- 2005-04-09 (土) 22:11
- 1999年レポート
- 開催日時
- 平成11年9月8日(水) 14:00〜17:00
- 開催場所
- 東京ウィメンズプラザ
- 参加者
- 広野、土岐川、水野、市川、前田(園)、橋本、秦、高須、佐藤、望月
討議内容
今回新たに、二人の若者が参加してくれました。高須君は、早稲田大学理工学部を卒業した後、フリーターとして生活しています。生きることの意味を考えたり、本当の自分を見つけたりするために、本を読んだり、考えたりしているとのことです。秦君は、この9月に慶應大学環境情報学部を卒業し、現在は、医学の道を志し、大学院を目指して勉学に励んでいるとのことです。新たな道を求めて動き出した若者が、新鮮な空気をもたらしてくれることを期待しています。
今回は、私ということをテーマに議論した。土岐川さんは、胃カメラを飲み、自分の胃の中を画像で見ながら、感じる痛みが画像と連動していることに何とも妙な体験をされたそうである。その体験を通して、この痛みを本当の痛みとして感じているのは、私であり、画像を見る先生にしても、私のこの痛みは分からないということを実感を持って感じたそうである。そして、そのことから、私というのは、それぞれ一人一人の中にあって、誰もその私を交換することはできないというのである。ただ、痛みといえども、視覚や聴覚を通して得られる様々な刺激と、刺激ということで見るならば、異なってはいない。土岐川さんが感じた痛みと私は、見る物や聞く音と私ということと全く同じ係わりであり、そういう意味からすると、すべての刺激を感じ取る私は、決して誰とも同じ私ではないといえる。
ただ、その決して誰とも同じ私でない私達が、物を見、物を聞き、それらを共に語り合う共感の心を持っているし、相手の痛みを感じ、相手を思いやる共苦の心を抱いている。確かに、痛みそのものを感じるのは私だけであり、物を見たり音を聞いたりして、それに感じるのは私だけである。ただ、痛みというのは、その痛みの素になるものが、私という肉体(精神) から生まれてくるのに対して、物を見たり、音を聞いたりして感じる心の素は、物や音というように、私という肉体の外にあるものから生まれてくる。だから、発生しているその痛みは、その痛みの素を抱いている人自身しか、本当の痛みを感じることはできないのに対して、見たり聞いたりすることは、対象となるものが、外の世界にあるために、他の人と刺激を共有することができる。ただ、見たり聞いたりすることに関しても、痛みと同じように、直接物を見たり、音を聞いたりすることが無くても、その物を見たり聞いたりした人から、言葉によって間接的に伝えられることがある。このような場合には、痛みと同じで、直接体験していないことではあるけれども、イメージ的に共有している。
ここで大切なことは、痛みであれ、視覚や聴覚からの刺激であれ、直接体験していることではなくても、それをイメージ的に共有することができるということである。そして、この共有することができる能力を持っているから、私達人間は、私という存在を感じることができるのではないだろうか。その共有する世界があるから、実際に苦痛を感じているのは貴方であって、私ではないと感じることができるのではないだろうか。そこには、相手の苦痛を癒してあげよう、つらいだろうという共苦の心は生まれてはくるけれども、その苦痛を実際に感じているのは貴方であって、私ではないということが無意識のうちに働いて、私という存在をあらしめているのではないだろうか。すなわち、直接刺激を感じる自分と、それをイメージとして浮かばせることのできる自分と、この両者があって始めて私という存在が生まれてくるのではないだろうか。そして、このイメージを浮かばせることのできる能力は、意識と深い係わりを持っている。すなわち、意識の誕生が、私という存在と深く係わっているということである。
私達が、普段私として感じているのは、その意識できる私である。この私を意識させているものの多くは、これまでの体験であるとか、思い出であるとかいった記憶と係わっているし、様々な欲求とも係わりあっている。これらの記憶や欲求が、リアルタイムで受けている様々な刺激とともに、私という存在を感じさせているものとなっているようだ。
しかし、私達が私と感じるその私には、もう少し意識できない根源的な何かが深く関与しているように思えるのである。すなわち、私という中には、私が、私がと表現される意識的な私、他者とは別といった私と、その私を私であるとあらしめている根源的な私とがいるのではないだろうか。そして、前者の私は、世の中が知識を競い合い、地位や名声を競い合い、お金を競い合うようになればなるほど、益々意識される私である。これに対して、後者の私は、それとは反対に、無意識の中にあって、前者の私を私としてあらしめている根源的な作用をしているため、前者の私が大きくなりすぎると、その存在が見えにくくなってくるものである。
このことを川の流れにたとえて言えば、川そのものが私である。川には、小川もあれば、大河もある。山間を流れる川もあれば、大草原を流れる川もある。それぞれの川は、それぞれ異なった川である。それは、それぞれ異なる私に等しい。そして、それぞれの川が、自分として感じているものは、その川の中に住み着いた魚や苔、時に流れてくる枯れ木や枯れ葉である。泥で汚れた川もあるし、きれいに澄んだ川もある。いずれにしても、それぞれの川には、それぞれの特徴がある。そして、それぞれの川は、この特徴を持って、川としての私となっている。ただ、その個々に異なっている川ではあるけれども、その川を川としてあらしめているのは、どの川にも共通に水があるということである。水があるから、その中に魚が棲み、枯れ木や枯れ葉が流れるのである。
私達は、魚や枯れ木で溢れる川の中で、水の存在を忘れ、魚や枯れ木を川であると錯覚してしまうのである。それと同じように、記憶や欲求を私だとして、その根源に私を私であらしめている人間全てに共通した私の源があることを置き忘れているのではないだろうか。それは、無意識の世界にあって、生命の進化の中で、厳然とその根源となって働いている悠久な生命を持ったものではないかと思うのである。そして、その根源的な私があるから、記憶は過去のものとなっても、細胞は日々生まれ変わって幼少の頃のものが残ってはいなかったとしても、幼少の頃感じた私と、今感じている私とが、時の流れを感じさせない一つの私として今ここにあると感じられるのではないだろうか。
私達は、変化する世の中の動きの中で、その変化する動きと共に変化する自分と同時に、変化しない自分を内に無意識に抱いているのである。そして、この変化する自分は、自分の肉体と共に消えていってしまうものであるが、無意識の中に抱かれている自分は、宇宙の営みと共に悠久な世界の中にあり続けているのではないのだろうか。本物の自分を求めたり、自己実現を果たそうとしたりする心の動きは、激しく動き回る世の中で、日々変化して止まない表層的な自分の陰でささやく変化しない自分を求めていることにならないだろうか。
昨今、若者達の中には、自分の意見を述べるのに、「私的(わたしてき)には」というように、私と断定せずに、的をつけて私を客観的に語らうことが目に付く。客観的に表現することによって、本当の自分を表現することから逃れようとしているのだろうか。自分でも分からない本当の自分を他人に知られたくないと思っているのだろうか。私というものが、世の中で激しく動き回るものと益々係わる中で、一個の生命体として、生命の根源であるもう一人の私のささやきを内に感じながらも、その私への憧憬を外に表現することができにくい世の中になってきているのかもしれない。
私とは、悠久なる宇宙の根源的生命を内に抱きながら、日々変化する世界と係わっているものなのだ。そして、世の中の変化が激しくなればなるほど、その激しさの渦の中に私が巻き込まれれば巻き込まれるほど、不動の私を求めたいという願望が強くなってくるのであろう。まさに、私とは、不易と流行の中で絶えず揺り動いている存在なのではないだろうか。
次回の打ち合わせを11月18日(木)とした。
以 上
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