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第86回 「世間」

開催日時
平成14年7月25日(木) 14:00〜17:00
開催場所
東京ウィメンズプラザ
参加者
塚田、山崎、下山、内田、吉野、佐藤、望月

討議内容

今回は世間ということについて議論した。私達は日常、世間という言葉を何気なく使っているが、その言葉の意味するものを考えていくと、私達が思っているほど具体的な何かではないことに気付く。具体的な何かではないが、私達の心の底で、人と人との暗黙のネットワークによって、価値の共有を作っている何かである。かといって、それが常識と必ずしも結びついてはいない。また、世間と同じような感覚で使われている言葉に社会というのがあるが、これもまた微妙に世間という言葉の醸し出しているニュアンスとは異なっている。

世間との係わりがよく持ち出される事象に、子供の受験に関することがある。今では、高校や大学に進学することが当たり前というような社会が作られていて、それに反するものを世間の見えない目がとがめるような価値体系が自然に生まれている。そして、親は、その価値体系からはみ出さないように、時として子供を強いる。塾に通わせたり、有名校を受験させたりする親の心の底には、世間との強い係わりがある。結婚に関しても、結婚適齢期になったら結婚しているのが当たり前とした雰囲気が流れていて、世間の見えざる力が、適齢期を外れることに暗黙の重圧を与えたりすることもある。ただ、子供の受験にしても、結婚にしても、世間の見えざる力を感じるのは、子供より親の方であることは確かなようだ。

世間と係わる事象の一つとして、できちゃった結婚が考えられる。結婚する前に子供ができてしまったことに、親は、世間の目を気にして、何とか取り繕うとする。それが、できちゃった結婚の率を高めているのかどうか定かではないが、多分にその要素があるようにも思われる。ただ、当事者にしてみれば、できちゃったことで結婚に踏み切るのが、必ずしも世間との係わりからではないらしい。当事者にしてみれば、子供の将来を考えたり、その後の生活を考えたりすることで、結婚を決意することが多いらしい。しかし、親の立場からするならば、子供とは違って、世間の目を気にするあまり、できちゃった結婚を許していることが多いのではなかろうか。これらのことを考えると、世間というのは、子供よりも親に強く働きかけているように思えてくる。

今回参加してくれた内田さんは、まだ若いOLであるが、世間という言葉の意味することをなかなか現実の世界でとらえることができなかった。世間というものをほとんど感じていないらしい。それは、親の育て方、親の価値観などによって影響されていて、親が世間ということをあまり気にしていない環境の中で育ったことによるのかもしれないが、でも、討議していくうちに、親の何気なく行っていた行為に世間の意味を感じ取ることができるようになった。

たとえば、内田さんが大学受験のとき、海外の大学を希望していることを知ったお母さんから、海外の大学に行くのもいいけれども、日本の大学をきちんと合格してからねと言われたらしい。親にしてみれば、日本の大学が落ちたから海外の大学に行ったという風に世間から見られたくなかったとのこと。そして、そのことが世間との係わりであったことを内田さん自身改めて気付いたようだ。子供達にとって、親の考える世間というのが、現実の世界で感じられていないのかもしれない。それは、内田さん個人の問題ではなく、世間というものに意識的に係わる度合いが子供より親の方が強いからなのではないだろうか。

それと、世間というのが、単に親と親との係わりということだけではなく、生活に密着した隣近所、村や町というのが根底にあって、その中で親と親、家と家との係わりにあるように思える。だから、この生活基盤から離れるに従って世間の力は弱まってくる。先ほど例に出した内田さんの大学受験の問題に対するお母さんの世間との係わりにしても、生活空間から離れた世界、例えば遠くに生活している旧友や知人との間では、世間が生み出す価値に縛られることはなかったであろう。

こうして見てくると、世間というのは個と個との係わりというよりも、生活に密着した家と家との係わりの中で生まれてくるもののようだ。だから、生活の密着度の強い田舎の方が、それが希薄な都会よりも世間との係わりが強くなっているのであろう。それと、家を代表する親の方が、家の一員としての子供よりも強く世間のことを感じるのであろう。すなわち、常識というのは個と個との係わりの中で個のネットワークによって生まれてくるのに対して、世間というのは家と家との係わりの中で生まれてくる価値体系であるとうことだ。

世間というのは、ある価値体系を自然に生み出していて、それが時として常識と重なり合ってくる。その時々で、大衆の考える無言の価値が常識を作り世間を作る。そして、その常識や世間によって一人一人の行動が縛られる。多くの場合、この常識や世間は保守的であって、新たなものに目覚めた者にとっては枷となって働く。人間がより高き精神世界を求めて歩む生命体であるとするならば、常識や世間は、その歩みを止めるブレーキとなって働く。それを青虫の成長に譬えてみると、青虫の世界で働く力が世間ということになろうか。青虫は、やがて新しい命に目覚め、世間としての青虫の世界から離れ一人孤独の繭の中に生きる。その繭の中から新たな命としてのアゲハチョウに進化する。世間というのは、アゲハチョウとしての新たな命、新たな世界を秘めた人間を、いつまでも青虫のままに留めておこうという見えざる力のようにも思える。

それでは、この世間を生み出している人間の根底にあるものは一体なんだろうか。それは、常識や社会といったものをもたらしているものと基本的には同じ何かであるような気がする。それは、個と個とが生活している中で、その個を共通する何かで貫いている見えざる力である。その力は、年齢に関係なく働いているものであるが、その力がもたらす具体的な空間は、子供なら子供の世界、老人なら老人の世界に個々別々な価値体系を作っている。そして、この見えざる力は、人間だけに限られたものではなく、動物の世界においても存在しているように思える。群れや棲み分けなどの行動も、同じ種の中を貫いている共通した力があるから生まれてくるものであろう。そして、個体に生じた突然変異は、この群れる仲間から離れた行動を促し、そこから新たな種が生まれてくる生物の進化のように、人類の進化にしても、この世間という世界から離れた者の中からより進化した人間が生まれてくるのかもしれない。それは、青虫の群れから離れたものの中からアゲハチョウが生まれてくるように。

次回の打ち合わせを平成14年9月13日(金)とした。

以 上

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