- 2005-04-08 (金) 0:54
- 1993年レポート
- 開催日時
- 平成5年6月11日(金) 14:00〜17:00
- 開催場所
- サントリー東京支社
- 参加者
- 多田、広野、徳永、西山、鈴木、佐藤、望月
討議内容
今回から、新たに鈴木様がメンバーに加わって下さいました。鈴木様は、現在行動科学研究所の所長をされており、企業からの要請によって、企画書の作成や人材開発などを仕事にされています。元々は脳外科をやりたかったそうで、二つの大学の医学部に所属したり、写真技術を身につけたりもしていて、現在では趣味と仕事とが一致しているとのことです。様々な経歴を持っておられる方で、これらの経験を踏まえ、この研究会に新しい息吹を吹き込んで下さるものと期待しております。
今回も、過去三回のテーマであるコミュニケーションについて引続き討議を進めた。これまで三回の討議で得られた結果を要約すると、コミュニケーションの果たす役割として、大きく分けて二つのものがありそうだ。一つは、コミュニケーションする個人の中に新しい知恵を芽生えさせることであり、もう一つは、蓄積した情報の違いや、感性の違いによって出来上がってしまう異なったメディアを融合するための手段である。後者の役割は、コミュニケーションに参加する人の心の中に共通な心の世界を作り出すことであるということもできよう。
後者のコミュニケーションは、最近国語審議会なへどで問題になっている短縮語の使用という社会傾向の中にみられるようだ。短縮語は勿論言いやすいとかファッショナブルとか言った要素が強いのであろうが、そこには、短縮語をコミュニケーション手段として共通に使い、その意味を理解できるという暗黙の仲間意識が出来上がっているのではなかろうか。その言葉の意味を知っている人だけが共有することのできる心の世界は、地理的な共通世界である国とか、地域とかいった外的な世界とは異なる内的な世界を作り上げているのであろう。この世界は、放送や通信にみられるように、同じ言葉を理解できる者同志だけが共有することのできる世界である。こんな風に考えて来ると、言葉による心の世界と、地理的な外的世界とは、昔は一致していたのであるが、通信や放送の進歩により、これらの世界は、益々離ればなれになっていく傾向にある様な気がする。
共通語によるコミュニケーションによって作られる共通な心の世界は、必ずしも言葉だけの作用ではない。バレーボール・サッカー・野球などの球技にみられるように、競技に参加している選手は勿論のこと、それを観戦する観客は、共通なボールによって語られる共通な心の世界を作り出しているのであろう。そして、その世界が、共通なものになればなるほど、その場の中で感じる感激は大きくなるのかも知れない。人の心に感激を生み出すことの一つには、自分自身を自我の閉ざされた世界から解放し、全てのものと共通な心の世界を作り出すことのように思える。そして、その感激との邂逅を無意識に求める引力とでも表現できる力が、我々の遺伝子の中にはすでに組み込まれているのかも知れない。そして、コミュニケーションとは、この感激との邂逅を暗黙のうちに求める欲求からの行為であるとは言えないだろうか。
バレーボールの中で、我々が驚嘆しながら見るものに時間差攻撃がある。あれは、勿論訓練の賜ではあろうが、選手一人一人の間を読み取る直感カに依存していることが大であろう。コミュニケーションに於ける間の取り方も、そのコミユニケーションをよりよいものにする上では非常に大切なものであるが、この間の取り方に関する能力が近年低下してきている様に思える。子供達にとって、休日も塾通いになってしまったり、遊びと言ってもファミコンが主流になってしまったりして、友達同志での遊ぶ機会が減少してきていることや、核家族化による家庭内でのコミュニケーションの機会の減少等が、複数の人とコミュニケーションする機会を減少させ、それが、間の取り方の訓練を自然に失わせしめていることに結び付いているように思える。自閉症の善し悪しは別として、自閉症を生み出す原因の一つには、こうした日常のコミュニケーションの欠如があることは否めないであろう。自閉症に陥る子供達の多くは、自分と同じ年齢で、同じ生活をする子供達に対して自閉的になってしまうとのこと。自閉症の人にとっては、自分に何等かな期待を寄せ、自分を分身のように扱っている親は、自分と同じ年齢の子供達と同じなのかも知れない。そこでは心が開かれず、もっと違った価値観の中に生きている人には心が開かれていく。子供の心を自然に開き、家庭の中で語り合うことの出来た人が、祖父母であり、兄弟であったように思える。
