- 2005-04-08 (金) 0:53
- 1992年レポート
- 開催日時
- 平成4年12月17日(木) 14:00〜17:00
- 開催場所
- サントリー (株)東京支社
- 参加者
- 古館、多田、霧島、山田、広野、佐藤、望月
討議内容
今回は、前回に引続き、「美」をテーマに話し合った。美の一つの形態として、「Simple is best.」と言う簡素化されたものに感じる美がある。この簡素化された美に対する共鳴が、日本文化を形作ったものの一つとして茶の文化がある。清潔を尊び、静寂な中で微かに響く茶釜の音、派手さを極力避けた茶器や衣装、明る過ぎず、暗過ぎもない採光。これらは、不必要なものを極力避けた静の中に醸し出された美といえるのかも知れない。そして、これらは、自然が与えてくれる美とは異なり、人工的に作られたものに対して感じる美であり、これらの美の原点には、禅仏教の根底をなしている無意識を意識化させる心の向上が働いているように思える。人工的に作られたものではあるが、そこには自然そのものになりきった、意識された心がある。日本庭園にしても、華道にしても、その極みは、何気なく感じ取っている自然、それを感じる心の無意識の世界を意識化させた目覚めた人間の存在があるように思える。
これらの美の存在を考えると、我々が感じる美には全く異なった二つの美があることに気付く。一つは、人間として生まれたことの中にすでに潜在的に存在している美を感じる心に共鳴する美であり、本性的な美と表現できるものである。美しい景色に接し美しいと感じ、快い音色に美しいと感じる心である。もう一つは、努力あるいは修行と表現した方がいいのかも知れないが、自分を自然のままに放置しておくのではなく、自らの意志で、自分自身の中に秘められている知恵を開拓することによって見えてくる美である。この美は、茶室や、日本庭園を生み出す原動力となった美である。そして、前者の美は、直感的な感性に直接働きかけるのに対して、後者の美は、無意識を意識化させた心だけに感じることのできる美である。言葉を変えて表現するならば、前者の美は、鑑賞者の美であり、後者の美は芸術家の美といえるのではなかろうか。前者の美の中には、五感を通して感じる刺激そのものが直接的に我々の感性に働きかけてくるのに対して、後者の美は、それを生み出した人の心と共鳴することによって感じる美である。前回の討議の時に話題になった、ダリの絵画に対する山田さんの美の変化は、まさに前者の美(始めはギョットしたものを感じた)から、後者の美(人間全ての中に共通に潜む自分ではなかなか気付くことのない自分を表現できたダリの透徹した心を感じたとき、その絵画を何とも言えず、美しいと感じることが出来た)への推移を表現されていたように思える。そして、我々の美が、前者の美に留まっている間は、その美を共通した美として誰しもが感じることが出来るが、後者の美に対しては、極少数の人にしか共鳴できない美となるのである。まさに、みんなに見える美と、特定の人にしか見えない美である。
利休について書かれた本の中で、利休の美が後者の美を追求していたものであることを思わせる一つの語りがある。
利休があるとき、来客を迎えるにあたり、わが子紹安に、庭をきれいに掃除しておくように頼んだ。しばらくして掃除は終わったが、利休は、その掃除された庭を見て、まだきれいになっていないので、やり直すようにと命じた。どこが悪いのかも分からず、紹安は、再び丁寧に掃除を始めた。踏み石は何度も磨き、木の葉一枚も落ちていない状態に仕上げて、再び利休を呼び、掃除が終わったことを告げた。しかし、利休は、掃除はそうするものではないと、縁側から庭におり、木の一樹を一腕押して、枯葉を何枚か自然に落としたのである。
利休の追求した美は、完成された機械的な美ではなく、自然そのものの中に見いだすことの美であった。この物語と先に示した二つの美とを重ね合わせてみるならば、この二つの美のありようがより一層はっきりとするのではないだろうか。紹安のよしとした美(清潔さ)は最初の美であり、利休の追求した美は後者の美であったように思える。
日本の町並みと、ヨーロッパの町並みとを比べてみると、ヨーロッパの町並みの方が、はるかに自然と調和のとれた美を現出させていると感じる。町の中を流れる川にしても、日本はまっすぐにしてしまうのに、ヨーロッパの国々では、それを自然のままの曲線を保持している。いつの時代からか分からないが、日本人は、自然との調和の中に根付く美意識を置き忘れてきてしまったように思える。男性優位な気風がまだ支配的である日本において、男性が美を真剣に語り、美を価値あるものとして尊ぶことをしなくなってしまったことが大きく影響しているのではないだろうか。河川工事にしても、それを担当する土木工事の技術者達に、少しでも美を重んじる心があったならば、全てをコンクリートで固めた機能本位な設計はしなかったであろう。
