- 2009-08-11 (火) 22:18
- 2009年レポート
- 開催日時
- 平成21年7月31日(金) 14:00~17:00
- 討議テーマ
- 今
- 開催場所
- 東京ウィメンズプラザ
- 参加者
- 土岐川、下山、松本、大瀧、望月
討議内容
今回は、「社会」と題して議論した。社会という言葉で先ず始めに思い浮かべるのは、小学校、中学校で学んだ社会の科目。参加者のほとんどが、数学や理科の科目は、何となく理解ができたのだが、社会の科目にはあまり興味を持てなかったし、理解できなかったようだ。地理や歴史が社会科目の代表だが、地名を覚えたり、年代を覚えたりしても、どうしても、それだけではピンとこない感じがして、なかなかわかった気にはなれなかったというのが皆さんの社会に対する印象のようだ。ただ、そうした幼年時代を経て、だんだんと年を重ねてくるに従って、地理や歴史の根底に流れている全体像が見えてきて、面白さが増してきているとのこと。
地理は、地図という全体像があり、空間の相互関係が分かってこないと、ただ地名を覚えただけでは、地理の内容がなかなか理解できない。同じように、歴史は、年表という全体像があり、時間軸上での相互関係が分からないと年代だけを覚えただけでは理解ができない。そして、地理も歴史も、時間と空間という世界の中で、広い見地から全体を見ることのできる鳥瞰図的な視野が必要になってくる。すなわち、地理や歴史を理解するためには、部分と全体とを同時に見る目が必要であるということだ。数学や理科は、学んでいるそのもの、分数なら分数、力学なら力学という、部分だけに焦点を当てて、とりあえずは理解できる。ところが社会は、部分だけではなく、全体を見ることが要求されるために、地名を覚えたり、年代を覚えたりするだけでは、何だか曖昧模糊とした世界が広がっていたということではないだろうか。
こんな風に考えてくると、全体を把握する能力というのは、ある程度年齢がいかないと発達してこないのではないかと思えてくる。子供たちのしぐさを見ていると、周りを気遣うことなく、部分だけに心がとらわれて、その心がとらえたものに猪突猛進していく。車に気遣うこともなくボールを拾いにかけだしてしまったり、蝶を追いかけて谷に足を滑らせたりと、全体の中で、自分の位置を把握することがまだできていないように思われる。こうしたことを考えてくると、社会科目の理解のしにくさは、どうやら、全体を把握するという能力の発達と微妙にかかわっているようだ。
社会という言葉は、なにも科目だけとかかわっているわけではなく、一般に用いられている社会は、科目とは離れて、人間社会という意味合いでの社会である。ただ、その社会の意味することはともかくとして、社会科目の理解が全体を把握する力とかかわっているように、人間社会を意味する社会が、部分に焦点を当てた論理的なものではなく、全体というある意味とらえどころのない何かであるということは確かなようだ。
社会という言葉と類似的に用いられる言葉として世間であるとか、世の中といった言葉がある。世間ではこうだとか、世の中ではこう言われているとか、世間さまに申し訳ないとか、社会が悪いとか、何だか社会も世間も世の中も、そのものが具体的なものとして存在しているかのようなイメージを抱かれながら用いられている。ところが、いざそうしたものが何であるのか具体的にとらえようとすると、論理の網から抜け出てしまい、とらえることができなくなってしまう。でも、我々の心の中では、社会も世間も、しっかりと存在しているのだ。
蟻や蜂の世界にも社会と呼ばれるものがある。その時用いている社会というものの意味は、蟻や蜂の集団が作り上げている組織的な営みである。それは、巣や集団行動という目に見えた形でとらえることができる。ところが、人間社会に関しては、確かに街並みや人の作り上げた文明などに蟻や蜂の社会と同じような具体的に目に見えるものが存在しはするけれど、それ以上に、世間や世の中といわれるつかみどころのない、目に直接見えないものがある。
蟻や蜂の巣作りにしても、社会行動にしても、遺伝的にはかなり固定されたものらしい。ところが、人間の社会行動は、遺伝的に何らかの本能を抱えていたとしても、それらはかなり柔軟なもののようだ。そして、その柔軟さを生み出しているものと、直接目でとらえることのできない社会の存在とが深いかかわりをしているように思える。狼に育てられた狼少年の生活行動が、人間のものとは似ても似つかないものになっていることを考えると、人間の社会性は、遺伝と結びついた先天的なものと、後天的に育まれたものとに深く依存しているようだ。
ただ、こうしたことを考えると、DNAという具体的な機能とかかわった遺伝とは別な何かが、人間性をはぐくみ、人間社会を作り上げている源となっているように思える。そして、そのことから類推すると、蟻や蜂の社会性にしても、単にDNAというものだけではなく、何か別な力が遺伝とかかわって作用しているように思えてくる。社会というのが、機能であるとか、形態であるとかいった具体的に見えるものではないけれど、確かに存在していることを考えると、科学がとらえるような具体的なもの、それは部分とかかわってくるものであるが、そうしたものではなく、科学ではとらえることのできない全体とかかわった何かでることは確かであるし、その科学でとらえることのできないものこそ、実は、生命体が生きていく上では極めて重要なものなのではないだろうか。
次回の討議を平成21年9月9日(水)とした。 以 上
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