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第71回 「言葉」

開催日時
平成12年1月27日(木) 14:00〜17:00
開催場所
東京ウィメンズプラザ
参加者
広野、霧島、土岐川、田中、山崎、桐、下山、松本、田中(誠)、望月

討議内容

今回新たに、田中誠司さんが参加してくれました。田中さんは、某自動車メーカのデザイナーとして7年ほど働いていましたが、自己完成に向けて意を新たにし、昨年会社を辞め、現在は、新たな人生を歩んでいらっしゃいます。若いセンスで、この会に新しい息吹を吹き込んでくれるものと期待しています。

今回は言葉に関して議論した。私達は、普段当たり前のように言葉を使い、言葉によってコミュニケーションを行っているが、言葉とは一体なんだろうか。言葉は、人間の何かを表現したいという欲求から生まれてきていることは確かであるけれども、それは、どこにその源があるのであろうか。人が何かを表現したいというのは、心の内部に蓄積されたエネルギーの表出である。それは、マグマの活動の中で蓄積したエネルギーが火山となって噴火していることにも似ている。私達の心の世界の中でも、外界からの刺激との係わりや、内的な生理現象との係わり等によって、エネルギーが蓄積され、それを外界に放出したいという自然現象が言葉の根源になっているのであろう。それと、言葉で表現したいという欲求の根底には、自分の心を相手と共に共有したいという無意識の欲求があるのではないだろうか。それは、地球と月との間に働く引力のように、二つの物の間が共通な力によって結びつけられていることを心の世界でも望んでいるのであろう。

言葉は、人間の表現したいという欲求から生まれてくるものであることは確かであるが、それは、鳥や動物達の鳴き声や吠え声と同じなのだろうか。多分、人間の声の源は、鳥や動物の鳴き声や吠え声と同じなのであろうが、それが、意味を持ってきているところに言葉の独自性がある。確かに、原始的な言葉は、鳥や動物の鳴き声や吠え声と同じように、環境との係わりで、危険を知らせたり、感情を表現したり、心の自然の表現であったのであろう。ただ、人間の声と、鳥や動物達の発する声との異なりは、人間には多様な響きを生み出す能力が秘められているということである。もちろん、鳥や動物達も、様々な声の響きを生み出してはいるけれども、その多様性に関しては、人間の声の方がはるかに豊かであることは確かである。その多様性によって、人間は、環境との係わりで生まれてくる心の世界をきめ細かく表現することができるのである。

そのきめ細かい声の表現能力に加えて、人間には、一つの響きを一つのイメージと結びつけ、多様な現象の中で、同じイメージを持つものを一つの響きによって結びつける能力が与えられたのである。例えば「ち」という響きには、命の源、生命を育む源のようなイメージがあったのかもしれない。春になると大地からは様々な植物の芽が萌えいでてくるし、体を流れる血にしても、それは命の源になっているものとして考えられていたのではないだろうか。ひょっとしたら、射止めた動物から流れる血が、大地に戻っていくことも、血の源が大地と係わり、そこから再び命が生まれてくると考えられていたのかもしれない。乳にしても、乳によって子供は育っているし、ちとしてイメージした乳には命を育む源がある。いずれにしても、「ち」という言葉の響きの中に、生命の根源と係わるイメージがあったのであろう。その言葉の響きとイメージとの係わりは、言霊と表現されるように、言葉の源に横たわっている生命活動と深く係わっているのであろう。

言葉が単なる叫びとは異なるのは、言葉の響きが、ただ、反射的に創出されただけではなく、その響きの中に、一つのイメージが込められ、そのイメージによって、様々な現象が、一つの共通するイメージとして捉えられるところに言葉の根源的な力がある。言葉が単なる鳴き声や吠え声とは異なり、そこに意味が込められ、多用な意味を表現するコミュニケーション手段になるのは、一つの響き、一つの単語から、イメージすることのできる能力が人間に存在しているからである。そして、そのイメージは、民族によって異なってくるし、人それぞれの体験によっても異なってくる。だから、同じ言葉であっても、人によって、イメージするものが異なっていたり、同じ文章表現であっても、民族によってイメージする内容が異なっていたりすることが起きてくる。特に、詩や俳句といった短い言葉の中に多様な感性の世界を表現した芸術性の高いものは、人それぞれによって受け取る内容が異なってくる。

言葉が、心の世界を表現する豊かな声の響きと、その響きから様々な現象をイメージさせる力との連携によって生まれてきたのであるが、その言葉は、今度は人間生活に大きな働きをしてきている。もし、私達人間に言葉がなかったならば、私達は、自分自身の心の世界を探索することなどできなかったであろう。何かを考えるという営みこそ、言葉の誕生によって与えられた能力である。望遠鏡、顕微鏡などの発明によって、宇宙や物の細部に秘められている世界を細かく探求できるようになったのと同じように、言葉によって、人は自分の内的世界を探求できるようになったのである。道具が外の世界を豊かに広げていくのと同じように、言葉は内的世界を豊かに広げていく道具なのだ。そして、言葉があるから、私達は、道具を進化させ、文明を進化させ、文化を育て、それらを後世へと伝えていくことができるのである。だから、言葉は、人間の精神世界の営みを書き込んだDNAといえる。

言葉の持つ力は、元々一つであったものや現象を個々別々のものとして切り刻んでいくことである。虹の七色にしても、元々無限の色が存在している中で、七色に切り刻んでいるし、自然として一つであったものが、山や森や川となって切り刻まれていく。この言葉によって切り刻まれることが激しくなると、いつしか、全てのものが別々のものとして捉えられるようになり、全てを一つとして支えている生命の根源的な力の存在を見失ってしまう危険性がある。言葉の持つ両刃の剣は、現象を分析して意識化させる反面、根源的な生命の力を切り落としてしまう点であろう。それは、科学がやってきた営みにも似ている。

インターネット、携帯電話と、言葉が通信技術によって、世界中を飛び交う今日、私達の経済が、言葉を基本とした情報にシフトしてきている。その世界では、誰でもが自分の考えを発信し、その発信するものによって糧を得ることができるし、誰でもが自由に情報を買うことができる。万人が生産者であり、万人が消費者である時代がやってきている。それは、近代化される以前の社会においてみられた、農作物と魚類との物々交換のようなものである。農家は農作物を生産し、漁業に携わる人達は、魚や貝を得て、互いにそれぞれの物を交換していた。この物と係わる物々交換が、今度は情報というものによる物々交換へと変化していくということであろう。そして、そこには、物と深く結び付いていたこれまでの経済活動とは異なり、情報、すなわち言葉と深く結びついた経済が生まれてくるということである。このことを人間の発明した道具と言葉という二つの観点から考えてみると、社会が、これまでの道具としての物の時代から、言葉としての情報の時代へと変化し、言葉が経済に大きな影響を及ぼす時代になってきているということである。

今回詳しく議論できなかったが、言葉は、文字との係わりもあるし、コミュニケーション手段としての働きもある。また、これからの時代における経済との係わりもある。言葉に秘められた様々な力について、次回も議論することとした。

次回の開催を3月10日(金)とした。

以 上

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