- 2018-08-04 (土) 13:55
- 2018年レポート
- 開催日時
- 平成30年7月27日(金) 14:00~17:00
- 討議テーマ
- 「私」について
- 開催場所
- 東京ウィメンズプラザ
- 参加者
- 下山、大瀧、伊藤(雅)、今野、望月
討議内容
今回、今野さんが初めて参加してくれました。今野さんは、会社を経営されていて、企業に対する様々なコンサルティング業務や新たな企画提案、さらには海外の企業ともかかわりながら、幅広い分野で活躍されています。広い視点から、討議に参加されることを期待しています。
今回は、私について議論した。普段私たちは、自分のことを私と表現しているが、その私が一体何なのかを考えたことなどほとんどないであろう。当たり前のように使っているその私について、いったい何が私なのか考えていくと、なかなかとらえることのできない私が見えてくる。
名前が私なのだろうか、一個の肉体として存在しているこれが私なのであろうか、それとも生まれてからこれまでに蓄積されてきた家庭環境、社会環境、あるいは歴史などでつくられた文化や文明を背負ったすべてのものが私なのだろうか、そうしたものを記憶したものが私なのだろうか。
でも、ほとんどの記憶をなくしてしまった認知症の人であっても、そこには私がある。多重人格者について書かれた本を読むと、今生きている私は、ある人格者であって、それ以外のものではないが、隠されていたほかの人格が出てくるときには、先にあった人格は消え去り、新たに浮かび上がってきた人格が私になっている。こうしたことから推測されることは、どうやら、私は、そうした性格であるとか、記憶であるとか、あるいは文化や社会環境によってつくられたものではないことがうっすらと見えてくる。
心理学の世界で、自分自身を知る意味でつかわれているジョハリの窓というのがある。自分自身も知っていて、他人も知っている自分、これは、先の例でいうと、肉体や記憶、性格とかかわった自分である。次に自分自身は知っていて、他人には知られていない自分がある。これは隠された自分ということになる。三つ目の自分として、他人には分かっているのに自分では分かっていない自分ということで、これは自分では気づいていない性格であるとか、癖といったものとかかわる自分である。最後に自分自身も、他人も分かっていない自分というのがある。この自分は、客観的な世界にも、自分自身の意識できる心の世界にも表現されていない自分であるから、無意識の世界にある自分ということになる。この四つに区別された自分を、一人一人日常の様々な場面の中で、意識的に、そして無意識的に私として感じているのであろう。
こうしたことを考えてくると、私というのは、意識と無意識とにかかわっていて、意識とかかわる時には、記憶であるとか、性格であるとか、趣味嗜好であるとかいった、具体的にとらえられるものをたよりに存在しているのに対して、意識とはかかわらないときには、何となく感じるといった存在のように思える。
それは、川と水との係わりに譬えることができる。水そのものは透明で、静かな時には、その存在をとらえることはできないが、石ころがあったり、魚がいたり、落ち葉が浮かんでいたりすると、そこに水があることが見えてくる。川の存在は、透明な水によって見えてくるのではなく、その川にすむ魚、川を流れる落ち葉、そして川を濁らしている砂やゴミなどによって見えてくる。水は見えないけれど、魚や落ち葉があることで、水の存在が見えてくる。私たちは、その水のような存在を私として感じ取っているのではないだろうか。だから、日常生活の中で当たり前のように使っている私を、改めて議論してみると、性格であったり、記憶であったり、あるいは肉体であったりと、具体的に意識でとらえられるものを私だと思うのではないだろうか。それは、上の喩で、魚や落ち葉を水と思っていることに等しい。
デカルトが「我思う故に我あり」としたその我、それは、記憶であるとか、名前であるとか、肉体であるとか、そうしたものすべてを切り捨てていってもまだ残っている自分、それは思うということと一体となった実在するものあり、それを我としたのではないだろうか。そして、その我こそ、我々が日常当たり前のように使っている私なのではないだろうか。先の水の喩のように、魚や落ち葉や汚れをすべて捨て去って現れてくるものこそがすべての源になっているもの、すなわち水であり、デカルトの我は、その水の存在にたどり着いたゆえのものだったように思える。
魚は動き回るし、落ち葉も揺れ動く、でも、水は変化することなくあり続けている。それと同じように、私を取り巻くものは時間的にも空間的にも変化しているものだ。それは記憶や性格、肉体的なものであり、すべて変化している。でも、私そのものは、水の喩のように、そうした変化には左右されることなくあり続けているものである。そのように、私は時空に左右されないものであり、それは肉体をも超越した存在なのではないだろうか。だから、人間である以上、だれにも同じ心の基盤が等しく流れていて、それを一人一人が私と感じているのではないだろうか。
こうして私について考えてくると、その私の存在が、時間とかかわる今と重なり合ってくる。今はいつまでたっても今なのだが、それは、今ここにというその一点だけにしかない。でも、その一点でしかない今がいつまでも今としてあり続けている。私も、今のこの時点での私そのものなのだが、それは、いつまでもあり続けている私のように思う。性格も、記憶も、時の流れの中で変化していくけれど、私は、時の流れの中で変化せずあり続けているものなのだ。
次回の討議を平成30年9月28日(金)とした。 以 上
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