- 2005-04-08 (金) 0:54
- 1993年レポート
- 開催日時
- 平成5年4月20日(火) 14:00〜17:00
- 開催場所
- KDD目黒研究所
- 参加者
- 古舘、高岡、山田、広野、塚田、土岐川、佐藤、望月、木原孝久様(福祉教育研究会)
討義内容
今回は、福祉教育研究会の木原様を講師にお迎えして、コミュニケーションについて引続き討議した。
木原さんがコミュニケーションという言葉で最初に思い至ったのは、コミュニケーションとは、触れ合いではないかということである。人間の作業が細分化されるにしたがって、人間と人間とを直接結び付ける機会が次第に少なくなってきている。昔は、何かをなそうとしてもそこには必ず人が介在していた。例えば、電車の改札にしても、従来は、駅長さんが改札をしており、そこでは、何気なく交わされる挨拶が、心と心を結び付けるものになっていた。今では、自動改札が導入され、それが当り前な状況になりつつある。そこには、自分自身が切符を機械に入れる作業があるだけで、人との触れ合いは全くなくなってしまう。銀行にしても、お金の引出しや入金が、機械化され、今まで人と人との間で直接お金の授受があったものが、そこに機械が介在するようになってきた。先頃起こった偽札事件は、人間の介在しない社会システムの中で起きた犯罪と言える。このように、私たちの生活は、知らず知らずのうちに、人と人との直接的な触れ合いが機械化されることによって希薄になっているといえる。そして、このような状況の中で生活する我々は、人間と人間との触れ合いの希薄さに対するストレスとも言える精神異常をきたしているのかもしれない。
人と人との触れ合いの希薄化は、何も一般社会だけで起きている現象ではなく、子供達が成長する上で一番大切な家庭環境においても起こっている。食べるという行為を、その主たる目的からみるならば、そこには、生命を維持するため栄養素の補給と言うことになるのであろう。そして、それだけを目的とするならば、食事は外食であっても、レトルト食品であっても目的を十分果たすことが出来る。しかし、そこには味気なさがなんとなく残る。その味気なさを感じさせるそのものが、人と人との触れ合いであるような気がする。本研究会で先に討議した情報についての中で、隠れた情報として、プロセスの中に見い出される情報と言うものがあった。お母さんの手作りの味。その味を話題として、食事に花が咲く。その花から子供達の心には実が結ばれていくように思う。朝登校する前に、お母さんとけんかをし、お母さんをののしった子供が、お母さんの手作りのお弁当を目の前にした途端、お母さんへの思いやりの心がこみ上げて来た話が紹介されたが、プロセスに込められたメッセージが如何に人の心を育てるかを改めて考えなければいけない時代にきているように思える。
家庭内で起きている分業化には、上で述べたような儀式的なものに対する分業化の他に、年齢による分業化がある。核家族の家族構造は、祖父母の存在が、家族の心と心を結び付ける暗黙の存在であることに気付かないところからきているように思える。幼子が、心に不安や悩みを持ったときに、祖母の手を握りしめているだけで落ち着き、元気が出てくるという事実は、言葉という具体的な手段ではなく、語らずとも語っているもっと高度なコミュニケーションを本能的に行っているように思える。そして、不思議なことに、このコミュニケーションは、世俗的な価値観の中にどっぷりと浸かってしまっている親達には理解できず、子供と老人との間に成り立っているコミュニケーションのようだ。絵巻物を収集しているコレクターが、鎌倉時代頃に描かれている絵巻物を調べたところ、子供と老人とが同じ場の中で働いているところが多く描かれていたという。 この事実は、昔の人の方が、無言のコミュニケーションをあるものとして感じることの出来た鋭い感性を持ち得ていたとみることはできないだろうか。
核家族化の現象は、窓際族と言われる中高年齢者の処遇ともどこかしら似ているところがあるように思える。企業もやはり生命体であり、そこには暗黙のコミュニケーションが流れているのであろう。社業に直接係わりのある仕事から離れてしまった高齢者の存在を一掃していく社会的風潮は、現在の子供達が抱えている心の問題と同じ様な内面的な危機を会社の中にはらんでいるように思われる。
