- 2005-04-09 (土) 23:01
- 2003年レポート
- 開催日時
- 平成15年7月28日(火) 14:00〜17:00
- 開催場所
- 東京ウィメンズプラザ
- 参加者
- 広野、土岐川、塚田、中瀬、山崎、下山、松本、井桁、板倉、田中(す)、望月
討議内容
今回は、「無常」と題して議論した。無常という言葉をその意味づらから見てみると、常ならぬということで、自然の営み、人間の営み、ありとあらゆる物が常に変化していて、変わらぬということがない諸行無常ということであるが、無常には、さらに奥深い、人間の心と係わった何かが意味付けられているように思える。単に、太陽系が、銀河系が、そして宇宙が変化しているという物理的な意味での常ならぬということではなく、桜が散り、枯葉が落ちるその営みの中に、家族、知人、そして自身の生命の限りあることに無常を感じとっている。自分と物とが別という主客別々のかかわりの中で変化を見ているのではなく、桜を散らせるその場の中で、自身と散り行く桜とを重ね合わせた主客同一の世界がある。生あるものが、変化することの中に、自身の生命の限りあることを重ね合わせながら、無常を感じ取っているのである。
ただ、その無常を感じ取るその源には、時間のない世界が存在しているように思える。それは、この宇宙を作り、地球上に様々な生命体を生み出す終わりのない生命とでも表現できようか、その悠久とも思える生命を無意識に感じているから、変化するものの中に、無常を感じるのではなかろうか。人間は、動物的な心の世界の上に、理性を発達させてきた。その理性の作る世界が、時空間の世界であり、その時空間の世界の中で、森羅万象は変化している。そこには、生もあり死もある。ところが、動物的な世界、それは、理性を切り離した世界であるが、そこでは、時間は流れてはいない。ただ、今があるだけだ。そこでは、生も死もない。生も死もない世界から、人間は誕生してきた。理性がまだ、その生も死もない世界を見ることができるほど発達してはいないから、悠久な命を有限な命として無常と感じているのではないだろうか。
むじょうという言葉の響きには、常ならぬという無常と、情がないという意味での無情とがある。無常の響きの中には、どこかしら無情としての意味がこめられているように思える。それは、無情の意味する情がないという人間関係での意味合いではないが、生あるものはいつかは消え去るという自然の営みに対して無情と感じるのであろう。それは、生命の営みを司る見えざるものに対する無情感なのであろう。
無常という言葉の響きには、どこかしら諦念のようなものを感じる。生あるものは、いつかは、消え去っていく。その抵抗し得ない自然の営みに対して、人間としてできることは、無常という言葉を発して、その自然の営みを受け入れることではないだろうか。しかし、それだけでは、どうしようもない心の世界が広がってくる。それを人は、芸術的なものに表現してくる。兼好法師の徒然草にしても、芭蕉の俳句にしても、西行の和歌にしても、そこには、悠久な生命を内に秘めながら、時々刻々と変化する世界が表現されている。むしろ、時々刻々と変化する世界を表現することで、悠久な世界を描き出そうとしているようにも感じられてくる。まさに不易流行の世界である。
芸術がそうであるように、人は、時々刻々と変化する世界の裏舞台の中に、あり続けている生命の営みを感じているのではないだろうか。そのあり続けている生命をまだ理性がとらえ切れていないから、その未熟さを無常ということで感じ取っているように思える。先の芸術家が目指した無常を表現したものの中には、悠久な生命への思い入れが秘められている。そして、生命の進化の動きとして、この宇宙を誕生させ、生物を誕生させてきたあり続ける生命は、その活動として、人間に理性を与え、その理性によって悠久なる生命の存在を知らしめようとしているのではないだろうか。無常というのは、まさに、理性の未熟さからくるものであり、その未熟さを感じ取って、成熟された理性の世界を新たに作り出す営みが仏教修行である。仏教の世界では、無常という言葉と合わせて、常住という言葉が使われている。そこには、決して消え去らない生命の世界を感じ取った理性の進化がある。無常を無常のままにしておかずに、その無常を理性の世界の中で常住にしていくことこそ、人間の向かうべき進化の道のように思える。
次回の打ち合わせを平成15年9月18日(木)とした。
以 上
- 新しい記事: 第93回 「生と死」
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