コミュニケーションは必ずしも良いことばかりのために行われるものではなく、人を傷つけたり、陥れたりするためにも行われることがある。自分の心を高めるためということを暗黙のうちに目的としたコミュニケーションが、磁石のNとSとの間に生み出される引力的なものであるとするならば、人を傷つけたり、陥れたりするためのコミュニケーションは、NとN、SとSとの間に生ずる斥力的なものであると表現できようか。人を傷つけたり、陥れたりするためのコミュニケーションは、結局は、自分自身のこころを傷つけているようにも思える。人を傷つけたりすることを目的としたコミュニケーションは、その根本を考えてみるならば、自分の抱いている考え方を守るためのものであり、自分の中にある未知なる自分をさらに広げようとすることを怠っているとも考えられるからである。
赤ちゃんの泣き声は、自分の中に感じる何かをメッセージとして知らしめるものである。おむつが濡れていて不快であること、お腹がすいてミルクを飲みたいこと、眠いのに眠れないこと等。赤ちゃんの不快さを少しでも取り除こうとして開発された紙おむつは、おむつを通して交わされていた赤ちゃんとお母さんとの見えざるコミュニケーションの機会を失っているのではないだろうか。お弁当から給食への変化も、子供と母親とのお弁当を通してのコミュニケーションを失ってきているのかも知れない。もちろん給食の導入には、子供達全員に同じ様な栄養物を与えること、貪富の差をなくした昼食、暖かいものを食べさせたい等、それなりの利点があるのではあろうが、そういう見える利便性の陰で、見えざるコミュニケーションの機会を失ってきているようにも思えるのだが。前回のレポートの中で述べたお母さんと子供のお弁当を通してのコミュニケーションは、語らずとも心の奥底に響く愛のコミュニケーションであり、互いの知恵を育むコミュニケーションなのでしょう。しかし、世の中の動きは、便利さと言うことを一つの目的として進んでいて、その陰で、不快さや、感激を体感する機会が少なくなり、私達の感性的な能力が次第に衰えてきているのかも知れない。こんなことを議論して来ると私(望月)には、寺田寅彦の次の言葉が思い出されてくる。
「蓄音機に限らずあらゆる文明の利器は人間の便利を目的として作られたものらしい。しかし便利と幸福とは必ずしも同義ではない。私は将来いつかは文明の利器が便利よりはむしろ人類の精神的幸福を第一の目的として発明され改良される時期が到著することを望みかつ信ずる。」(蓄音器 大正十一年四月)
コミュニケーションについての討議は、今回で四回目を迎え、一応の句切りとして今回でこのテーマについての討議は終わることにした。この四回の討議を通してコミュニケーションの果たす役割、その本質的なことについていくらかは明るくなったような気がする。このテーマを終了するにあたり、私なりにコミュニケーションについてまとめてみたい。
コミュニケーションを行うことのその目的には、現象論的には様々なものがあるであろう。しかし、この討議を通して感じたことは、少なくとも、コミュニケーションという行為のその根源的指向性には、論語にある「和して同ぜず」という言葉によって表現された二つのものがありそうだ。コミュニケーションを通して、同じ心を共有するという「和する」ものと、コミュニケーションを通して、自分の中にある未知なる自己を自ら発見していくという「同ずることのない」もの。この二つの機能は、生命体の全てが、全体としての存在(WHOLE)と、個としての存在(ONE)とを共有しているものであるというホロン(HOLON)の考え方(清水博氏の提唱)と相通ずるところがありそうだ。そして、この全体と個とのコミュニケーションをバランスよく伸ばしていくことが、個人の、そして人類全体の幸福に結び付いていくように思える。
次回の打ち合せを7月22日(木)とした。尚、次回のテーマとしては、家族とか、夫婦のあり方とか、恋愛とか、ウーマンパワーとか様々なものが上げられましたが、男女の関係を主とした−ものとして、第一回の人間文化研究会の際に検討されたテーマの一つである「人類進化の上で果たす男と女の役割」について討議することにしたいと思います。人間文化研究会のパワフル女性メンバーに、今回またも鈴木様というパワフルな女性メンバーが加わりましたので、次回には、面白い議論が出来るものと期待しております。
以上
- 新しい記事: 第24回 「人類進化の上で果たす男と女の役割」
- 古い記事: 第22回 「コミュニケーション (福祉との係わりから)」