総合的に美を演出する技には、時間と空間との係わりが大きく影響しているのではないだろうか。東西ドイツが統一され、昔の東ドイツにおいては、新たな開発が計画され始めている。その計画の時間スケールは、日本のように数年とか十年とかいったオーダではなく、何世代にも及ぶ雄大なスケールとのこと。空間的にも時間的にも雄大なスケールで人生を考えている民族にとっては、家並や、都市設計において、自然との調和を一番に考えるであろうし、時間に追われることなく、機能優位から、美優位な価値観が展開されるのであろう。都市の形態を美という切口からみたときに、そこに表現されている美的センスは、その時代時代の民族の時空間の価値観を表現しているのかも知れない。働きバチと言われ、勤勉こそ美徳であるとして育ってきている現在の日本人の中では、時間は益々速く進み、空間は益々縮小してきているように思える。そこには、美を忘れ、機能本位で計画の進む、生命のない砂漠化した都市の姿が浮かび上がってくるような気がする。
日本の町並みが、美意識という観点から余り受け入られないことの一つの理由として、伝統的な木造建築と、西欧的なコンクリートの建物とのアンバランスがある。元々、人間の住居は、その地域の自然に根ざしていた。木の多い日本では、その土地の自然を形作っている木を基本として建築が行われ、その人工的な建物と、自然とは、違和感なく調和することが出来た。西欧においても、石造りの建物は、その地方特有の石を材料として作られており、自然そのものであった。これらの異文化が融合することによって、新しい都市が誕生してくるのであるが、その時に、美を総合的に捉えて演出する能力が日本人には欠けていたと言えるのではないだろうか。
文化を形作っているその基本には、それぞれの民族の美的感覚があり、その美的感覚の基本になっているものは、我々の無意識の世界に自然に根付いている環境との係わりがありそうだ。感性は、自然環境によって磨かれるものであろうから、環境の中で接することの出来ないものに対しては感性は研ぎ澄まされることもなく、その感性にフィットした美的感覚は生まれてこないであろう。日本のように温暖な気候の中で、草木や花等もそれほど派手でないような環境の元で生きる日本人には、淡く、彩度を殺した色彩が心落ち着くことの出来るものであり、自然に淡い色彩の中に美を感じるようになっているのではないだろうか。これに対して、熱帯地方のように、魚にしても花にしても、彩度の高い色彩に囲まれた環境の中では、人々は、彩度の高い色彩に美を感じるようになっているのであろう。そして、それぞれの民族に特有な文化が生まれている中で、異文化に触れたとき、我々の眠っていた感性が目覚めさせられ、異文化の中に息づく全く新しい美を感じとるのであろう。
これらの視覚から入った美は、音楽のリズムにおいても同じ様な影響を与えているのかも知れない。日本古来の音楽は雅楽に代表されるようにゆっくりしたリズムで、色に例えるならば、彩度の低い淡い色とも言えよう。これに対して、南洋のリズムはどことなく激しく、彩度の高い純色な色に例えることができよう。調味料にしても、南洋では刺激の高いものを求める傾向も、五感と気候風土との関わりに強い結び付きがあるように思えるのは行き過ぎた考えであろうか。
これらの事を考えると、人々の美意識の中には、芸術家の目指した無意識を意識化した不易的な美と、民族や文化の違いによって異なってくるファッション性のある流行的な美とがありそうである。
以上二回に渡った美についての討議はひとまず今回を持って終了することにした。短い時間ではあったが、美と言うものの幅の広さと、捕らえ所のなさとに改めて驚かされたと同時に、我々の曖昧とした美が、気候風土や、文化の中に染み込んでいる価値観とに大きく影響されているのであるということを強く感じた。次回からは、「コミュニケーション」について討議することとした。
次回の日程を、平成5年1月26日(火)とした。
配布資料
- 人間文化研究会討議項目
- あなたの造形美感覚(高岡)
以上
- 新しい記事: 第20回 「コミュニケーション」
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