- 2018-10-06 (土) 21:18
- 2018年レポート
- 開催日時
- 平成30年9月28日(金) 14:00~17:00
- 討議テーマ
- 「怒り」について
- 開催場所
- 東京ウィメンズプラザ
- 参加者
- 下山、大瀧、伊藤(雅)、望月
討議内容
今回は、怒りについて議論した。昨今の新聞記事を読むと、怒りという言葉が目に付く。スポーツ界で起きているパワハラ、産業界で起きているデータのねつ造、地震、台風、大雨洪水などによる自然災害、さらには飲酒運転による交通事故など、こうした社会の出来事を目にし、耳にするとき、怒りの心が湧き起こってくる。
怒りの心は、社会との係わりで起きてくるだけではなく、身近な人との係わりの中で、日常茶飯ごとである。まずは夫婦との間で起きる怒りの心、子供や親に対する怒りの心、友達や近所の人に対する怒りの心、そして、通りすがりの人に対して時として起きてくる怒りの心、こうした怒りは、いったい私たちのどんな価値観や判断に基づいて生まれてくるのだろうか。
一番身近にあって、だれもが体験している怒りの心は、家族との係わりではないだろうか。夫婦、親子、兄弟、といった間に起きる怒りの心は、どんな時、どんな心から生まれてくるのだろうか。親が子供に対してよく怒るのは、うるさい、態度が悪い、挨拶がないといった躾とかかわることが多い。このほかに、危ないことをやってしまう時や遊んでばかりいて勉強をしないときなど、その子の身の安全や将来のことを思って怒ることがある。
夫婦の間での怒りはどうだろうか。掃除をしない、料理をしない、洗濯をしない、気遣ってくれない、思いやりがない、収入が少ない、帰宅が遅いなどなど、自分の抱いている理想や期待通りに行動してくれないことに対する不満が怒りの要因になっていることが多い。
近所の人などとの係わりで起きてくる怒りはどうだろうか。挨拶がない、笑顔がない、無視された、うるさい、協力しないなど、社会的に常識と思われている行動ができていないことに怒りを覚えているように思う。これは、会社組織の中で起きてくる怒りの要因と同じようなものであろう。報告がない、配慮が足りない、気配りがないといったような行為に対して、組織人は怒りの心を起こしやすい。
こうした怒りの要因を考えてくると、そこには、一人一人の抱く欲求、価値観、常識といったものが、心のバロメーターのようにあって、そのバロメーターから外れた時に怒りの心が自然に湧き起ってくることが見えてくる。
ただ、ここで、常識というのは、ほぼ万人に共通なバロメーターであるのに対して、欲求や価値観というのは、個々人で微妙に異なっている。例えば、子供が勉強しないことで怒る場合、そこには、親の子供への期待という欲求と、子供を思いやる愛情とが複雑に混ざり合っているように思う。そして、ともすると、その欲求は、親の我欲的なものから生まれてきていることが往々にして起きてくる。世間に対する見栄であったり、一流の学校に入学して、将来、地位や名声や富を得てほしいといった欲望に根差している場合が多い。
親と子との間での争いが大きな事件になってしまうことが時々報道されているが、子供のためと思ってやっていたことが、子供からしてみたら親のエゴからきているものであったというのはよくあることだ。ただ、それが親のエゴであったとしても、親が子供を思い、怒る心の源には、やはり子供の幸せを願う心が微妙に働いていることは確かであろう。
近所の人や会社内での人間関係などで起きてくる怒りは、常識とかかわるものが多いが、その常識にしても、その基盤には、人を傷つけない、人に対する思いやり、気遣いといったバロメーターがある。そして、そのバロメータを生み出す源には、子供の幸せを願う親心と同じような、人類愛が横たわっているように思える。
禅仏教の世界で怒りを知らしめるための一つの小話がある。川でボートを漕いでいるときに、他のボートがぶつかってきた。振り返ってみて、だれも乗っていないときには、怒りの心は生まれてはこないけれど、人が乗っているときには、怒りの心が生まれてくる。これは一体どういうことなのか。ボートがぶつかってくるという同じ現象に対して、人がいるのといないとで、人の心は異なってくる。そして、その人が乗っている場合でも、相手が本当に心から詫びていて、かえって相手を気の毒に思えるようなときには、怒りよりもほんのりとした愛の心が芽を出してくる。それは、怒りと愛とが紙一重にあるということではないだろうか。
こうしたことを考えてくると、怒りの源には、人類愛が横たわっていることを人は無意識に感じているように思えてくる。そして、その人類愛から外れた行為に対して怒りが生まれてきているのではないだろうか。ただ、その無意識を無意識のままにしているために、怒りは、我欲的なものとなり、感情的なものとなってしまう。その無意識を意識化した時、怒りは、怒りではなくなり、相手を導く道標のようなものになってくるのではないだろうか。
老人になると怒りっぽくなるということがよく言われているが、それは、年とともに、心が我欲的なものに固まってきてしまい、無意識にある愛の世界からだんだんと意識が遠ざかってきてしまうことに由来しているように思える。怒りという漢字は、奴に心が重なり合っている。奴という語は、自由のない下層の使用人を意味している。怒りというのは、心が不自由になっているということでもある。
仏教の言葉に慈悲というのがある。慈はいつくしむ心であり、それはまさに愛そのものである。一方、悲(あわれみ)は、「雷(いかずち)の震う(ふるう)が如く」といわれるように、悪の芽を取り除き、正しい道に導こうとする心であり、それは、怒りと深くかかわっているように思える。
次回の討議を平成30年11月30日(金)とした。 以 上
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