- 2015-10-03 (土) 1:01
- 2015年レポート
- 開催日時
- 平成27年9月18日(金) 14:00~17:00
- 討議テーマ
- 「知恵」について
- 開催場所
- 東京ウィメンズプラザ
- 参加者
- 大瀧、望月
討議内容
今回は知恵について議論した。知恵と対比してよく用いられる言葉に知識がある。知識は主として情報と係わり、記憶と係わってくるのに対して、知恵は、情報や記憶とは直接かかわるものではない。むしろ知恵は情報を自ら生み出す力を持ち、創造性と深く係わっているように思える。だから、知識は、コンピュータによって代替できるが、知恵はコンピュータによって代替できないものであろう。
知識と係わる代表的なものは、百科事典のようなものがあげられるが、百科事典にしても、広辞苑にしても、そうした情報は、コンピュータに記憶させることができる。人間が抱くそうした情報は知識としてとらえられる。ところが、知恵は、コンピュータに組み込むことはできまい。それは、知恵が情報そのものと係わっているのではなく、むしろそれまでにはなかった情報を自ら生み出す力であるからだ。
東日本大震災で、津波の被害を受けた小学校の子供たちが、一人ひとりの判断で自主的に避難する訓練を普段からしていたことで、全員無事に避難することができたが、それは、マニュアルという知識による行動ではなく、直面する環境の中で知恵によって臨機応変に対応できたからであろう。知識としてのマニュアルは、与えられた環境に対しては、効力を発揮することはできても、想定外の環境に直面した時には役には立たない。これに対して、知恵は、どのような環境に対しても、臨機応変に行動すべき判断を生み出すことができる。
人工知能(AI)が人間を超えることができるか、という問を耳にするが、それは、知恵をAIによって作り出すことができるかという問でもある。近年、プロの棋士とコンピュータでの対戦をときどき見かけるが、段々とコンピュータが高度化し、プロの棋士をも破るような状況が生まれてきている。これをAIによって生み出された知恵と考えるかもしれないが、よく考えてみるとそれは情報の域を脱し切れていないことが分かってくる。コンピュータの高度化は、可能な限りのマニュアルを記憶させ、時には学習効果を持たせているが、やはりそれは知識の領域を超え、知恵の世界に入ることにはなっていない。
知恵がありとあらゆる環境の中で、取るべき行動を生みだす創造性を秘めているということだが、その知恵が生み出す取るべき行動様態は、感じる力と深く係わっている。たとえば、暑い時には、日陰に入るとか、うちわであおいで涼をとるといった行動も、そこには知恵が微妙にかかわっている。そして、その知恵を活性化させるためには、感じる力がなければならないであろう。暑さを感じなければ、暑さから逃れようとする知恵は働かないし、美しさを感じなければ、絵に描いたり写真を撮ったりという行動は生まれてはこないであろう。知恵は、創造性と係わり、感じる力ともかかわっているということになる。そして、この感じる力をコンピューターにもたせることは不可能であろう。もちろんさまざまなセンサーを駆使して、あたかも感じているような状態を作り出すことはできるであろうが、美しいとか、優しいとか、さわやかといった感性と係わった感じる世界をコンピューターが創り出せるとは思えない。
こうしたことを考えてくると、知恵というのは、人間だけに限られたものではなく、生物全てに内在しているもののように思えてくる。寒くなれば冬眠したり、暖かい地に移動したり、おなかがすいたら獲物を求めて行動したり、敵に遭遇すれば、敵から逃れるすべを考える。こうした生物一般に見られる行動は、その源に知恵が働いているから生まれてくるのであろう。こうした生物の行動は、一般的には本能という一言でくくられてしまうが、それぞれの生物が持つ本能行動は、その源に知恵が働いているということではないだろうか。そして、こうしたことを考えてくると、知恵というのは、生命を維持していく上で不可欠なものであることが分かってくる。
無人島に一人漂着したとして、その人にとって、生きていく上で知識は何の役にも立たないであろう。与えられた環境の中で、生命を維持していくための行動に必要なのは知恵である。同じように、それぞれの生物が、生命を維持していくためにとっている行動は、まさに知恵によって与えられているものであろう。こうして考えてくると、知恵は、人間や動物はもちろんのこと、アメーバーやゾウリムシといった単細胞生物の中にも宿っているということになる。
ただ、そうした人間を含めた生物一般に宿る知恵とは別に、人間には、動物的な生命維持の他に、生きることの意味を求めての知恵がある。生きることの意味が見つからなかったために人生不可解として自らの命を絶つ人もいる。人間の宿命ともいえる生きることの意味を求めようとする心の指向性は、ある意味、人間の本能かもしれない。そして、人間以外の生物は、まさに与えられた本能によって知恵が働き、その本能に生きることが生きることなのだが、人間の場合には、人間としての本能にまだ目覚めていないところに精神的な悩みが生まれてくるのかもしれない。
近年の人間社会は、インターネットの普及によって、情報社会が加速しているが、それは、人間社会、そして人間自身が、知識を第一として生きる時代になってきているということであろう。人と人との直接的なコミュニケーションによって育まれる知恵が枯渇し、知識だけが闊歩する時代は、生命維持からしてみたら危険な社会なのかもしれない。
次回の討議を平成27年11月27日(金)とした。 以 上
- 新しい記事: 第14回≪人間文化研究会≫開催案内
- 古い記事: 第13回≪人間文化研究会≫開催案内