- 2005-04-09 (土) 21:27
- 1998年レポート
- 開催日時
- 平成10年7月16日(木) 14:00〜17:00
- 開催場所
- 恵比寿厚生年金福祉センター
- 参加者
- 広野、土岐川、中瀬、山崎、水野、桐、吉田、加藤、田口、岩崎、望月
討議内容
今回は新たに田口さん、岩崎さんの二人の方が参加されました。お二人とも、主婦が専業で、ヤマギシズム地球村実行委員会のメンバーでいらっしゃいます。主婦として、そして、女性として、新たな観点からの意見を期待しています。
今回は、生きがいについて議論した。生きがいということをあらためて考えてみると、私達は、生きがいという言葉を何となく曖昧な中で、ふだん使っていたことが分かる。生きがいという言葉だけが、一人歩きをして、そのものが一体どのようなものであるかをはっきりとは意識していないようだ。また、生きがいというのは、生きていることを意識したときに生まれてくるものであるらしい。だから、仕事に取り組んでいるときとか、子育てに取り組んでいるとかいったように、その時、その時で何かすることがあるようなときには、生きがいというものをあまり意識して考えることもないようだ。
生きがいという言葉のもつ意味を広辞苑で拾ってみると、生きているだけのねうちであるとか、生きている幸福・利益という意味がある。そこには、生きている喜びのようなものが根底には秘められているように思われる。ただ、日常生活の中で、ちょっとした人との触れ合いの中で、感謝されたり、優しい言葉をかけられたりするときには、生きている喜びを感じることがあるが、はたしてこれが生きがいかとあらためて問いてみると、どうもそうではないらしい。生きがいとは、生きている喜びを感じることのできるなにかが、継続してなされていることにあるようだ。
仕事に喜びを感じ、充実した日々を送っている人にとっては、仕事自体が生きがいになるであろうし、故郷から離れた子供のためにと思いながら編み物や、農作物を作る母親の営みなども、母親にとっては生きがいになっているものではないだろうか。そこに共通に流れているものは、自分の意志で何かに取り組んでいるという積極性である。生きている喜びは、義務ではなく自らの意志で営むことの中から生まれてきているように思われる。
岩崎さんは、あることのために、1000個の餃子を作らなけらばならなくなったとき、それが一種の義務となって、なかなか質の良いものを作ることができなかったし、餃子を作ることに喜びを感じることもできなかったけれども、1000個ということにとらわれずに、いくつでもよいから作るんだと、義務を離れた途端、餃子そのものの質も良くなり、餃子を作ることに喜びを見いだしたという。義務から解放され、時間的な束縛からも解放されているような状況の中から喜びは生まれてくるようだ。
このように考えてくると、生きがいという言葉が何か大それたことのように闊歩している現代社会は、義務や時間的な束縛を無意識ながら受けていて、日常生活の中で、生きていることの喜びが感じられなくなっている社会なのかもしれない。人との競争、時間的な制約、情報化による刹那的な快楽の氾濫等など、早いことがよいことであるかのような錯覚に陥ってしまい、自分自身を省みて、生きていることを自ら問うような沈思黙考できる環境が次第に薄れてきているのかもしれない。社会が、より便利になり、物質的に豊かになる反面、私達は、心の奥深くに秘められた悠久な命を抱くもう一人の自分(自己)から益々遠のいていっているのかもしれない。その自己との邂逅を求める無意識な働きが、自分らしさを表現したいという欲求や、生きがいを求める動きとなっているのではないだろうか。
仕事を離れ、なにもすることがなくなった時、生きがいというものが意識されてくるケースが多いが、それは、自ら行動する根源の力になっていた目標なり目的なりが失われてしまったことによろう。生きがいを感じるためには、何か行動する目的が必要であり、その目的が仕事の有無に左右されることのないものであるためには、自ら生きる目的を生み出しておく必要がある。そして、その自ら作りだした生きる目的の中に自己からのささやきでもある自分らしさが表現されているのではないだろうか。
情報化、運輸機関の高速化などによって、世の中が益々忙しく動きまわる時代、私達の心は、その忙しさに巻き込まれ、自己の声に静かに耳を傾けることなく日々を過ごしてしまっているようだ。子供のことを思いながら、手仕事に励む母親のその営みは、自己の声に無意識ながらも耳を傾け、その声に従っている営みなのではないだろうか。そんな無意識ながらの営みが、できなくなっている時代であるから、生きがいということがあらためて考えられなければならなくなっているのかもしれない。
生きがいとは、無意識的であれ、意識的であれ、自己の声に従った営みの中で感じられる生きることの喜びであるようだ。その生きがいを求めるために、ソクラテスの言う汝自身を知れと言うことがあらためて求められる時代であるのかも知れない。
次回の会は、沖電気の保養所(三浦海岸)にて、9月18日(金)行うことにした。
以 上