- 2005-04-09 (土) 23:01
- 2003年レポート
- 開催日時
- 平成15年9月18日(木) 14:00〜17:00
- 開催場所
- 東京ウィメンズプラザ
- 参加者
- 土岐川、塚田、桐、水野、下山、松本、大滝、佐藤、望月
討議内容
今回は、「生と死」と題して議論した。生きとし生きるものには必ず死がある。その死を美しく迎えようとする動きがある。でも美しい死とは一体どういうものなのだろうか。死に美しさというものがあるのであろうか。神風特攻隊として、戦争に散っていった死は美しい死であろうか。三島由紀夫の死は美しい死であろうか。自殺は、美しい死とはいえないという。そして、自分の意志に反して死を迎えることも美しい死ではないという。それでは、吉田松陰の死は、ソクラテスの死は、キリストの死は、美しい死ではないのであろうか。これらのことを考えていくと、死を美しいものにしたり、汚いものにしたりするのは、死に行く当人ではなく、それを見ている第三者的な人の側にあることが分かる。すなわち、死の美醜はともかくとして、死は、評論されるものとしての側面を持っているということだ。それと、私達が、死を美しい死と思うその美しさの中に、死に対峙して、その死をあるがままに迎えることのできるその心に美しさを感じるのではないだろうか。すなわち、私達の死に対する思いの中には、無意識ながら、死に直面しても動じない心に美しさを感じるのではないだろうか。それは、ひょっとしたら、一人ひとりの無意識の中に秘められた不死の願いと重なり合う何かがあるように思える。
死とは一体なんだろうか。確かに私たちは、祖父、や祖母、あるいは父や母といった身近な人の死や、知人や友人の死、さらには、マスコミで流される有名人の死に接し、死そのものがあることを経験的に知っている。しかし、改めて死とはなんぞやと問いてみると、死について知っている人は誰もいないことに気付く。死を経験した人はいないのだ。それにもかかわらず、私たちは、死を知っているかのごとく、死に対して恐怖を抱き、死から逃れたいと思う。ただ、その恐怖は、熊に襲われるかもしれない恐怖、結婚や出産など初めて体験することへの不安とはどこかしら異なったものがある。
私達は、死そのものを直接経験してはいないけれども、その死を客観的な立場で見ることができる。確かに、今まで直接語り合っていた人が、ある時から消えていってしまう。それは、まさに死そのものである。しかし、その消えてしまうことを私たち自身が直接経験することなどないのだ。それなのに、私達は、死を恐れる。その恐怖は一体どこからきているのだろうか。それは、知らないことに対する恐れではないだろうか。死とは一体何なのか、そのことを知っていないことに対する不安から死に対する恐怖が生まれてくるのであろう。先に述べた、熊に襲われるかもしれないという恐怖、それは、熊自体は知ってはいるけれども、いつ熊が出てくるのか分からないという分からなさに対する恐怖である。結婚生活や、出産に対する不安は、結婚後の生活が未知であること、出産を経験していないことに対する不安である。要するに、私達人間は、知らないことに対して恐怖心を抱くのだ。そして、死に対しても全く同じことで、死そのものについて、私達は本当のところ何も知ってはいないのだ。要するに、死に対する無知さが死に対する恐怖心を生み出しているということだ。それは、裏返して言えば、生をも知らないということではなかろうか。
確かに、私達は、自分は今こうして生きているということを実感できる。でも、はたして、その実感が、生きていることの意味を知っていることを意味しているのだろうか。死の恐怖が概念の世界から生まれてきているように、生きていることの意味も概念の世界から生まれてきている。意味を問うということは、まさに概念の世界での営みである。そして、人間は、その概念世界を作り出すことができるから、まさに人間であり、その概念の世界の中から、生も死も生まれてきたのである。哲学が生まれ、宗教が生まれ、科学が生まれてきたのも、人間の持つこの概念世界からである。そして、生きることの意味も、死の恐怖も、概念世界の産物なのだ。だから、生きることの意味の把握は、死の恐怖からの解放をもたらすことになるのではないだろうか。すなわち、私達は、生きることの本当の意味を分からずに生きているから、死の恐怖をも生み出してしまっているということである。
概念世界のない動物達には、生きることの意味も、死の恐怖もない。生も死も、共に人間になって生まれてきたものなのだ。確かに、私達は、動物の死をみて動物にも死があると思う。でもそれは、人間がそう思うのであって、動物の世界では、死も生も存在しないのだ。確かに、動物でもない人間が、そのことを分かることはできないが、ただ、確かなことは、生きることの意味を考えるのは人間だけであり、そのことが、まさに死に対する恐怖を感じるのが人間だけであることの間接的な証拠でもある。それは、生も死も、先に述べたように、概念の世界の落とし児であるからだ。
科学の誕生も、人間の概念世界から生み出されたものである。そこには、概念の世界を支配する時間と空間とがある。その時空間の中で、自然現象が分析され、科学が生まれてきた。確かに、その科学の発展は、科学技術を生み出し、私達の生活は豊かになった。しかし、その科学技術のもたらす利便性と、現実性とによって、私達は、次第に、時空間によって支配される世界の中に深く陥ってきてしまった。私達の意識は、益々時空間によって支配され、そのことが、生の意味を問わせ、死の恐怖を益々強く生み出していることに私達は気付いないのだ。
元々、生命は悠久そのものなのだ。生命には、始めも終わりもなく、ただあり続けているものなのに、人間に与えられた未完成な概念世界が、時空間に支配され、それを有限なものと思い込んでしまっているのだ。死の恐怖は、我々人間が、まだ、本当の意味で生の意味を知り、生命の本質を理解していないことからきているのではないだろうか。そして、自然が人間に死の恐怖を与えているのは、人間だけに与えられた概念世界を、未完成なものから、完成されたものへと進化させるようにとの自然からのメッセージではないだろうか。
生きることの意味を問いながらも、人生不可解なりという遺言を残して自らの命を絶った藤村操、そこには、死の恐怖というよりも、生きることの意味の不可解さに対する恐怖があったとはいえないだろうか。生きることよりも死を選んだ。そこには、生きることの意味を問えないことに対する不快さが、死へと導いた自然の営みがある。人間にとっての生と死は、結局紙の裏と表のように、切っても切れないものであり、生の意味を覚知することが、死の恐怖を解消させるのである。あるいは、死の恐怖からの解放は、生の意味を覚知させることになるのである。
私達の心の中を流れている生命、その生命には、元々終わりなどないのだ。その生命を終わりだとしているのは、私達の意識できる世界が、まだ完全に生命そのものを意識できていない無知から生まれてきているのであろう。それは、また、生に対する意味をも見い出せていないことでもある。生と死、それは、私達現在を生きる人間の無知から生まれてきているものであり、生に対する意味も死に対する恐怖も共に、人間を進化させようとする生命からのメッセージであると思うのだが。
次回の打ち合わせを平成15年11月28日(金)とした。
以 上