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第33回 「記憶」

開催日時
平成31年1月25日(金) 14:00~17:00
討議テーマ
「記憶」について
開催場所
東京ウィメンズプラザ
参加者
下山、大滝(ち)、望月

討議内容

今回は、記憶について議論した。このテーマは、人間文化研究会で議論するのは初めて。それだけ、議論する余地のない問題だと考えられていたということになる。確かに、記憶というのは、記憶そのものであり、議論する余地などないと普通は考えられるのだが、議論していくにしたがって、記憶の奥深さを感じる思いがした。

 我々は、記憶という言葉によって、学生時代の試験勉強 ― 歴史、英単語の意味、公式 ― や、 友人の名前、タレントの名前、過去の出来事などを連想する。憶えること、憶えておくことというのが記憶の意味ではある。でも、その記憶を少し奥深くまで考えてみると記憶の有り様が不可解なものになってくる。

コンピュータのメモリーとかかわる記憶は、理解できる。そこにはデジタル化された情報が記憶され、必要な時に呼び出されてくる。詳しいメカニズムは分からないとしても、コンピュータが提供してくれるメモリーの有り様はなんとなく理解することができる。それは、記憶されたものと記憶媒体とが一対一の係わりを持っているからである。

ところが、人間の持つ記憶は、それとは異なっている。確かに、脳と記憶は係わっているのだが、では脳細胞一つ一つがコンピュータメモリーと同じような形で記憶をつかさどっているのであろうか。ここで、はたと大きな問題に直面してくる。コンピュータの場合には、画像や文字などによって、記憶されたものを直接目で見たり聞いたりすることができる。ところが、人間の持つ記憶は、人間自身の心の中で感じられているものであって、その感じられたものが言葉や文字などによって外の世界に表現されてくることになる。コンピュータの記憶は、感じる世界がないのに対して、人間の抱く記憶は、まずは心の内で感じ取られるということだ。そして、その心は、他者から覗き見ることはできず、その心を抱いた本人しかわからない。ここに、人間の記憶と、コンピュータの記憶との次元の異なる差があることが見えてくる。

では、人間の場合の記憶は、脳とどのようなかかわりを持っているのであろうか。この点に関しては、脳科学によって、詳しく研究されていて、長期記憶と短期記憶では、活動する脳の部位が異なっていることなど、脳と記憶との係わりはかなり明らかにされてきている。だから、脳細胞が人間の記憶とかかわっていることは確かなのだが、でも、脳細胞が果たして記憶そのものを保持しているのかというのはまだ不確かな点が多い。というのは最近、脳細胞の活性化状態を測定できるMRI技術によって、脳細胞が全く機能していない植物人間と判断された人が、信じられないことに、健康を取り戻し、意識が蘇った時に、植物状態だった時の情景や検査官との係わりをすべて記憶していたという事実が明らかにされてきたからだ(生存する意識 みすず書房 2018年9月)。この事実に直面した医師は、MRIで計測できているのは、意識や記憶を引き出すための細胞の活性化状態であって、意識や記憶そのものは、そうしたものでは捉えることができないのではないかと疑問符を投げかけている。

ノンフィクション作家の柳田邦男が、息子さんの脳死状態に直面した時の模様を「犠牲」という本で語っているが、医師によって行われた診断の結果は脳死状態ではあるけれども、父親が病室を訪れると血圧が突然高くなったりと、身内の存在に応えている事実がある。外からの技術的な計測には、脳が働いていることの現象は現れてきてはいないのに、意識や記憶は働いているという事実は、人間の抱く心、意識、記憶といった内面と、肉体としての脳との係わりに不可解な問題を投げかけることになる。こうした問題に直面するとき、改めて、心が肉体から遊離するという幽体離脱のような心と肉体との係わりがクローズアップされてくる。そして、記憶というのは、脳細胞に記憶されているのではなく、心そのものに記憶されているのではないかと思われてくる。

こうした議論をする前、下山さんは、直感的に記憶は感情とかかわっているのではないかという考えを示していた。すべての記憶がそうだとは言えないが、香りが昔の記憶を蘇らせてくれるというのは、まさに感情、情緒といった世界に刻まれていた記憶が、香りという外からの刺激によって引き出されたということになる。これは記憶の呼び出しであるが、これと反対に、記憶されるものは、外からの刺激、それは五感を通して入ってくる刺激であるが、その刺激をラベルにして、そのラベルの付いた情緒的世界、感情的な世界を記憶として保持することになっているのかもしれない。そして、そのラベルは内と外とを結びつける、すなわち心と肉体とを結びつける働きをしているのではないだろうか。脳細胞の働きはそのラベルとかかわっているように思えてくる。そう考えると、先の植物人間だった人が抱いた記憶も、幽体離脱の現象も理解できてくるような気がする。

記憶は、人間の心に直接刻まれているものだから、肉体を離れてもその記憶は保持されている。そのことを幽体離脱や植物人間に見た心の反応が物語っているのではないだろうか。記憶は心の世界に刻まれていて、その心の世界を見える世界に表現するための機能を脳が果たしているように思える。だから、たとえ脳に障害が起きたとしても、本人の心の世界では、しっかりとした記憶が蘇っているのかもしれない。

こう考えてくると、心と魂との係わり、心と霊との係わり、そして、記憶と前世との係わりなどが何となく議論の土俵の上にあがってくるのだが、このことの議論は、人文研の領域を超えているので、深く立ち入ることはしなかった。また、動物や昆虫の本能と記憶との係わりに関しても、深く議論するまでには至らなかった。

次回の討議を平成31年3月15日(金)とした。       以 上

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