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第17回 「情報(見えない情報)」

開催日時
平成4年9月9日(水) 14:00〜17:00
開催場所
サントリー(株)東京支社
参加者
古館、多田、広野、望月

討議内容

今回は、新たなメンバーとして、ダイヤル・サービス(株)の広野優子様に参加していただきました。広野様は、栄養学に関する研究所に勤務の後、ダイヤル・サービス(株)に12年間勤務されています。その間、7年ほど、電話相談員としての経験を持ち、電話を通して見えてくる現在世相の裏と表について豊富な見識をお持ちの方です。豊かな経験をベースに、人間文化研究会に、新しい見解を提供していただけるものと期待しています。

今回は、前回に引続き、見えない情報ということをテーマに話合った。見える情報と、見えない情報というものを簡単な言葉で表現するならば、「見る」ということと「観る」ということに帰するのではないか。見える情報と言うのは、五感を通して与えられた情報に対し、習慣や、世襲的に出来上がってしまっている世俗的な価値観や観点から物事を捉えることによって、その情報の意味を把握しているのに対して、見えない情報と言うのは、五感を通して与えられた情報に対して、それを自らの中にある知恵によって咀嚼(そしゃく)することによって新たに見えてくる情報と言えよう。「見る」ということが、本性的、あるいは受動的情報取得であるとするならば、「観る」ということは、知恵的であり、能動的情報取得であるといえよう。従って、人間が、他人に依存したり、物に依存したりするにつれて、自らの内なる世界を内観しようとする知恵が内に追いやられてしまい、見えない情報を感知することの出来る知恵を育むことが出来なくなってしまうのであろう。ダイヤル・サービスへの相談の中には、知恵を育むことが出来なかったことによる、見えない情報を求めてくるケースも間々あるという。高岡様の考えを引用するならば、世の中が便利になることの裏側には、人間が物や機械、そして、社会に対して依存度が高くなってくる。この他者に対する依存症が、便利に対する見えない情報として働いていて、外面的な便利さとは裏腹に、内面的な世界の崩壊が始まっているとみることも出来よう。

我々が見えない情報としているものは、実は、見えないのではなく、気が付いていないということかも知れない。目から鱗が落ちたという表現は、今まで当り前に存在していた物事が、突如として、全く新しい観点から見えてきたことであろうし、それは、外界の問題ではなく、人間の内面の問題であり、そこに新たな知恵が芽生えたということが出来よう。見えない情報が見えてきたという根底には、新たな知恵の萌芽があるのであろう。

数カ月間宇宙船の中で活動していた宇宙飛行士は、五感から入る情報が毎日限られたものであるが故に、自分の身体の中の様々な部分からの呼掛けに耳を澄ますことが出来るようになり、身体の様々な部分とコミュニケーションすることが出来るようになるという。我々の日常生活は、余りにも見える情報だけに追いまくられていて、自らの内面から語りかけようとしている見えない情報に対して、耳を済ますことを怠っているのかも知れない。

人間は、対話をしているときも、電話などのように通信技術を用いたコミュニケーションに於いても、意味のある情報の他に、論理的な意味はないけれども、何かを語りかける無意識な情報をも併せて発信している。声色、イントネーション、表情、文字質などは、見える情報の真に隠された情報と言えよう。そして、これらの情報が意味するものは、仕事とか、目的とかといったように具体的に把捉できる情報ではなく、もっと人間的、あるいは生命的といってもいいかも知れないが、「優しさ」、「暖かさ」等の様な見えざる情報を含んでいて、この見えない情報に対して、人間は、昔以上に意識して価値を求めてきているように思える。それは、日常生活に於て、物事が余りにも目的的であり、そのために効率とか、利便性とかを追求してしまい、その結果として、生命体が生命を維持するためには不可欠な見えざる情報を切り捨てている現実があろう。

家族皆で料理を楽しんだり、庭掃除をしたり等々、共同作業の中から、新しい知恵が芽生えてくる。そのプロセスの中から、新しい発見があり、家族や仲間の絆が生まれてくるものである。これが、効率至上主義になると、結果のみに重点が置かれてしまう。料理は、出来上がった物を買ってきたり、外食する機会が増えてしまう。プロセスのないところに新しい発見はなく、知恵を育むことも出来ない。確かに、効率だけ、目的だけを追求するのであれば、結果だけを早く出すことに重点が置かれよう。しかし、その結果を多くの人が早く期待すればするほど、世の中の時間は益々速く動き出し、プロセスは益々短時間で済まされるようになってくる。結果の増大は、知識の増大をもたらすが、プロセスの短縮は、知恵の退化を促してしまう。

見えざる情報の欠如は、その欠如を償うために、それを求めようとする動きが必然的に起きてくる。その動きの一つが、ダイヤル・サービスに求められている電話相談であるのかもしれない。そして、プロセスの重要性を忘れてしまった家族は、内面的には崩壊し、形態的な集団としての家族や仲間ではなく、プロセスの重要性を理解し、それを分かち合う集団が、空間的な壁を乗り越えて新たに生まれてきつつある。電話の中だけのお父さんやお母さんが生まれ、電話による擬似家族が生まれてくるかも知れない。こうなると、家族とは一体なんなのかあらためて考えさせられてしまう。

以上、数回にわたって話し合ってきた変化・時間・情報というものに関し、振り返って考えてみるならば、人間行動として、その基本に情報がある。その情報によって、人間は行動し、その行動が変化を生み出す。その変化は、新しい情報となって伝えられ、人間に新たな行動をとらせる。変化→情報→行動→変化という円環構造の中心に時間があり、この円環を構成する各プロセスが短縮されればされるほど時間感覚は速くなる。逆に、各プロセスが長くなればなるほど、そこには新たな知恵が育まれるといえよう。この円環構造は、社会の中にも個人の中にもあり、社会は益々時間を速める方向に動いて行くのであろうが、個人の中には、この円環構造をなるべくゆっくり歩ませようという見えざる力が働いてくるのかも知れない。

次回からは「美」をテーマに話し合うことにした。

次回の日程を10月16日(金)とした。尚、次回打ち合せの時に、多田様が、人間文化研究会のメンバーとして、常備しておくと役立つ「倫理用語集」(山川出版、500円)を皆様に配布して下さる予定です。購入希望者は、お金を用意しておいて下さい。

配布資料

  • 高岡様からのコメント
  • 時間と変化との係わり

以上

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