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第16回 「情報(見えない情報)」

開催日時
平成4年7月22日(水) 14:00〜17:00
開催場所
サントリー(株)東京支社
参加者
多田、高岡、山田、佐藤、望月

討議内容

今回は、前回に引続き情報の功罪について、特に見えない情報について討議した。見える情報と見えない情報とをどの様に定義するかは難しい問題ではあるが、討議の過程から、見えない情報としては、言葉や文字では伝わりにくい情報、同じ内容でも人によって受取方が大きく異なる情報、無意識の内に思い込んでしまっている情報、無意識の内に感じてそれが価値観となって心を支配していくような情報といったものが浮かび上がってきた。この中で、言葉では伝わりにくい情報として、画像による情報がある。茶道について学ぼうとして、専門書を読んでもなかなか実感として把握できないことでも、漫画による解説ではその深層な部分がよく理解できる。専門書にも画像情報はそれなりに与えられているのであるが、漫画の方が、形式的なものから離れ、人間の本質的なものが伝えられ易いのかも知れない。漫画本が売れ、漫画を読む人の数が増加している現在の社会傾向には、言葉だけでは伝わらない感性的なものを求めようとする見えざる力が働いているのかも知れない。

同じ内容でも人によって受取方が異なったり、ある人には全く意味の無い情報であったりするものがある。これは受け取る人の意識が何に向かっているかによるものであり、受け取る人の趣味や、創造性によって大きく異なってくる。これらのことを考えると、見えない情報を見える情報にするためには、一人一人の創造性が強く係わってくるように思える。情報化時代が、見える情報を如何に吸収するかといった知識収集型の活動であったのに対して、ポスト情報化時代には、飛び交う情報の中に見えない情報として埋もれている情報を創造性によって見える情報にして行くことが重要になってこよう。

見えない情報を見える情報にするために必要なものとして感性がある。感性豊かな人は、与えられた情報から、様々な情報をキャッチできる。しかし、最近の日本人は、この感性が次第に欠落してきているのではないだろうか。感性の退化は、物の豊かさの中で、物事が便利になり、その便利さが故に、自分の中にある潜在的な能力を磨くことよりも、他人や、他の物に依存してしまうことからくるようだ。確かに科学技術の発展により、世の中は便利になった。恋人と会いたい気持ちが起これば、電話することによって一時的な慰めをうることもできるし、寂しいときには友達に電話したり、テレビを見たりして時を過ごすことが出来る。困ったことがあれば、電話で相談することもできる。しかし、この様な陰で、生まれてくる欲求が簡単に満たされることによって、情緒的なものを表現する能力は退化していることであろうし、自分で物事を判断しようとする知恵を育むこともできなくなってきている。この退化も、広く考えるならば見えない情報であるかも知れない。知識と知恵という二つのものの中で、とかくエリートの社会では、知識豊かなことがよいことであり、その人の価値を高めることであると思いがちなのであるが、論語ではその辺のことを次の言葉で戒めている。

子日わく、弟子、入りては即ち孝、出でては即ち弟、謹みて信あり、汎く衆を愛して仁に親しみ行いて余力あれば、即ち以て文を学ぶ。
「先生が言われた、「若者よ、家庭では孝行、外では悌順、謹んで誠実にしたうえ、だれでもひろく愛して仁の人に親しめ。そのようにして、なお余裕があれば、そこで書物を学ぶことだ。」」

この戒めは、情報化時代に生き、知識でもって全てを片付けようとする現代社会を生きる人達への警告とも思われる。

人類の歴史を見ると、人間は快楽を飽くことなく追求しているように思える。近年になって、その快楽は、科学技術をも巻添えにして、様々な快楽のための機器が生みだされている。これは私だけの思いかも知れないが、通勤や通学の途上でウォークマンに聞き入る人達を見ると、この人達が外部からの刺激に解放され、物思いにふけったり、自分自身を考えたりする時間は一体いつあるのであろうかと考えてしまう。外からの刺激を絶えず追い求めていなくては、不安でしょうがないのであろうか。自分の中にある、創造するという能力を開発することが、結局は、一番の快楽であることには気付いていないのであろう。

若者の個人化が進んでいる中で、多くの若者達は外との係わりの中で、感動を求めてきている。女性の人達のなかに競馬観戦がブームをよんでいたり、F1、相撲、野球などの人気の高まりはそのことを物語っているといえよう。これらの感動は、次第に二局分化して行くのかも知れない。一つは、与えられた情報に対して受身的に単なる感動として捉えていくいきかたであり、もう一つは、その物事に自分なりの思いを入れ込み、外の刺激を創造性を満たすものとして活用して行く捉え方である。前者は単に観戦することで満たされる喜びであり、外なる刺激を求めて、益々エスカレートしてくるのに対して、後者は、創造的に物事を捉えることによって生まれてくる喜びであり、どの様な状況でも全て楽しみに変えることの出来る何かがある。

見えない情報として、個々人の価値観もある。一流大学を出た人は偉い人であるとかいった思い込みは、個人の中に暗黙の内に出来上がってきた見えない情報であろう。この辺のことについて次回引続き討議することにした。

次回の打ち合せ予定日を9月9日(水)とした。

以上

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