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第122回 「気」

開催日時
平成20年7月25日(金) 14:00~17:00
討議テーマ
開催場所
東京ウィメンズプラザ
参加者
土岐川、下山、大滝、大滝(ち)、矢島、佐藤、望月

討議内容

今回新たに矢島さんが参加してくれました。矢島さんは、関西の大学を卒業された後、フリーターをしばらく続け、現在ベルシステム24で、編集の業務に当たっています。しばらく合気道をやっていたこともあって、気をテーマとした今回の議論に興味があって参加されたとのことです。

今回は、「気」と題して議論した。気と係わる言葉として、気をつかう、気がつく、元気、気力、気分、病気、空気、などなど、日常当たり前につかっているが、さて、その気とは一体何かとなると、捉えられそうでなかなか捉えられないものだということが分かってくる。

合気道をやっていた矢島さんの弁によると、合気道は、力づくで人を倒すのではなく、タイミングや、相手の状態との係わりで、相手を倒す技術で、まさに気を読むというか、気によって相手を倒するのだという。気とかかわる技術に習熟した人は、足の底から気が入り、指先から流れ出ることがわかるし、気の流れを感じると、指先が熱くなってくるのを感じるという。肩こりが気で治ったとか、不治の病が気と係わった治療法で治ったとか、気には通常の知識では図ることのできない力が秘められているようだ。

気を感じる力と、霊を感じる力とは同じなのだろうか。霊感力の強い人は、死者の眠る場所や、昔戦いがあって、多くの人がなくなった戦場などに行くと頭が痛くなったりするらしい。それと同じように、気を感じることの強い人は、ある場所に身を置くと、心がいやされるらしい。大滝さんは、あるとき、山でキャンプをしていて、朝目覚めた時に、木や草花、川といったところから、気が立ち昇っていて、自分の体の中に流れ込んでくることを体験したことがあるとのこと。その時には、体の疲れが一挙に取れて、とても爽快な気分になったという。

アフリカのサバンナに生活している原住民の中には、視力が極めて高い人がいるらしいが、人間には、元々五感にしても、気を感じる力にしても、極めて優れた能力が秘められているのだろうけれど、近代化の波の中で、理性的な力を伸ばしたのとは逆に、人間が本来持っている鋭い感性力を退化させてきてしまっているように思える。

科学の発達は、高度な科学技術をもたらし、その技術によって、私たちの日常生活は便利で豊かなものになってきた。情報と係わる世界を取り上げてみても、高度な通信技術によるインターネットの発達や、携帯電話の発達によって、様々な情報をどこにいても、いつでも取得できるようになってきた。そうした利便性が、科学こそ崇拝すべきものといった暗黙の価値付けをしてしまい、いつしか、科学とかかわった理性的世界だけに関心が高まり、そうした科学では捉えることのできない直感的な世界、気と係わった世界というのが、段々と切り捨てられてきている社会になってきたように思える。

ミヒャエルエンデの『モモ』に表現された時間泥棒たちが奪っていった時間は、まさに科学では捉えることのできない世界、すなわち、ゆったり、のんびりとした世界から生まれてくるもので、相手を思いやる気持ち、じっくりと物事を考える創造性、そして、時空を超越した世界、そうした直感と係わる世界が、理性的世界の台頭によって、我々人間社会から段々と奪われてきてしまっているように思える。それは、ある意味で生命から遠ざかる社会を作っているといえるのかもしれない。

気は気力であるとか、病気といったように、命と深いかかわりを持っているように思える。船が遭難して、長い間漂流している中で、生き残れる人は、気力のある人らしい。それは、夢を抱ける力、美しいものを美しいと感じることのできる感性力、そうした力が豊かな人が、難局に直面しても生き残れる確率が高いらしい。それは、気と生命とが極めて深いかかわりをしているからなのではないだろうか。先に述べたように、気によって肩こりが治ったり、不治の病が快方に向かったりしているという事実は、気と生命との間に深い係わりがあることを物語っている。元々、気はこの宇宙に遍満していて、その気が森羅万象の中をも貫いている。そして、もちろん人間一人一人の体の中をも流れていて、その流れが、宇宙からのエネルギーをうまく吸収しているのであろう。ところが、その流れが、環境や精神的な影響で不自然になるとき、気の流れが乱され、それが病気や肩こりといった、体の不調となって表面化してくるのであろう。論理的なものばかりに価値が置かれてきている昨今の社会情勢は、理性を台頭させ、気と係わる直感的な世界をないがしろにしてきているように思われる。それは、気の自然な流れを乱し、不自然な世界を作っているからなのではないだろうか。精神的不調を訴える人の増加、不安に満ち溢れた社会環境、モラルの低下、尋常では信じられない犯罪の増加などなど、社会が陥っている闇は、元々清らかな気の世界を不純なものにしてきている結果なのではないだろうか。

目先の利便性だけを追い求めるのではなく、そうした利便性から時として自分自身を解放し、静かに自身を見つめることも、これからの時代意識してやっていく必要があるように思える。それは、全てがデジタル化されていく社会の中にあって、アナログ的な世界に改めて意識の目を働かせることでもある。

以上のように、気は生命と係わり、時空を超越してこの宇宙に遍満している何かなのであろう。その気の海の中に、一人ひとりの肉体が、まるで小船のように浮かんでいる。海とうまく付き合うことによって、快適な船旅ができるのであるから、その海の状態をしっかりと知る力を身につけておくことが平穏な航海には必要なことのように思える。

次回の討議を平成20年9月16日(火)とした。       以 上

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