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第34回 「言葉」

開催日時
平成6年10月28日(金) 14:00〜17:00
開催場所
KDD目黒研究所
参加者
広野、鈴木、関、竹内、奥田、久能、田中、尾崎、西村、木内、藤井、鈴木(ヒ)、ONTA、望月

討議内容

今回新たに7人のメンバーが人間文化研究会に参加して下さいました。田中様は、1921年生まれ、この研究会においては最も年長者ではありますが、いまなお現役で、人間関係研究所の所長をなさっていらっしゃいます。中国各地を転戦し、その中で生と死の境を何度か経験されたそうです。同じく人間関係研究所から尾崎様、西村様も参加して下さいました。尾崎様は30数年間石油関係の会社で働いていたそうです。西村様は、お米の歴史については相当長い間研究をされており、米飯主食文化の良さを広めようと様々な活動をされているとのことです。木内様は、津田塾大学4年生のお嬢様で、やればできると言うポジティブな信念を持っておられ、何事にも生き生きと取り組んでおられるようです。現在は、卒業論文として、外国人労働者、特にフィリピン人の行動について研究されているとのことです。藤井様は、大阪ガスエネルギー文化研究所に勤務されております。好奇心旺盛な方で、何でも趣味にするのが趣味だと言うことです。体力には自信があり、体力年齢としては17才ぐらいだとの評価を得ているとのこと。鈴木ヒロ子様は、日本情報システム・ユーザー協会に勤務されていらっしゃいます。ユングとの出会いが人生において大きな影響をもたらしたとのことで、現在気についての関心が高く、宇宙エネルギーの存在に気付きつつある昨今であるとのことです。ONTA様は、音楽関係の仕事をなさっており、いくつかのコマーシャルソングを歌ったり、外国人の方々とバンドを作って演奏活動をなさっていらっしゃるとのこと。音楽ビジネスにおいて世界一になることが夢とのことです。以上様々な経験と、バラエティーに富むジェネレーションの新しいメンバーの方々が、人間文化研究会に新たなムードを創出され、様々な角度から議論に参加されることを期待しております。

今回は言葉について議論した。日常当り前に使っている言葉も、いざあらためて言葉のもつ働きや、言葉の生まれについて考えてみると、言葉の持つ妙味を感じざるを得ない。言葉が生まれてきたそのプロセスは、はじめは、小鳥がさえずり、動物が鳴くような非常に基本的な発音からなっていたものと推測される。それらは、人間の意識がまだ現在の人間のように成長していない段階であり、ダイレクトに心に影響する外界からの刺激に反射神経的に答えていたものが声となったものと推測できる。その時点では、まだ現在のような意味を持つ言葉ではなく、心の変化そのものを音として発していたのではなかろうか。

人間の声には、意味言葉として表現されるもののほかに、言葉の響きとなって表現されている感性的なものとがある。この両者は普通区別されず、意味だけが意識して感じられていると言うのが日常であろう。しかし、だれしもが感じるであろうように、同じ言葉にしても、それを語る人によって、感じが異なっており、その感じの違いも私達は、無意識ながら意味と同時に感じとっている。脳障害によって言葉を語ることのできなくなった人が、幼児が発するような、それ自体論理的な意味のない声によって、感じたことを表現している例の様に、私達の語る言葉には、意味的なものと感性的なものとが同時に発せられているのである。

外国語によってなされるオペラにおいて、その意味は分からなくても、言葉の響きや抑揚から、心の流れが感じられると言うのも、言葉から感じ取れる重きや抑揚には、民族の垣根を越えた人類共通の何かが意味されているように思える。ベートーベン、モーツァルトなど、クラシック音楽が、民族の垣根を越え、多くの人々の心を打つのも、そこには、意味としての論理以前の人類共通な心に働きかける力があるからなのであろう。

