- 2005-04-09 (土) 1:55
- 1997年レポート
- 開催日時
- 平成9年6月4日(水) 14:00〜17:00
- 開催場所
- KDD目黒研究所
- 参加者
- 広野、塚田、中瀬、山崎、小田島、ラジカル鈴木、浦山、三好、宮本、佐藤、望月
議事内容
今回から新たなメンバーとして、50回記念大会に次いで2回目の参加である小田島さんを含む4人の方が参加してくれました。小田島さんは、現在、山形県生涯学習人材育成機構に勤務されています。生まれは、岩手県で、幼少の頃、宮沢賢治の実の母から、賢治の作った童話を聞かせてもらった経験があるそうです。浦山さんは、小田島さんと同じ職場に勤務していて、山歩きが好きであるとのこと。山形県を出て働きたいと思っていたのですが、今はふるさとの山形県にどっぷりと浸ってしまっているそうです。三好さんは、札幌出身のフリーのシナリオライターです。これまで、秘書、リクルート、縮集プロダクション等の仕事を点々とこなし、現在に至っているとのこと。宮本さんは、大阪出身で、建築家を目指していましたが、その夢を断念し、現在は、フリーの写真芸術家として活躍しています。様々な分野で活躍されている新たなメンバーを加え、この研究会が、益々活発に進められることを願っています。
今回は「愛」について議論した。愛という言葉から先ず始めに連想されるのが、恋愛である。人を好きになり、その人と一緒に生活していくカップルには、大きく分けて二つのタイプがありそうだ。一つは、互いの存在が、それぞれに生きる力を与えてくれて、ずっと一緒に居れるタイプと、もう一つは、生活しているうちに、それぞれの好みや考え方が大きく異なっていることが分かり、分かれてしまうタイプである。前者は、二人で一つといった状態を生み出していて、一人では発揮できない新たな力を生み出す可能性を秘めている。これに対して、後者は、互いに妥協していかなければ一緒に生活することが出来ず、一人一人の持つ力を奪ってしまう可能性がある。
それぞれの持つ力を高めあっていくことと関係しているのが愛であり、それぞれの持つ力を奪い合ってしまうのが憎しみであるように思える。「失楽園」の表現する世界は、恋するもの同志が、互いに一番良い状態をいつまでも続けていたいことを願って心中することになるが、そこには一見愛が表現されているようでいて、互いの持つ生きるという力を奪ってしまうということからみれば、愛とはほど速いもののように思えてくる。
愛の根底には、性的欲求やそれ以外の我欲的なものとは、一線を画する何かがあるように思える。例えば、兄弟愛、家族愛というものを考えてみることによって、愛の本質が、性的なものや我欲的なものから離れていることが見えてくる。夏目漱石は、「こころ」の中で、愛と性との係わりについて次のように表現している。
「本当の愛は宗教心とそう違ったものではないということを難く信じているのです。私はお嬢さんの顔を見るたびに、自分が美しくなるような心持ちがしました。お嬢さんのことを考えると、気高い自分がすぐ自分に乗り移ってくるように思いました。もし愛という不可思議なものに両端があって、その高い端には神聖な感じが働いて、低い端には性欲が動いているとすれば、私の愛は確かにその高い極点をつらまえたものです。私はもとより人間として肉を離れることのできない身体でした。けれどもお嬢さんを見る私の眼や、お嬢さんを考える私の心は、全く肉の臭いを帯びていませんでした。」
性欲やその他の我欲を越えたところに、真の愛が秘められているのであろう。そして、兄弟愛や家族愛にみられるように、愛には、互いの心の中に秘められた、それは森羅万象全てのものの中に秘められている何かと共鳴するものであるが、そのものに明りを灯す働きがあるのではないだろうか。
和顔愛語という言葉があるが、はげましの言葉や、優しい言葉は、自分では意識して生み出すことの出来ない、ほんのりとした心に導いてくれる。そして、その心は、新たな生命力を感じさせてくれる。言葉と言えども、このような大きな力を秘めており、その言葉によって、新しい命が芽生えたといえるのではないだろうか。愛とは、一人一人の心の中に、空の状態で秘められている生命を揺り起こす働きがあるのであろう。
私達の心の構造を分析してみると、その中心には、森羅万象と共鳴する自己の世界がある。その自己の世界を取り巻くように、様々な欲望によって固められた自我の世界が広がっている。ただ、この自我の壁は、面白いことに、直接的であれ、間接的であれ、人と係わるときに心の中に突如として生まれてくる。そのため、人と係わる日常生活においては、多くの場合、この自我の壁によって、私達は、自己の世界の存在を意識することがほとんど出来ない状態になっている。ところが、人以外のものに対しては、この自我の壁は、心の中に生まれてくることが少ないために、自己の世界を垣間見ることが出来る。美しい景色に接し、美しいと感激し、快い音楽を聴くことによって、心に喜びが生まれてくるとき、私達は、この自己の世界を垣間見ているのではないだろうか。そして、その自己の世界を垣間見せてくれる働きこそが愛そのもののように思える。
最近の若者たちは、傷つくことを嫌い、互いに、離れた関係を結んでいる傾向にあると言われているが、傷つけるということは、ある意味で、愛の一手段のようにも思えてくる。傷つくということは、自我の壁が傷つくことであり、その傷によって、もし自我の壁が取り除かれ、自己の世界を人との係わりにおいても感じることが出来るようになったならば、その人は、崇高なる幸福感に浸ることが出来るであろうし、その傷つきは、愛の鞭ともなってくる。
禅の修行の中で、公案を考える修業僧を、師匠は、様々な方策によって傷つけていくのだそうだ。その傷つけに対して、修業僧は、何日も何日も耐えながら、次第に自我の壁を落として行くのだそうだ。悟りとは、この自我の壁が、突如として、消え去ることなのであろう。自我の壁の落ちた心の世界には、美しい世界が展開するという。
このことを考えてくると、芸術家の営みやインターネットによるコミュニケーションの魅力の在処が見えてくる。芸術家は、その作品を手掛けているときには、人との係わりが全くないことによって、自我の壁のない自己の世界を垣間見ることが出来る。出来上がった芸術作品は、自己の世界からのメッセージとなる。そして、その芸術作品を見るものには、直接自己の世界に飛び込んでくるあるメッセージがある。芸術家と作品を見る者とは、作品を一つのメディアとして、自己の世界を共有しているのであり、作品の価値は、作者と鑑賞者との間にどれだけ豊かに自己の世界を共有できるかにかかっているといえよう。互いに自我の壁は空の状態で内に抱いてはいるものの、芸術作品というメディアが、自我の壁を乗り越えて自己の世界に明りを灯すのである。
同じように、インターネットによるコミュニケーションも、語り合う者同志が、時空間を共有しないというインターネットの特徴が、自我の壁を空の状態のままにして、コミュニケーションできる世界を生み出しているのではないだろうか。もちろんそこでは様々な内容のものがやり取りされているであろうが、インターネットによるコミュニケーションから、恋が芽生えるその営みには、自我の壁を乗り越えて自己の世界を結び付ける働きがインターネットによるコミュニケーョンに秘められているからなのであろう。
以上のように、愛とは、森羅万象を貫く自己の世界、それは、宇宙生命そのものであろうが、その宇宙生命への水先案内ではないだろうか。そして、その宇宙生命に触れたとき、私達には、何とも表現しがたい喜びの心が生まれてくるのであり、その喜びの心に導いてくれたものに対して愛を感じるのである。
次回の開催を7月16日(水)とした。次回は、「善と悪」について考えてみたいと思います。
以 上
- 新しい記事: 第55回 「善と悪」
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