これは、国民性にも依るのであろうが、日本人に限ってみるならば、その基本的な心模様は合目的的な価値観ではなく、自然や、環境などその場を構成するものすべて含む全人的な価値観によって色付けされていないだろうか。何か会議などがあると、飲む機会を設け、それによって、意味情報的な付き合いだけではなく、全人的な付き合いの中から意味情報的なものが語られていくことになる。これなども、飲むことによって、互いの持っている合目的的なだけの心を全人的な心に広げ、心の場を共有すると言う暗黙の作用が働いているのであろう。介護を必要とする老人が、合目的的に介護するヘルパーよりも、全人的な触れ合の中で介護をしてもらえる家政婦を好むのは、日本人的な特徴なのかもしれない。スウェーデンの福祉システムにおいては、ヘルパーも様々な役割を持つヘルパーに細分化されており、時分割的に異なるヘルパーがやってきても余り抵抗感がないという。
以上のことからも分かるように、日本におけるボランティアの目的は、共に居るということであり、細分化されることによって、希薄化してしまった人間と人間との触れ合いの機会を新たに生み出すことであるといえる。
共に居るあるいは共に棲むということを目的としたボランティア活動の一例として、ある青年団の活動が披露された。その青年団の活動は、従来、身体障害者の家庭を定期的に訪問し、身の回りのことをお世話することであった。しかし、最近では、身体障害者を青年団のメンバーに加え、共に活動するようになった。高齢者の介護や、身体障害者のお世話と言うことがボランティアという印象を受けてしまうのであるが、この例にみるように、本来のボランティアとは、身体障害者とか高齢者に対して向けられるものではなく、ある目的に対して向けられるものであり、その目的を遂行するためのメンバーが共に棲む機会を得ることなのであろう。
日本人は、昔から、この共に棲むということを本能的に感じ、それを日常生活の中でうまく実戦していく知恵を持っていた。おすそ分けという行為は、その一つの例である。おすそ分けを受けた者の方が、相手に対して負目を持ち続け、またいつかはこのバランスが反転する。人間関係のバランスを崩すことに依って、切れることのない心の触れ合があり、共に生き続けることになる。負目を持ち合うことが、人間関係をいつまでもよい関係に保つことの出来る秘訣なのかもしれない。木原様は、負目を持つこともボランティア活動であるという。
いままで見てきたように、日本人の心は、元々は、自分と他人という境界が西欧ほどにははっきりとしておらず、集団の中での一員という感覚の中で生きていたところがある。しかし、近年に見られるように、便利さが最も素晴らしいことであり、その便利さを助長させる科学技術を絶対としている社会情勢の中では、私たちの心は、知らず知らずのうちに、人との係わりから益々離れて行ってしまう状況が作られてきている。このような状況下に於ては、人と人とを結び付けるための教育が是非とも必要であると木原様は言う。たとえマニュアル化されたふれ合い術であっても、それを実戦して行かなければならないほど状況が悪化していると感じられているようだ。
最後に話鹿は、ボランティア活動と心の豊かさという点に進んだ。近年企業のボランティア活動への助成や、バリバリのサラリーマンが、心の豊かさを求めてボランティア活動に入って行くことが多く報告されているが、ボランティア活動をすることによって本当に心は豊かになるのであろうか。この質問に対して、木原様が講演などを通して感じられてきたことを、木原理論として報告された。それによると、人々が豊かになるため必要条件として上げる要素が6つほどある。最も関心が高いのがお金で、次には、健康、趣味、家族(夫婦)、友達、そして最後にボランティアとなる。木原様の考えとして、人間が豊かになるためには、最終的にはボランティアに行き着くのだという。ただ、上で述べた各要素が思うように満たされないことの反作用としてボランティア活動に入ってくる人がいるが、そういう人がリーダになると、相手の不幸を自分の満たされなさを安堵させるものとして利用してしまうという問題が起こってくるという。いずれにしても、人は見えざる力によって、心の内奥に存在する善的な心に引かれて行動をせざるを得ないように思える。そして、その一つの現れがボランティアの活動であるように思えるのだが。
次回は6月11日(金)、今回木原様より御講演戴いた内容を基調として、引続きコミュニケーションについて討議したいと思います。
前回の会議案内で、木原様のお名前を間違えて案内してしまいました。ここに木原様にお詫び申し上げると共に、メンバーの皆様には訂正よろしくお願いいたします。
配布資料
- コミュニケーションとは(高岡)
- 新しい記事: 第23回 「コミュニケーション」
- 古い記事: 第21回 「コミュニケーション」