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第30回 「遊び」

開催日時
平成6年4月12日(火) 14:00〜17:00
開催場所
KDD目黒研究所
参加者
古館、山田、広野、徳永、土岐川、鈴木、菅沼、関、望月

討議内容

今回から関様が新たなメンバーに加わって下さいました。関様は、東京外国語大学スペイン語学科の四年生のしっかりしたお嬢様です。スポーツなら何でも好きで、中でも特にスキーが得意だそうです。若々しい感性で、人間文化研究会に新しい風を吹き込んでくれるものと期待しています。

今回は、遊びをテーマに議論した。遊びの定義は様々あろうが、大ざっぱに考えてみると、お金が目的ですることが仕事で、金銭的な目的のないものが選びと言えようか。そして、義務とか、時間とかいったものの束縛がないと言うことも遊びの一つの条件であるらしい。それは自由気ままと表現できようか。

遊びの形態には様々なものがあろうが、カイヨワの考えによると、遊びは、競争、偶然、模倣、目まいの四つに分けられるという。このうち、スポーツなどにみられる競争や、賭事などの主役となる偶然は、他者との係わりの中で、他者からの離脱に喜びを感じるものであり、子供の「ごっこ」遊びに代表される模倣や、ディズニーランドの様々な乗り物にみられる目まいは、自我から離脱するところに喜びを感じるものであるという。しかし、これら選びの表面的な形態だけではなく、その本質をさらに掘り下げて考えてみると、そこには、人間の持つ創造性と何等かな係わりが共通にみられるように思える。

スポーツにしても、単に競争に勝つということに面白味を見いだしているわけではなく、他者の存在を意識しながら、自身の腕を磨く中で、出来なかったものが出来るようになるとか、技がレベルアップするとかいったように、何等かな向上がみられたときに喜びを感じている。それは、自身の抱く夢の実現といえないだろうか。偶然が主体となる賭事にしても、自身のイメージするものが出来ていくことに胸をときめかすのではないだろうか。スポーツ観戦も一つの喜びであり、遊びの部類に入れることが出来るであろうが、その観戦にしても、各選手の妙技に心打たれるということもあろうが、ひいきするチームが勝つことを夢みて、その夢が達成されていくプロセスの中に喜びを感じているように思える。勿論、スポーツ観戦の喜びは、実際その場の中で、多くの人と心を一つにして、自身の心を何物にも拘束されず開いていくところに喜びを感じている面もある。

セスナを操縦していると、離陸から安定飛行に入ってしまうと面白さが軽減されてしまうので、無理やり安定を崩して操縦してしまうという。完成されてしまうと面白さがなくなってしまうという遊びの特徴は、子供の砂いじりや、積木くずしに共通する面がある。常に新しいものを求めることの喜びは、好奇心や、創造牲への願望が複合して現れているように思える。そして、この喜びは、人間をして行動せしめ、それが、人類の社会的な進化となって現れてきたのであろう。

TVを見る娯楽が、果して遊びといえるかどうかは遊びの定義にもよるのであろうが、感覚的には、TVを見るのは、遊びとはどこかしら異なっているように思える。ただ、TVにしても、自身が創造したり、予測したりしながら、自己からの働きかけがあるときには、面白味が倍加し、遊び気分になるようだ。遊びは、受身的なものではなく、自身からの働きかけが不可欠であるように思える。すなわち、受動的なものではなく、能動的なものを含むところに遊びの遊びたる由縁があるように思える。遊びという字は、道を求めて歩むそのプロセスを表現した字であるという。自身の意志で、自身の内なる世界に潜む何かを求めてひたすら歩むそのプロセスに遊びの本質が秘められているように思える。

仕事と遊びとをその心の持ち方らか見てみると、仕事は、緊張した状態から入り、その中で集中していったときに充実感や、楽しみが生まれてくる歩み方をするのに対して、遊びは、弛緩した状態から入り、次第に集中していく中に喜びを感じる。

「かくれんぼ」の遊びにみる遊びの楽しみは、見つけられるかもしれないという危険性と、見つけられないという安全性とのちょうど境にある。遊びの持つ楽しみの特徴の一つは、この安定な日常的なものと、危険性とのちょうど境にあるように思える。先のセスナ操縦の例や、冒険の楽しみもこの危険をはらむ営みの中に快感を感じているのであろう。

遊びといえば「飲む」、「打つ」、「買う」といわれ、これらが、日常の張りつめた精神状態をときほぐす働きがあった。学生生活においても、遊びが、日常の緊張状態を弛緩させる働きがあり、緊張状態と、リラックスした状態とが、生活の中であるリズムを持っていたように思える。しかし、関さんの話によると、最近の学生生活は、日常の中にリラックスした状態が常にあって、日常生活そのものが遊びのような感じがするとのこと。経済的にも、物質的にも恵まれた時代にあって、日常性の中に遊び的な要素が多く入ってきているのであろう。

遊びには、歌会や茶会にみられるように、知的な遊びと、スポーツにみられるような、肉体的活動が主となる遊びとがある。歌舞伎のかけ声のようなものも、タイミングよく行うことがこつであり、それなりの技術を要する知的遊技である。日本人の古来からの遊びの特徴を見てみると、肉体的活動が主となる遊びよりも、粋な遊びと表現されるような、知的遊技が多かったのではないだろうか。それは、先に討議した、場の働きと関係するのであろうが、日本人は、人と人とが作り出す場に鋭い感性を持っていて、禅問答ではないけれども、語らずして語るといったイマジネーションの中に、遊びを感じていたのではなかろうか。俳句にしても、短歌にしても、短い言葉の中に、とてつもない広い世界を描いている。そして、その短い言葉の中に広い世界が描けるのは、それを詠んだ者と、それを聞く者との心の世界に、共通する世界が展開されているからであろう。

日本人の特徴として、余り長い休暇をとらないというのがある。勿論、仕事の中に遊び的な要素があり、あえて休暇をとる必要性を感じていないこともあろうが、働くことに対する義務感と、休みをとることによって、他者から批判の眼でみられたくないといった暗黙の嫌悪感が働いているように思える。皆が休むときには気楽に休めるという感覚の特徴は、このことを物語ってはいないだろうか。この感覚がとれない限り、日本の休暇ラッシュは当分続くように思えるのだが。従来のように、世の中がインフラ的なものを求め、それを構築することが仕事内容の多くであった時代においては、仕事の目的が具体的で、はっきりしていた。そして、そのやり方は、目的達成ということで、全体を同じ方向に向かせる管理と、労働者には、その仕事に携わる義務感が絶えず付きまとっていた。しかし、現在のように、インフラ的なものの構築がかなりのレベルまで達成され、生活者の多くが、物や情報や場を、遊びとの係わりで求めてくる時代にあって、それらをプロデュースする企業側にも、遊び感覚が益々必要になってくるのではないだろうか。

今まで見てきたように、遊びが遊びであるのは、そこに、何等かな知的活動が働いており、それは、人間の知恵を育んでいるのに違いない。そして、遊びを通して、人間は、自身の内に秘められたより人間的なものに邂后しようとしているように思える。遊びの進化は、人間の進化であるともいえるであろう。このような意味から、次回は「21世紀における遊び」をテーマに話し合うことにした。

次回の打ち合せを5月26日(木)とした。

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