- 2005-04-08 (金) 0:53
- 1992年レポート
- 開催日時
- 平成4年10月16日(金) 14:00〜17:00
- 開催場所
- サントリー(株)東京支社
- 参加者
- 多田、山田、広野、佐藤、望月
討議内容
今回は、先の討議の時に提案された「美」をテーマに話し合った。 一言で「美」といっても、その概念には、曖昧さと、その意味するものの広さとがあるということをあらためて考えさせられた。何をもって美の本質とするかは、永遠のテーマでもあろうが、かといって、その意味するものの広さを無茶苦茶な形で議論することは、言葉のお遊びだけで終わりかねないということもあって、この研究会での議論をある程度共通した土俵の上で進めるために、多田さんがメンバーに配布してくれた「倫理用語集」の中にある「美」についての解説を参考にして話を進めた。その用語集では美の解説として、以下のように述べている。
「人生の中で求められる独自の価値、芸術的価値とも言われる。徳を探求したソクラテスは、よく生きることと美しく生きることは同じであるといい、善美に生きることを大切にした。イデア論を展開したプラトンは、美のイデアは唯一永遠であり、エロスは精神的な善・美にむかうという。美は肉体的の美しさを表すだけでなく、精神的な美しさを表現する。美を探求することは人生を豊かで充実したものにする。」
この解説の中には、美としての考え方に、大きく分けて二通りのものがある。一つは、肉体的な美しさという言葉で表現されている物質としての美であり、もう一つは、徳に対する美としての精神的な美である。今回は、意識的にそうしたのではないが、主として、前者の物質との関わりによって生まれてくる美について話を進めた。
我々が物の形態や色彩など、物質との関わりの中で感じる美しさは、先天的なものであるのか、後天的なものであるのか。もし人類が経済的に発展していない段階で、日常の大きな仕事として食物を求め、動物や進入者から身を守ることだけに関心が留まっているような状態に於いては、美を美として感じる心の余裕など生まれてこなかったのではないか。美を感じる心は、文化が示すように、心の余裕と精神的な向上があってはじめて生まれてくるのではないか。子供と旅行をしたときなど、大人達は自然の景色に対して美しさを感じているけれども、まだ、自然の心そのままの幼い子供達は、景色に魅せられることよりも、虫や小川の流れなど、動くものに対して興味をもっていて、大人達が感じる美しさを景色に対して感じているようには思えない。大人達の美しいという言葉によって、子供達は、知らず知らずのうちに美に対する概念を作り上げて行くのではないだろうか。それが無意識の中で行われているものであるからこそ、美を感じる心は先天的なものであると思い込んでしまうのかもしれない。美を感じる心は、人類の進化の一つの証なのかも知れない。しかし、その一方で、全く意味のない色彩になんとも言えない美しさを感じたりすることもある。これなどは、先天的なものであるようにも思える。これらの事を考えると、物質的な美に対しても、感性的で先天的な美と、知的で価値観との関わりの中から生まれてくる後天的な美とがありそうである。いずれにしても、我々が美しいと感じるものに対しては、その根底には、人間の心も含め自然の流れに素直に従っているあるものを直感的に感じとり、我々自身がそれと一体となっているのであろう。花の美しさを感じるのは、意識的であれ、無意識的であれ、花そのものと心とどこかで一体となっている自分がいるからではなかろうか。
ビッグバンを、宇宙の始めとして考えるのではなく、もっと普遍的にこの宇宙に漂っているもの、それをエネルギーという言葉で代表させるのであれば、そのエネルギーの中に秘められた何か(生命力とでも言うのであろうか)に対して、見るものの心の中に潜む共通した生命力が互いに共鳴することから生まれてくる感情が、美しいと感じられるものとなっているように思える。そこには、他と自分という分離した対象物が存在しているのではなく、主客一体となった共鳴現象のように思える。そして、その宇宙生命は、人間の意識的な心の中も貫いていて、その宇宙生命と共鳴した心に人間としての徳を感じ、その美的な徳を古代の人は、仁とも、道とも表現したのではないだろうか。