言葉の発達として、感性だけを表現する手段としての言葉から、次第に、人間社会の中で、意味を知らせるための言葉としての進化が起こったのであろう。そして、その進化は、人間の意識を拡大し、その意識は、次第に風土や環境によって異なるものを生み出し、様々な言語が生まれる要因になったものと推測できる。我々の意識だけに心的エネルギーが働きすぎると、我々のコミュニケーションは、意味だけを重要とした機械語に陥ってしまう。その結果として、意味の底にある心を理解しようとすることから次第に遠ざかってしまう。民族が、それぞれの我欲に固執することによって、機械語のみを語り合い、相互の心の理解をできなくさせてしまうことの憂いを、バベルの塔の話は物語っているようにも思える。

我々は、音楽の中においては、民族の垣根を越え、それぞれの心の中にある愛を相互に理解し合うことができる。言葉が、互いの心を理解し合うものとしての働きを求めるものであるならば、我々が進化するにしたがって、我々のコミュニケーションは、禅仏教の極致と言われる語らずとも語る不立文字の世界に近づき、言葉がよりシンプルになってくるのかもしれない。

言葉のもつ力として、一つは、物の存在を表現し、それを他者に知らしめていくという働きと、もう一つは、言葉によって、生きる力を得ると言う言霊的な働きとがある。前者の働きは、日常のコミュニケーションの多くが言葉によってなされていることそのものであり、意味的情報が主たる情報となっているものである。これに対して、後者の働きは、例えば、窮地に陥ったり、何かを実現しようと夢みたりしているときに、必ず成功するんだと言う自身へ語りかける言葉であり、そこには論理的意味あいよりも、弱まりかけていた生命力に明りをともし、新しい力を湧現することのできる力が秘められている。ガンバレ!と言ったようなはげましの言葉も、それ白身、意味情報としてのカを持ってはいるのであるが、それ以上に、人間の心の深層に働きかけ、自分の意志ではなんともしがたい生命力を活性化させる力が秘められている。暗示と言われることも、後者の言葉のもつ力と関係している心理現象なのであろう。

コミュニケーションの中で、言葉の働きは、単にその言葉が意味する辞書的な意味だけではなく、その言葉を話す民族の中で長い時間をかけて培ってきた共通概念なるものをその底に持っている。それは、水面上に見える氷山が、意味的なものであるとするならば、水面下にある見えざる氷山と対応する見えざる情報である。そして、この見えざる情報は、意味的な言葉をキーワードとして検索されたイメージ情報であるとも言えよう。この無意識の世界に蓄積されているイメージ情報があって、初めて言葉は生きた言葉として生命を持つように思える。長い歴史の中で、異民族との融合のほとんどなかった日本人には、豊かなイメージ情報が共有されていて、論理性の欠いた話においても、意味の深いコミュニケーションができるのであろう。これに対して、様々な民族が融合する領域の中で歴史を作ってきた日本人以外の多くの民族においては、この共有できるイメージ情報が豊かではなく、そのために、見える言葉の情報が重要となり、論理性の高い言語となっているのであろう。外国人にとって、日本人の話が理解しにくいのは、日本人が、この見えざるイメージ情報を無意識に期待して語るところにあるように思える。そして、この見えざるイメージ情報を共有している者同志には、言葉は、イメージ情報を心に展開させるためのキーワードであり、シンプルな言葉の真に、言葉では表現できない多くの情報が秘められてるのである。互いの思いをプロセスの中で、感じあっている恋する二人にとって、言葉はあまり必要なものではないのかもしれない。そして、人と人との係わりの中で、馬が合う相性の一つの要因として、見えざるイメージ情報を共有しているということがあるのかもしれない。初対面の時に、日本人の多くは、出身地や出身学校を聞くことをよくするが、その情報によって、自身の心の中に蓄積されたイメージ情報を手がかりに、初対面の人の心の中にあるイメージ情報を推測しているのであろう。そのことによって、互いの心の中に秘められた見えざる情報を知り合い、それ以降の対話をスムーズに運ぶ働きをしているように思える。

