- 2007-08-13 (月) 14:24
- 2007年レポート
- 開催日時
- 平成19年7月27日(金) 14:00〜17:00
- 討議テーマ
- 人間
- 開催場所
- 東京ウィメンズプラザ
- 参加者
- 塚田、土岐川、下山、桐、大滝、小沢、大滝(ち)、望月
討議内容
今回は、大滝さんが、奥様を連れて夫婦で参加してくれました。奥様は、何度かこの人文研に参加したいと思っていたそうですが、仕事の都合上、なかなか参加することができず、やっと参加する機会を得たとのことです。新しい視点から、意見を述べてもらえることを期待しています。
今回は、「人間」と題して議論した。私たちは、日常当たり前のように人間という言葉をつかっているが、その当たり前と思える人間とは一体何かについて考えてみると、なかなか難しい問題を含んでいることが分かる。先ず、人間を考える上で、二つの異なった側面から考えることができる、一つは、生物学的にとらえた人間であり、もう一つは、精神面からとらえた人間である。前者は、生物学が追い求めてきた人間としての定義がある。直立歩行をし、火を使い、言葉によるコミュニケーションをすることのできる生物である。そして、一般的には、チンパンジーとの共通祖先から、漸次的に進化したものであり、万物の霊長として進化の頂点に立っていると考えられている。
人間が万物の霊長であるのかどうか、人間をどんな側面から見るかによってその見方は異なってくる。知覚能力から見るならば、人間にはない能力を、犬や猫、あるいは鳥や魚といったものももっているから、必ずしも、人間が万物の頂点に立っているとは言い難い。人間を他の生物と区別する決定的なことは、環境そのものを自分の力で変えていく能力ではないだろうか。その具体的な結果として、人間以外の生物を見ている限り、何万年、何十万年の間、生物社会は変わってはいない。蟻や蜂の社会は何十万年、何百万年前のものと何ら変わりはないであろう。それは、魚や鳥、さらには人類に一番近いといわれるチンパンジーの社会を見ても、同じことだ。人間だけが、人間社会を年々歳々変化させ、社会環境を変えてきた。そして、その基盤には、問題を見つけ出し、それを解決しようとする意志力、善悪を判断する判断力、言葉によるコミュニケーションを可能にしたり、道具を生み出したりする創造力といった力が横たわっている。そして、そうした力の根源に理性の存在がある。人間は、理性を得たことによって、他の生物と大きく変わる存在になったのではないだろうか。
理性の存在は、今の生活環境をより良いものにしようとする力を与え、たとえゆっくりとした動きであっても、年々歳々人間の生活環境は、変化してきている。そして、その変化の基盤には、理想や夢といったものがある。そうした理想や夢を描けることも人間だけが持つ能力であろう。そして、そうした理想や夢を実現しようと人間は努力してきたし、考えてきた。その理想や夢は、なにも環境を変えることだけに特化したものではなく、宇宙の真理、自然の真理を探究することにも向けられてきた。宇宙はどのようにして誕生してきたのか、人間はどのようにして生まれてきたのか、そうした疑問に答えようと科学が発達してきた。そして、そうした疑問の根底には、生命に対する飽くことのない探究心が秘められているように思う。この宇宙の誕生に対する謎解きも、地球外生物の存在を突き止めようとする営みも、そこには、この宇宙が、そして生命がどのようにして誕生してきたのかという生命に対する飽くことのない探究心が横たわっている。人間に与えられた理性も、結局は、今自分がこうして生きているその生命そのものが一体何なのかという根源的なものへの探究のために生まれてきたものであったとは考えられないだろうか。
人間は、動物と同じように、動物的な肉体を持っているのと同時に、動物にはない精神世界をも抱いている。人間を人間たらしめているのは、この精神世界に他ならない。そして、人間だけが、その精神世界の中で悩み生きている。そこには、人間以外の生物にはない世界がある。その精神世界は、ダーウィンの種の起原が語っているように、単に、突然変異と自然淘汰という偶然によってもたらされたものなのであろうか。それとも、そこには必然的な何かが作用しているのだろうか。この問いを参加者全員に投げかけてみた。ほとんどの人が、偶然によってもたらされたものという意見だった。どちらが真実なのかは、まさに神のみぞ知ることなのであろうが、私(望月)自身には、どうしても、人間誕生の、そして、その精神の向かうべき方向が何らかの必然的な力によって動かされているように思えてならない。水が高きところから低きところに向かって流れるように、生命の進化、そして、人間の誕生も、さらには、人間の抱く精神世界の向かうべき方向も、この何らかの必然的な力によって導かれているような気がして仕方ないのだが・・・・。
大滝(ち)さんは、人間は真理を探究するように動かされているのではないかという。近年の科学の発達は、宇宙物理学にしても、原子物理学にしても、DNAを探究する分子生物学にしても、その目指しているものは、真理の探究であり、その真理の底には、生命への飽くことのない探究がある。古代の王にしても、最後は、永遠の命を求めることに最大の関心を示したといわれている。それは、人間の無意識の中に、永遠の命そのものをすでに秘めていて、それを無意識的に感じているからなのではないだろうか。その永遠の命に対する無意識的な感じが、宗教の世界を生み出し、また科学の世界をも生み出してきたのではないだろうか。
人間だけに特徴的な行為の一つに自殺がある。生きることに悩み、病気に悩み、生活に悩み、などなど、様々な悩みに悩まされて自殺の道を選ぶ人がいる。そこには、未来に対する不安、死に対する恐怖、生きることの意味の不可解さと、それらの基盤には、生と死という問題が深くかかわっている。そして、その生と死の問題が生まれてくる根底には、生と死といったものを超越した悠久の命が横たわっているからなのではないだろうか。
全ての生命体は、その根底に悠久な生命を抱いている。その悠久な生命を抱いているから今を生きることができる。その悠久な生命を無意識的にではあれ感じることができるようになったところに人間の存在価値があるのかもしれない。そして、悠久な生命を無意識に感じてはいるけれども、それを意識化できていないところに、人間の悩みが生まれてきているということではないだろうか。だから、悩むことというのは、人間に与えられた一つの勲章なのかもしれない。その悩みをどうにかして解消したいというところに人間のさらなる成長が秘められているように思える。
人間の悩みは、我欲との係わりから生まれてくるといわれているが、その我欲は、個としての肉体と係わった欲であり、その欲への執着は、悠久な生命を、肉体の消滅と同じものとして、有限なものにしてしまっているのであろう。悠久なものを有限なものと思い込んでしまっているところに人間の悩みの根源があるように思える。そして、人間に与えられた理性は、その悠久な生命を覚知させるための水先案内人の役割として人間に与えられたのではないだろうか。そうした理性を抱きながらも未完成な人間は、悠久な生命と係わる崇高なる世界にひかれる一方で、肉体と係わる我欲に引かれながら、行ったり来たりと心揺れ動かしている存在なのかもしれない。そして、真理を飽くことなく探究していくことの中で、今を生きる自分の生命を育んでいる悠久な生命を覚知する方向へと進化発展していく生命体なのではないだろうか。それは、元々あったものを意識がとらえる営みをシンボル化した、蛇が自分の尾を飲み込むウロボロスのように、無意識を意識化する営みのようにも思えるのだが。
次回の討議を平成19年9月21日(金)とした。
以 上
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