の源を感じ取っている共通な何かが根源に存在しているように思える。そして、その根源的なものがあるから、同じ一つの物に対して、感じ取る色合いや形が個個人で異なっていたとしても、人間としての社会的営みができているのではないだろうか。何かが存在していること、それは、生命の根源的なものに触れていることの感覚なのかもしれない。
次回の打ち合わせを平成15年5月30日(金)とした。
以 上
- 新しい記事: 第91回 「豊かさ」
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