- 2005-04-08 (金) 0:56
- 1994年レポート
- 開催日時
- 平成6年6月24日(金)〜25日(土)
- 開催場所
- KDD鎌倉荘
- 参加者
- 古館、山田、広野、西山、塚田、土岐川、中瀬、竹内、安達、佐藤、望月
討議内容
今回は、人間文化研究会としては久しぶりの合宿を行った。多忙の中11名の人達が参加され、深夜まで激しくまた内容の濃い討議を行うことができました。今回から、新たに安達様がこの会に参加して下さいました。安達様は、土岐川様と同じ職場に勤務されており、30代前半という若いエネルギーに満ちた高青年です。趣味は、人をいじめることだそうですが、その話ぶりから想像するに、鋭い洞察の中から、思いやりのあるいじめをやっているのだと思います。人間文化研究会の中でも、さわやかないじめで論客達を悩ませてほしいと思います。
今回は、性をテーマとして取り上げ、討論したが、性なるものがいかにして生まれてきたのかという、生命進化の観点から問題を捕らえるものから、性と人間といった性と精神世界との係わりから問題を捕らえるものまで様々な側面があり、それだけに問題を一つに絞り込むことが難しく、全員が一つの問題意識の中で議論することができにくいテーマであった。しかし、皆さん、性と人生との係わりが強いだけに、活発な意見が交わされていたことも事実である。
性を具体的な形で定義することは難しいが、議論の中で次第にはっきりしてきたことは、性(セックス)と言う言葉の意味していることが、男性にとっては、主として性交の意味しか持たないのに対して、女性の側からすると、性交は、性のもつ意味世界のほんの一部の事柄であって、恋心を抱いたり、自身のこころが高められたりするといった精神世界のものに大きなウェイトが置かれているということである。もちろん、男性にしても、対女性との係わりにおいて、女性が抱く性の意味世界と同じ様な世界を感じているのであるが、男性にとっては、性という言葉の示すものが、動物的な性交の意味あいとしてとらえがちであることは確かなような気がする。
性が基本になって生じてきている人間社会の傾向として、離婚率の上昇や不倫といった事柄がある。離婚率の上昇は、元々夫婦の間で潜在的に生じていた性格の不一致が、離婚に対する社会的な規範が薄れてきたことにより、具体的な行動として現れてきたことによろう。また、不倫と言われる行いも、その行為そのものは、人間のこころの中に元々ある審美的な欲求から生まれてきているものであり、その行為を人間社会の道徳という規範に押し当てたときに、それは人間の生きる道に背くことであるという判断が下されるところから生まれてきているように思える。
このように考えてくると、性と係わる事柄に二つの世界が係わってきているように思える。一つは、崇高なるものに魅せられる審美的な欲求による行動と、もう一つは、人間の道徳心と係わる、人間社会の中で築き上げられてきたタブー的なものである。そして、多くの人は前者を素直な行動であるとし、後者を因習により歪められた行動であるとする。これらは、突き詰めていくならば、人間のこころの深層にある真、善、美と係わりを持っていないだろうか。美を求めるこころと、書を求めるこころとが、それぞれの持ち分の中で微妙にかかわり合いながら、恋をし、それを不倫と思わせるこころを生み出しているように思える。ただ、不倫という概念を生み出している倫理が、果して宇宙生命といった人間社会の規範を離れた世界からみたときに、人類の歩むべき方向であるか否かは、ここではまだ結論付けないでおこう。
人には、それぞれその人だけが持つ、あるいは、ある人と巡り会うことによって互いのこころが高揚される美点を秘めているのであり、その秘められた美しきものを互いにめでることは決して悪いことではなく、むしろ、それを愛することは、互いのこころをより高きものに導かんとするこころのエネルギーでもあろう。しかし、それが性交と結び付くときに意味あいが少しずれてくると考えられ、生まれてきたのが性に対する道徳的な規範であろう。その道徳的な規範は、時代と共に、そして、地域の慣習によって異なってくるものである。
人にはそれぞれその人の持ち味があり、その持ち味をめでることは、時にはバラの花を愛し、時には、ユリの花を愛するがごとく、美的なものを絶対無二にする必要もなかろう。こころの中では、様々なこころを愛していたとしても、それは特別に倫理の物差しで計られることはない。しかし、一旦性交という事実がつくられると、それは外の世界に表現されたものとしての具象性を帯びてくる。その具象性が、道徳的な規範と係わり、善悪が問われてくるのであろう。それは、離婚寸前の夫婦が、離婚という事実が行われるまでは、たとえ互いのこころは憎しみ合っていたとしても、社会的な道徳規範を全く受けないことと同じである。私たちは、ある規範を自然に生み出し、その規範を越えた場合、それが一つの事実となって白黒が付けられるという社会風土の中で長い時代生きてきたのであろう。その風土が、いま次第に変化しつつあることが、離婚率の増大や、不倫と言われる行為が日常茶飯になっている事実となって現れてきているのであろう。
確かに、私たちは、様々な花の中にそれぞれが秘めている美しさをめでる自由さと同じように、人それぞれに秘められている美しきものを愛し、何等社会的な規範を受けることなく自由に性的充足を得たいという赤肌かな欲求がある。しかし、その赤肌かな欲求の陰で、社会的規範に捕らわれることがなくても、自身の内面深くに宿した何かによって自己反省する自分がいることに気付くことはないだろうか。人類の歴史の中で、社会的競範として性的な道徳律が生まれてきたその陰には、人間が本質的に宿す何かが横たわっているように思える。
