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第127回 「わかるということ」

開催日時
平成21年5月22日(金) 14:00~17:00
討議テーマ
開催場所
東京ウィメンズプラザ
参加者
土岐川、塚田、下山、大瀧、望月

討議内容

今回は、「わかるということ」と題して議論した。わかるを漢字で表現すると、分かる、判る、解るの三つの表現がある。分かるは、事情が分かる、話が分かる、消息が分かるといった場合に用いられ、判るは善悪が判る、違いが判るといった場合に用いられ、解るは、意味が解る、何かを理解できるといった意味で用いられている。

このように、わかるを漢字に当てはめてみると、わかるの持っている意味がある程度はっきりしてくるが、そうした意味の違いの根底に、それぞれに共通したわかるがあるように思える。要するに、事情が分かるにしても、違いが判るにしても、意味が解るにしても、そうした意味的な判るの違いの根底に、わかることをわかることたらしめている共通なものが存在しているということだ。それは、もやもやとしていたものが、ある具体的なイメージとしてとらえられるということであろうか。ジグソーパズルで、小片のピースがいくつか結びついてくると、完全に完成されていなくても、全体の絵がある時突然見えてくる、そんなイメージの形成と関係しているように思える。それまでは、ばらばらであったものが、ある瞬間に一つのものにまとめられ、全体で一つのイメージとなってとらえられる。その力こそ、わかることをわかることたらしめている根底にある何かのように思える。

講演や、TV、ラジオなどで、人の話を聞いていると、なるほどと分かった気になるけれど、それを今度自分が他の人に説明しようとすると、なかなかうまく説明することができないことがある。これは、人の話を聞くことで、先のジグソーパズルの全体のイメージはとらえられたのだが、今度そのイメージを細かなピースにして順序良く分解していこうとすると、それができなくなってしまうということで、そのイメージが、意識とかかわってとらえられたのではなく、半分無意識的にとらえられていたということではないだろうか。

すなわち、私たちは、わかるということを意識と無意識の世界で同時に行っているということではないだろうか。よく、自分が判っていると思っていることを、文章にしてまとめようとすると、わかっているように思えていたことが、ほとんどわかっていなかったということにめぐり合うことがある。これは、先の人の話を聞いてわかるのと同じことで、そのわかるは、無意識に近い世界に形づくられたイメージであろう。それがわかった気にさせているのだけれど、今度、そのわかった気になっているものを人に説明しようとすると、意識の世界でしっかりととらえていなかったために、説明ができなくなってしまうということであろう。

これらのことを考えてくると、わかるということの基盤には、無意識の世界で作られる全体を一つとして把握する力がありそうだ。その全体を一つとして把握する力は、無意識の世界と関わる直感的な力であり、その直感が働いて、わかることの基盤が生れ、その直感によってもたらされたイメージを今度は言葉なり、数式なりといった論理的なことで表現できた時に、意識的にわかったことになるのではないだろうか。

すなわち、人間が物事を理解するプロセスとして、全体を一つにまとめあげる直感的な働きと、その一つにまとめられたものを、言葉や論理的なものによって分解し、整然と表現していく理性的な働きとがあるということだ。前者の直感的な働きは、すべての生命体に宿っていて、その働きによって、生命活動がなされている。動物が様々な環境に遭遇しながら、生命を維持できているのは、そうした変化する環境に対して、全体を一つにまとめあげる直感が働いているからであろう。それは、動物としても、あることを理解しているということになるのであろう。これに対して、人間だけは、その直感でとらえたものを、論理的なものへと変換することでより意識的に理解できる世界を作り上げているのではないだろうか。要するに、直観的理解に加えて、理性的理解が人間にはあるということだ。

腑に落ちないという言葉がある。納得できない、合点がいかないという意味で用いられているが、腑が五臓六腑をさす言葉であることを考えると、理解できる、わかるという言葉の意味の中に、体全体で理解できるという意味が含まれているということであろう。そして、その体全体で理解できるということが、先に述べた直感的に把握できたことになってくるのではないだろうか。

論理的には理解できるけれど、生命的、直観的には理解できないという時に腑に落ちないという表現がなされるが、それは、人間の理解の基盤に、普遍的とでもいえる判断基準が横たわっているからなのではないだろうか。道徳的な価値基準というのは、文化や生活様式によって異なるが、人間の本質的な道徳基盤は、上で述べた普遍的な判断基準に負っているように思う。論理的には理解できても、その普遍的判断基準に照らし合わせるとき、その論理的なものが、正しいことではないというようなとき腑に落ちないと表現するのであろう。

人の抱くイメージは、生まれ育った生活環境、世間の作り出す常識などによって、個々人微妙に異なっている。同じ言葉を使っていても、その言葉によってイメージされるものは、個々人異なっているであろう。したがって、言葉によって伝えられるものは、実はほんのわずかなものであり、本当のものは言葉では伝わらないことになってくる。禅仏教が語る不立文字は、本当のものを伝えるのは文字ではないことを語っている。

先に述べた直感と理性の関わりのように、本当のものは直観の世界で作られているのであり、言葉を使って表現した途端に、本当のものは伝わらなくなってしまう。それが生命と深くかかわるものになればなるほど、言葉では表現できない世界になってくる。夫婦の愛、恋人同士の愛、兄弟愛、といった愛は、言葉では語ることのできないものであろう。それは、互いの直感がとらえる何かであり、それ以上のものではない。

人類は、何千年という歴史の中で、哲学をし、科学をして、未知なる世界を明らかにしようと取り組んできた。宇宙の成り立ちを探求し、原子の根源を探求し、人間はどこから来たのかを探求してきているのは、まさにこの宇宙の根源に秘められた何かを知りたい、わかりたいという欲求から生まれてきているのであるが、そのわかるの究極は、哲学的にでもなく、科学的にでもなく、まさに不立文字の世界、自身の直感の中でとらえるしかないのかもしれない。

次回の討議を平成21年7月31日(金)とした。       以 上

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