ホーム > 1994年レポート > 第33回 「自由」

第33回 「自由」

開催日時
平成6年9月7日(水) 14:00〜17:00
開催場所
サントリー東京支社
参加者
広野、塚田、徳永、西山、土岐川、鈴木、竹内、中瀬、奥田、久能、佐藤、望月

討議内容

今回から新たに久能様がこの会に参加して下さいました。久能様は、現在産能大学に勤務されており、企業のメンタルヘルスに係わる仕事に従事されています。趣味は版画で、特に仏像を描くのが終始一貫したテーマであるとのこと。新しい角度からのご意見を斯待しております。

今回からは自由をテーマに話し合った。自由ということを考える前に、不自由さが一体どこからくるかを考えてみると、欲求の満たされなさと関係しているようだ。欲求が自身の能力以上に設定されていると、その欲求を満たそうというとらわれによって不自由さを感じる。ただ、設定された欲求が、自身の本心からやりたいものである場合には、それを満たそうとする行動そのものは、自由であるように思える。冒険家や芸術家が、自身の夢にチャレンジしているその心は、自由そのものであろう。ただ、これらの人が、名声や、金銭的なものを目的にこれらにチャレンジしている場合には、それらに心が捕らわれて、不自由な状態になっているのかも知れない。とらわれなき心が、自由を生み出す源のように思える。

ただ、これらの自由さが、本当の意味での自由であろうかという疑問が生まれてくる。自由という言葉は、明治時代に英語のfreedomが翻訳されたものであり、それ以前には、日本には自由という言葉がなかったらしい。我々が議論している自由というものは、西欧の人達が考えているものとどこかしら意味合が異なるように思える。我々が考える自由さは、幸福とか、充実とかいった心との係わりが高く、思想の自由、権利としての自由、身の安全に対する自由といった外界との係わりで生まれてくる自由さとは異なっているようだ。これらは、四方を自然の要塞である海に囲まれ、異民族の襲撃を受けることなく、安全をほとんど空気と同じように受け取ってきた日本人と、絶えず異民族同志の戦いの中で生きてきた大陸民族との基本的な生活の違いの中で生まれてきた考え方が大きく左右しているように思える。

日本人の考える自由というのは、どこかしら仏教との係わりが高く、悟りにも似た気持ちを得ることと係わっているようだ。千日回噂者の修業は、はた目からは肉体的な苦痛を感じるのであるが、修業者にとっては、心の全く自由な境地を体得していくプロセスなのであろう。鴨長明の遁世生活も、世俗社会の煩わしさからの逃避という見方も出来ようが、世俗社会の価値観である地位や名声に対する欲求を捨て、ひたすら自身の内面の中に悟りにも似た境地を求めての行為ではなかっただろうか。世俗社会の煩わしいしがらみから解放され、自然との対話の中から、自身の内面に沸き上がる感性を表現することは自由そのもののように思える。ただ、方丈記を書き残していることが示すように、たとえ世俗社会を離れたとしても、本当の自由という意味では、人との係わりを捨て去ることはできないのであろう。従って、我々が考える内面的な自由には、世俗社会から解放されるという消極的な自由さの他に、世の人々に働きかけるという稜極的な自由さとがありそうだ。そして、そこには、自身の得た自由の境地を、多くの人にも知らしめていきたいという慈悲の欲求があるように思える。

自由というのと気ままというのとでは大きく異なっているように思える。自由というのは、心の奥の方にある生命の力とでもいうのであろうか、創造的な知恵の芽が横たわっていて、その芽を伸ばそうと働きかけ、その芽を伸ばすことが本当の意味での自由な境地と感ずるのであろう。これに対して、気ままというのは、刹那的な欲求を充足させようとする行為であり、それは、我がままということでもあろう。そして、自由さには、人間にしかない知恵との係わりがあるのに対して、気ままや我がままは、どちらかというと、動物的な欲求と係わっているように思える。旅を愛した芭蕉の人生は、気ままや、我がまま的なものではなく、自由そのものではなかっただろうか。そこには、芭蕉の体得した知恵に生ききった姿がある。

現在社会が、企業にしても、個人にしても、お金を第一とした価値観の中で動いており、競争の中で世の中が回転している時代にあっては、我々は、暗黙のうちに時間の束縛を益々強く受けてきているのかも知れない。自由さの一側面として、時間の束縛からの解放というのがありそうだ。

我々がいままでしてきた自由ということについての論議は、西欧人が聴いたら全く分からない自由なのではないだろうか。そこには、論理的な自由さが表現されておらず、ほとんどメンバーの心の中で暗黙のうちに了解しているファジー性の極めて高い内容になっている。ファジー的コミュニケーションのなされている日本人社会の中で、論理的社会の中から生まれてきた自由というものを語ること自体間違っているのかもしれない。元々自由という概念のなかった日本人には、自由とは、心の解放といった、精神との係わりの強いものになってしまうのであろう。外界との係わりの中での束縛の極めて少なかった日本人は、恵まれた人種ではあるが、その一方で、集団との係わりの中で暗黙のうちに育ってきた心の束縛を無意識に感じているのかも知れない。そして、その束縛からの解放が、自由ということと重なりあっているように思える。個人に重きをおいた西欧的社会の中で生まれてくる自由と、集団に重きをおいた日本社会の中で生まれてくる自由とは、紙の表と裏のような関係にあるのかも知れない。

次回の打ち合せを10月28日(金)とした。

コメント:0

コメントフォーム
情報を記憶する

ホーム > 1994年レポート > 第33回 「自由」

このサイトについて
月別アーカイブ
最近の投稿記事
最近のコメント

Page Top