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第117回 「五十年後の人間社会」

開催日時
平成19年9月21日(金) 14:00〜17:00
討議テーマ
五十年後の人間社会
開催場所
東京ウィメンズプラザ
参加者
土岐川、内田、吉野、望月

討議内容

今回は、「五十年後の人間社会」と題して議論した。50年という時の流れが、一体どのくらいの社会変化をもたらすものなのか、そのことを考えるために、先ずは、50年前の日本の社会について思い出してみることにした。

50年前といえば、一般人の中に、TVや電話といったものがまだ広まっていなかった時である。TVはあったけれど、町に数台、お店の前に置かれ、大衆が、それを見ようとTVの周りに群がっていた時代である。電話にしても、それほど普及していなくて、電話を持っている家から呼び出してもらうような程度であった。ダイヤル式の電話になるまでには、まだ相当の年月を要していた。

その時代から50年が経った今、TVはカラーが当たり前、ブラウン管TVから薄型  TVへと変化している。電話にしても、どこからでも、どこへでもという謳い文句が携帯電話によって実現しているし、その携帯電話にしても、携帯端末機器として、TVや財布の働きまでしつつある。さらには、コンピュータの登場によって、社会は大きく変化してしまった。

50年前、コンピュータは、まだ研究の段階であり、実用からはほど遠いものであった。それから10年程して、大型コンピュータが、大学や大手企業に入るようになり、コンピュータが、一部の人に使われ始めた。そのコンピュータは、いまやパーソナルとなり、そのパーソナルなコンピュータも、30年ほど前の大型コンピュータの性能をはるかにしのぐものになった。コンピュータと通信技術との融合によって、インターネット社会が構築され、そのネット社会の中では、想像もできなかったようなことが次々に起き、行われてきている。

こうした技術や、社会変化は、50年前にはその萌芽すらなかったものである。そうしたことを考えると、50年先の人間社会を想像することは不可能に近い。ただ、そうした技術を基盤にした人間社会は、50年という歳月の中で想像を絶するほどに変化するとしても、人間の心の世界はゆっくりとした変化をしていくものと考えられる。

技術を基盤とした人間社会では大きな変化があったが、人間の心と係わった人間社会での変化はどうであったろうか。先ず、家族というものから考えていくと、50年前の家族と、今の家族とで何か大きな変化は起きているであろうか。三世代家族が同居して生活するという家族形態は、今でも長男や後継ぎといった家庭では起きていることであるし、  50年前とそれほど大きな違いはないであろう。ただ、そんな中で、老夫婦だけで生活する世帯の数が増えていることは確かである。それと、熟年離婚という言葉で表現されるように、高齢になった夫婦の離婚率が高くなっていることも一つの社会現象である。

また、正月の儀式や、季節ごとの祭りや儀式が簡素化されたり、消滅してしまったりといったことが起きていることも確かである。それらは、一人一人の心の中から、崇高なるものを崇めるという神的な心が希薄になっていることの表れであるように思われる。あの厳かささえも感じさせた正月の雰囲気が、今は、日常とそれほど変わることのない雰囲気になってきてしまっている。正月には休みであったデパートも、商戦と称して、元旦から開店するものも現れてきているし、一般生活者にしても買い物をするのが正月の楽しみの一つにもなってきている。

そしたことを考えると、社会が高度な科学技術に支えられるにしたがって、人間の生活が、儀式的なものから離れ、ただ、楽しく、快いものだけを目指す刹那的な快楽の世界に陥っていくことが想像される。そこには、次々に生み出される利便性、快楽が、あたかも麻薬のように人間の心を支配し、それを求めることにがまんのできない社会が作られていってしまうように思える。

おいしいものを食べ、きれいな服を着、心地の良い生活環境の中で、気をつかうことなく、好きなことだけをする人間行動が見えてくる。それは、諦めることが早い社会となって現れてくる。夫婦喧嘩が、我慢のできないものとなり、離婚率が高まっていくこと、ちょっとしたいざこざから、大きな事件へと発展していってしまう社会。道徳や倫理観の欠如した社会、皆が皆、好き勝手に振舞う社会。そんな社会が想像されてしまう。

企業にしても、その存在が、世のため、人のためとして、人類の夢を叶えたり、人々の真の幸福に寄与したりといった大義があったものから、人々の快楽を満たすための商品開発、人々の不安を煽り、それらに対して安心を与えるための商品開発といった、ただ利益を得るためだけの目的が企業に遍満していく社会になってしまうようにも思える。

ただ、その一方で、たとえ貧しくとも、一つのことに何十年と打ち込む、芸術家や、巧みといわれる人たちの生き方に共鳴する人たちが多く生まれてきていることも確かである。そして、ただ、お金を得ることだけを目指していた社会の中に、芸術と係わった世界で生きることへの憧れが生まれ、そうした世界で生きる人たちの数も増えてくるものと考えられる。

10年ほど前、細川首相が突然辞任を表明し、政界を引退して、それからは陶芸の世界に身を没する生活をしている。そして、今回は、安部首相が、心労に耐えることができず突然の辞任を表明したように、そこには、これからの日本社会の縮図が表現されているように思える。我慢のできない人が多く生まれてくる一方で、芸術的な社会に身を没する人の数も増えてこよう。

人間の心の中には、何百年、何千年と変わらずにあり続けている不易な心と、時代と共に絶えず変化していく流行的な心がある。その流行的な心が向かうものは、最先端の科学技術に支えられた快楽的な世界である。それに対して、不易な心が向かうものは、崇高なるものへの憧れと、尊敬の念であろう。それは宗教的な心でもある。科学が発達し、科学技術が社会の基盤を作り上げている現在社会の中で、ともすると私たちの心は、そうした変化の激しい社会に飲み込まれていってしまうけれど、その一方で、科学ではとらえることのできない宗教的な世界と係わることも多くなってくるのではないだろうか。

DNAの解明などによって、医療技術も大きく変化していくであろう。臓器もES細胞から生み出され、臓器を専門に作る企業も現れてくるかもしれない。そうした技術によって、人間の寿命は今よりはるかに延びてくるかもしれない。でも、どんなに寿命が延びたとしても、そこにあり続けるのは、何のために人間は生まれてきたのか、生きるということは一体どういうことなのかという、不易な心と係わった疑問符である。その疑問符に答えるために、哲学や、宗教的な営みがまた深く見直されてくるであろう。

教育にしても、かっては、読み書きそろばん的な技術を身につけることをしながら、道徳心を培うことに力が注がれていた。しかし、現代の教育は、英語、パソコン、そして資格取得と、学生たちに仕事に直結した事柄を身につけさせることが教育の重点課題となってきてしまっている。そうした中で、道徳や、自分自身で物事を考え判断するという教育がおろそかにされ、知識や、資格だけを頼りにするロボット的な人間が多く現れてきてしまうことも予想に固くない。

50年後の社会は、確かに、文明的には、通信、運輸、医療、エネルギー、といった分野において、想像を絶するような変化が起きてくることは間違いない。ただ、そのような社会の中にあって、不易な心と係わった問題は、あり続けることであろう。そして、科学が社会生活に大きな影響を与えれば与えるほど、不易な心と係わる哲学や、宗教的な事柄に、関心が高まってくることも人間として生きている以上必然的なことであろう。いずれにしても、便利で豊かな社会の中に身を置きながら、時として自分自身を見つめ、不易な心と対話する生活を維持していく工夫が求められる時代ということであろうか。

次回の討議を平成19年11月30日(金)とした。

以 上

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