山田さんは、先頃スペインへの旅行の際、ダリの絵画に触れ、始めは、その異様とも思える表現に、ギョっとしたものを感じたそうです。しかし、しばらくして、ダリの生き方を知り、人間全ての中に共通に潜む自分ではなかなか気付くことのない自分を表現できたダリの透徹した心を感じたとき、その絵画を何とも言えず、美しいと感じることができたと感想を述べておられた。これなどは、知的なものが美を生み出した例であるのかも知れないが、それ以上に、その心を自分の心の中に感じることのできた山田さんの隠れた心があったればこそ美として感じることができたように思える。美しいと言うものは、単独でこの世には存在することはできまい。そこにそれを美として感じる心がなくてはならない。その心は、意識しようとしまいと、普遍的に我々の心の底に宇宙生命と一体となって存在しているもののように思える。人間が、歪んで成長してしまうと、この宇宙生命から意識は益々隔てられてしまい、物事に感銘することが少なくなってしまうのかも知れない。子供の素直な心に共鳴したものが、それが宇宙生命を感じさせてくれるものであればあるほど、子供達の顔には、喜びを自然な形で表現した美しさがある。
我々は、美しいという言葉を、「美しい景色」といった具合いに、視覚からくる情報に対しても、また、「美しい音楽」といったように、聴覚からくる情報に対しても用いるし、また、「美しい心」といったように、五感では直接捕らえることのできない内面的なもの、概念的なものに対しても用いている。その根本を尋ねてみるならば、美しさと感じさせる心を生み出しているものは、元々我々の心の中での共通な何かなのではないだろう。目が見えなくなった人が、それを契機に本当のものが見え、感激する心が生まれてくることもあるし、盲聾唖という三重苦の中で生きたへレンケラーにしても、自伝「私の生涯」の中でヘレンケラー自身が語っているように、その心の中には、目あきの人よりもはるかに豊かな感性的な世界が展開されていたということを思うと、我々の心の世界の中にある美を感じ取る世界は、五感と直接関わりのある認識よりももっと深い心の底に共通した何かとして存在しており、五感で捕らえる物質としてとの関わり以上に、もっと内面的なものとの関わりが強いようにも思える。
今回の討論での中間的な結論として、美とは、対象となるものとの一体感の中から生まれてくるものであり、そこには、普遍で不滅な宇宙生命を感じとり、それに共鳴する心が、我々をして美しいという言葉で表現した概念となっているのではなかろうか。そして、美しいと感じさせるものには、それを美しいと感じる者の心に働きかけ、その者の中に流れる生命力を活性化させるものとなっていると言えよう。
とにかく美について考えることはなかなか骨の折れることであるといったことが今回討議に参加されたメンバーの一致した感想である。次回も引続き美をテーマとして取り上げ、特に人間との関わりが強い、精神的な美、伝統美、美徳などについて議論して行きたいと思います。
美との議論の中で、デカルトの表現した情念の問題、インディアンの社会の中で生まれてくる美など、ここでまとめた以外の多くの事柄が話題になった。これらについては、次回においても、取り上げて議論して行きたいと思います。
今後のテーマとして、「コミュニケーション」が提案されました。この問題については、今後討議テーマとして取り上げて行きたいと思います。これ以外、メンバーの中で、取り上げてもらいたいテーマがありましたら提案願います。また、望月のレポートだけでなく、議論の中で言い尽くされなかった考えなどありましたら、望月宛にお送り願います。まとめてメンバーに送付したいと思います。
次回の会合は、12月、忘年会も兼ねて1泊2日の予定で計画したいと思います。
以 上
- 新しい記事: 第19回 「美」
- 古い記事: 第17回 「情報(見えない情報)」