人間が考える上で、言葉の存在は大きな働きをしている。我々が考えているとき、意識、無意識に係わらず、多くの場合、我々は言葉を用いているように思える。独り言や、何かを論理的に考えているような場合、言葉を用いていることが多い。ブレーンストーミングによる創造牲の高揚は、言葉の持つ重要な働きであろう。しかし、言葉を用いなくても考えていると言う場合もあり得るのではなかろうか。何か創造するような場合、言葉とは関係のないところで直感的に生まれてきているように思える。これはまだはっきりとした考えではないが、そのように、言葉とは無関係に思える創造活動の深層においても、言葉が無意識に関与してきているのかもしれない。

人類の進化の中で、言葉と道具とどちらが先に生み出されたのかは分からないが、チンパンジーがクルミを割るための道具として石を用いるそのプロセスを見ると、必ずしもそこには言葉が介在しているようには思えない。ただ、チンパンジーがクルミを割るのに石を用いているその石が、即道具であると考えるのは人間の一方的な見方かもしれない。それは、ハチや鳥が、自然の木々を用いて巣を作ることに似ているように思える。それらは、本能的な営みであり、我々の考える創造性とは異なるもののように思える。チンパンジーの石を用いる営みと、その進化とを見ると、言葉の有り無しによって、進化の度合が異なっていることが分かる。言葉の存在は、長い時間かかって生み出してきたノウハウを、短い時間で他者に教え伝えることができる手段を提供する。そして、そのことの中に言葉を用いる人類の進化があり、人類がチンパンジーと異なる歩みをしてきた動物であることの重要牲が秘められているように思える。

このように考えてくると、遺伝子情報としてのDNAが、主として肉体的進化の情報を秘めた情報カプセルとするならば、言葉は、人間社会が作る文化に対しての情報を秘めたもう一つの遺伝子のように思える。そして、言葉が、単に表面的な意味だけではなく、先に述べたような水面下の意味をも含めて持っているところに、言葉は生きており、ある場合には、言霊的力も発揮することになるのかもしれない。

我々が物の存在をどの様にして感じているのかを考えてみると、物の存在を我々が確認しているのは、眼で見、手で触れてみて、時として臭いを嗅ぎ、味を味わってみることによっていることが分かる。しかし、そういう営みを通したとしても、その存在物を我々の精神世界の中に丸ごと移すことなどできるはずもない。このように、我々が物が存在していると感じているのは、五感によって感じ取る刺激によっている。これと同じように、物として五感で捉えられないものであっても、言葉の誕生によって、精神世界に新たに生まれた存在物になり得るのである。五感で捉えることのできない概念的なものであっても、その概念を表現した言葉によって精神世界に存在することになる。そういう意味で、言葉は、五感以外のもう一つの感覚であると言えないだろうか。

以上様々な角度から言葉について語り合ってきたが、これらの議論を通して感じたことは、言葉は、確かに機械語的な意味情報を持つ一つの独立したもののように振舞う一方で、言葉単独では存在せず、言葉そのものが、我々の心の中に秘められた魂と非常に深く結び付いているものであり、生命そのもののように思える。野山に咲く美しい花も、その生命を維持するために、見えざる根が、生命の源である大地にしっかりと根をはっている。花の美しさだけに眼を奪われると、人は、花そのものを生命から切り放してしまう。言葉も花によく似ている。人々の関心が、生命の根源から切り放された花そのものだけに向けられるのではなく、大地にしっかり根ざした生命体としての花を希求することの方に向けられることを願いたい。

今回は、ジャンルの異なる多種多様な人々が、様々な角度から言葉について語り合うことができました。言葉とはなんぞやと言う意味的な結論付けはできませんでしたが、非常に有意義な議論がなされたと思います。

次回の打ち合せは、忘年会も兼ね12月1日(木)14:00から行うことにした。

配布資料(ロ頭説明)

  • 人間文化研究会メモ
  • 言葉について (中瀬)

以上

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