これらのことを考えると、私たち人間の中には、個としての生命と、群れの中で新たに生まれてくる生命とをともに内に宿しているように思われる。たとえて表現するならば、モザイクの一つ一つの分子は、その分子だけの持つ個性を持っているが、その個性は、その分子が沢山集まることによって新たに生まれてくる全体像を内に秘めているということである。それはホロニック的な生命活動であると表現することもできるであろう。社会的な規範に左右されることなく、全く赤肌かな個としての生命から生まれてくるものが、人を愛し、性交によってそれを表現することであり、一方でそれに規範を加えているのが、自身でも気付くことのない深層のこころが秘めている群れとしての生命なのではなかろうか。そして、人間が、自身の中に秘められたより崇高なものに近付くためには、この二つの生命をともに活性化せしめることが必要なのかも知れない。愛を恋する愛ではなく、人類愛としてより崇高なものに高めたキリストの「愛」は、人間の中に秘められた二つの生命をともに活性化するためのものであるように思える。
確かに人間の生み出した道徳的な規範が、女性がイメージする性の世界に、ある鋳型を当ててしまっているということは事実であろうが、その規範の生み出された源を考えて見るに、それは単に表層的なものとの係わりで生まれてきているのではなく、先に述べた真善美との係わりの中で、人間のこころの奥に秘められた生命との係わりから生まれてきているように思える。
性交そのものが悪いのではなく、性交のもつ至高性と快楽牲といった二面性の中で、快楽性だけが特出され、それが群れとしての生命に蓋をする営みになってしまうところに問題が生まれてくるのではなかろうか。自己実現に関して研究したマズローは、自己実現者の多くが、性交による至高体験を経験している人達であるという事実を報告している。人間の脳の中に、快感を与える神経としてA10神経があるが、この神経は、性交による快楽と、創造による快楽とをともに結び付けている神経でもある。創造的な脳が活性化しやすい自己実現者にとって、性交による快楽が、創造脳のA10神経を刺激し至高体験となっているとは考えられないだろうか。ただ、この性交による至高体験が、人間の創造脳を絶えず刺激し、活性化するとは考えづらい。そして、性交を至高体験のための営みであると美化する考え方にも、イージーな愛を正当化しようとする無意識の力が働いてはいないだろうか。
異性として意識しない人間愛と、片方で、性交と係わる我欲的な愛とが、一つの頭の中で錯綜していて、本性と受動的に係わりあう快楽の中に、能動的な係わりの中から生まれてくる人間愛の愛を重ね合わせて感じているのではなかろうか。夏目漱石は、「こころ」の中で、その相反する二つの愛を以下のように表現している。
「私はその人に対して、ほとんど信仰に近い愛を持っていたのです。私が宗教だけに用いるこの言葉を、若い女に応用するのを見て、貴方は変に思うかも知れませんが、私はいまでも固く信じているのです。本当の愛は宗教心とそう違ったものでないということを固く信じているのです。私はお嬢さんの顔を見るたびに、自分が美しくなる様な心持ちがしました。お嬢さんのことを考えると、気高い気分がすぐ自分に乗り移ってくるように思いました。もし愛という不可思議なものに両端があって、その高い端には神聖な感じが働いて、低い端には性欲が動いているとすれば、私の愛は確かにその高い極点をつらまえたものです。私は元より人間として肉を離れることのできない身体でした。けれどもお嬢さんを見る私の眼や、お嬢さんを考える私のこころは、全く肉の臭いを帯びていませんでした。」
子孫繁栄のための力として存在していた性交は、それを快感として感じさせることと、その力を生み出す内的力とを内に秘めながら、あたかも春になると花が咲くように、動物の身体の中に発情期としての力を備えせしめているのであろう。そこには、快楽を目的とした性交ではなく、内なるエネルギーによって自然に動かされる営みがある。しかし、人間になって、性交と精神とが微妙にかかわり合い、精神が、性交を促す動機付けに大きく係わってくるようになった。それはあたかも弱肉強食の営みが、自然の営みであり、そこには他者を殺すことに対する罪は微塵もないのに対して、人間だけがもつ戦争や殺人が、罪悪と係わってくるのと同じことのように感ずる。動物的な営みの中に、人間だけがもつ精神が付加された途端、動物的な営みと、崇高さを求める人間の進化の力とが、ある時は重複し、ある時は互いに反発しながら我々の頭の中をかけめぐるように思われる。
動物的な欲求と人間的な欲求とが錯綜していた時代、私たちは、自分達の営む性交に意味付けをしようとしてきた。しかし、性交が、スポーツや他の楽しみと同じ土俵で考えられ、そこに意味付けがなくなってくるにしたがって、人とのかかわりあいが、セックスフレンド的な関係と、崇高なる愛を求めてのかかわり合いとに分離されてくるのかも知れない。そして、セックスフレンド的営みが自由に行える時代になり、快楽としての性交も数多くある楽しみの一つとして考えられるようになるにつれて、性交に対する欲求も昔程には高まってこないのかもしれない。セックスレス時代という言葉が生み出されているその背景には、快楽としての性交と崇高なる愛との錯綜した状態から、人間愛を求めての連れ合いに、恋人の関係や夫婦の関係が変化してきている世の中の流れがあるのかも知れない。そして、この二分極した性の動きの中で、性に対する社会的規範を取り戻そうと、個と群れの生命活動が見えざる壁となって立ち向かっているのがエイズなのではなかろうか。
性の問題としては、同性愛や性転換、老いの性などまだ多くのテーマがあるが、これらの問題については、各自の検討課題として残しておくことにして、性の問題に関する議論は今回で終わることとする。
合宿では、性だけの問題に留まらず、自己実現的な問題や、人間文化研究会のあり方などについて深夜まで活発な議論が行われました。参加されたメンバーの方々には本当にお疲れさまでした。また、今回残念ながら参加できなかった方々には、次回の機会に参加されることを期待しております。
次回の打ち合せは、各人の夏休みを考え、9月7日(水)とした。
以上
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